第5話 追放聖女が思うこと
『なに? それでお前が人格者にでもなったつもり? 聖女、なんて言うけどそんなカビ臭いものになったところでお前が化け物ってことに変わりはないのよ。そうやってあの娘を惑わせるのはやめなさい』
蔑む言葉があった。
『聖女。ようやく君に生きる意味が出来たんだ! 君のお母さんも喜んでいることだろう。勿論、君のような優秀な子供がいて私も嬉しいよ。だからしっかり使命を果たして私達を豊かにするんだよ』
欲望に塗れた眼があった。
『大侵攻などと世迷い言を。そんなもの無いではないか! 最も優れた聖女と言われていたが、いつも外に出るばかりで何もしていないではないか。それで王子である俺に小言を言ってふざけているのか! ふんっ、どうせ外に出ている間に男でも作っているんだろう。さっさとどこへでも行くがいい』
良かれと思ったことはすべて否定された。
『追え! 魔女をここで殺すのだ!』
『中々の上玉だし、殺すのは勿体ないよなぁ……呪われるのも嫌だし仕方ない』
そうして、闇の中からギラリと光るモノが貫いて――
「イヤアアアアッ!?」
飛び起きたリンは身体を這い回る不快感にガタガタと震えながら自分の身体を抱きしめた。
歯が噛み合わずにガチガチと小刻みに音を立てて、過呼吸で息が詰まりそうになる。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫」
自分に教え込むように呟きながら、皮膚に爪が立つ痛みも気にせず両腕に力を入れて自分を落ち着けようとした。
そうしてしばらく経てば全身を這い回っていた恐怖感は薄れていき、ようやく一心地ついたリンは「はぁ」と大きなため息を吐いた。
「メノラホ」
と、そんなリンの目の前に湯気のたつ取っ手のないコップが差し出される。
驚いて顔をあげると、そこには最近馴染んできた少年の顔があった。
黄金色に縁取られた血のように赤い瞳がコップの方を見ていて、リンは恐る恐るコップを受け取った。
両手で慎重にコップを持つリンを見て満足したのか、少年――ハジメはリンの枕元にある椅子に座ると足を組んで本を読み始めた。
熱心に本を読んでいる彼の尖った耳を盗み見ながら、リンは困ったようにコップの中を覗いて鼻を鳴らす。
――あ、良い匂い。
ハーブティーだろうか? コップの中を満たす透き通った茶色い液体からは爽やかな香りが香っていて、リンは慎重に口をつける。
「……苦い」
砂糖のような甘みを感じるが、それでも独特な苦みを感じて顔を顰めるリン。
あまり美味しくないとはいえ残すのは失礼だと思って少しずつ飲んでいくリンだったが、飲み進めていくと徐々にお腹が温かくなっていくのを感じた。
布団に包まれているようなホッとする温もりに気持ちが落ち着いていくのを感じるリン。
ふぅ、と一心地ついたリンは横目でハジメを盗み見る。
「くっ、ふふ……」
どんな内容なのか分からないが、とても面白い本らしい。殺しきれない笑いで肩を震わせるハジメの横顔を眺めていると、ふと顔をあげたハジメと目が合った。
ビクッと肩を跳ねさせるリンに対し、ハジメは本を椅子に置くと腰を落としたままリンに近づいて手を差し出した。
「レクテシタワ、ラカウラアーラホ、ラカルケヅタカ」
コップを渡せと言っているのだろうと予想してコップを差し出すと、ハジメは笑顔で頷いてコップを持って台所に向かう。
その背中を見送って、リンはため息を吐いた。
――このままここで暮らしていていいのだろうか? でも、ここ以外に行くところはないし……。
心配事が脳裏を過り始めるのだが、急に眠気が頭の中を多いはじめてリンは思わず大きな欠伸をしてしまう。
ともすればウトウトと船を漕ぎ始めたリンはそのまま横に倒れそうになり、その身体を固いものが受け止めた。
「ミスヤオッナネーブ」
そんな言葉を遠くに聞きながらリンの意識は閉ざされるのであった。
※
日が昇る前、ハジメの鼻歌で目を覚まし、小屋を出ていった後に起きる。
寝巻き代わりのハジメの服を脱ぎ、代わりにボロのドレスを身に纏う。
髪を紐で結び、渡された巨大な箱から食材を出して朝食の準備をしながら、リンはハジメのことを考えた。
クルクルと毛先が丸まった癖の強い黒髪に、血のように朱く金色に縁取られた縦長の瞳孔が特徴的な瞳。少し尖った耳と彫りの浅い幼い顔立ち。自分より高いが、父や殿下と比べると少し低めの身長。
耳が少し尖っていること以外、私達と大きく変わらない姿をしているのに、ヨーテス大陸にあるどの国とも違う不思議な言葉を使う少年。
膨大な魔力と謎に満ちた道具を扱うハジメはどこから来たのか。
その正体について、リンは心当たりがあった。
魔族。この世界に死と混乱をまき散らして死ぬだけの異形。魔の森の奥に住み、魔物を引き連れて気まぐれに森から出てきては国を混乱に陥れるおぞましいモノ。
ハジメが鎧を身に纏った姿は先代聖女から聞いた話に出てくる魔族とそっくりだった。
――でも、彼は理性的で感情豊かで。とても死と混乱を招く人とは思えない。
言葉が通じないから、どんなことを思っているかわからない。
だが、ハジメは穏やかで分かりやすい人だとリンは感じていた。
苦いものや辛いものを食べるときは顔をしかめるし、美味しいものを食べているときは嬉しそうに笑顔を浮かべている。
そんな彼が、見ず知らずの他人を治療して居候させてくれている人が恐ろしいものだと思いたくはなかった。
「よしっ」
最後に塩コショウで味を引き締め、料理を皿に盛り付けたリンは小屋の窓を開ける。
「ハジメ!」
「おー」
作物に剣を向けていたハジメが、片手を開けて応える。
リンが座って少し待っていれば、ハジメが小屋に帰って来て台所で手を洗う。
そうしてリンの向かいの席に座れば、二人のいつもの朝食が始まるのだ。
「イオイオカックニ」
朝食を見て、ハジメの目が輝いた。
今日リンが作った料理は、何かの肉をステーキにして、そこに摩り下ろした果物を使ったソースや野菜を添えたものだ。
最近はリンの事情に付き合わせていることもあって少しでも元気をつけてほしいと思いついたものだが、どうやら正解だったらしい。
「イーマウッゲース!」
「ナートゥリアモツイイマウゲス」
リンに何か言って肉に齧り付き、嬉しそうに声を上げるハジメを見て、リンは眩しそうに目を細めた。
彼の食事の作法はかなり悪い。
口元を汚しながらフォークで手掴みみたいな大胆な食べ方に、食事中に人に声をかける。
そんなことを実家や王宮でしようものなら「汚い」「マナーがなっていない」と顰蹙を買うことは間違いない。
高貴なる出自のものなら、貴族として、聖女として、そんな言葉を思い出したリンは、持っていたフォークを置いて、はぁ、とため息を吐いてしまう。
「……ナイクモデレコラホ」
と、リンの皿に三切れほどの大きさの肉が置かれる。
リンが顔をあげると、硬い表情をしたハジメがリンを見下ろしていた。
「エマチレスワークンモイマウ、ガイナラシカターアガニナニエマオ。イナイハニココハツヤスカヤビオーエマオ」
そう言って座り、残った野菜に手をつけるハジメ。
「……ありがとうございます」
彼の言葉は未だに分からないが、気遣いや思いやりのようなものを感じ、リンは置かれた肉を丁寧に切り分けて口に運ぶのであった。
※
ハジメに保護された頃、朝食の後にやることといえば寝ることしかなかったのだが、今のリンは違う。
『天地に住まわす我らが神よ、どうか彷徨える我らに救いの手を』
森の中、瘴気に満ちた場所でリンは浄化の詩を歌う。
詩を終えたリンは、呑気に座っている鎧を纏ったハジメの方へと向う。
「んっ」
「ありがとうございます」
水筒を渡され、注がれた水を飲む。
詩に夢中になっていたせいで気づかなかったが、身体は随分と乾いていたらしい。
喉を通る水の心地よさに、ふぅ、と一息吐くリン。
「カルドモロソロソ」
「……いえ、まだ近くにあるのでもう少し」
小屋の方を指差すハジメの提案を、首を振って拒否して反対側を指差すリン。
リンの脳裏には、数日前に発生した魔物の
魔物にもたくさんの種類がいるが、その中でも特に強力で危険な魔物が瘴気の地から発生することがある。
大侵攻は、そんな魔物が大量発生して周囲の悉くを滅ぼす現象のことだ。
大侵攻の原因は判明していないが、多くの場合瘴気の地が増えることで発生するというのが定説。
事実、瘴気の地の気配はこの数日で増える一方だった。
「……カノナトコルスガマエオハレソーアナ? ゾダンタテッナニウソレサロコハマエオテーダ。テレワソォニノナンヘテシオガケオオ、ヨダンルナニンナ」
不機嫌そうに腕を組み、低い声色で言うハジメ。
兜のせいで表情は分からないが文句を言っているのだろう、というのはリンにも察することができた。
だが、リンに瘴気を払うと言う選択肢はなかった。
「ごめんなさい。でも、私がやらないといけないんです」
エーゲモード王国の聖女の使命というのもあるが彼女の心の中にあるのは、常に妹達と民のことだ。
生まれつき魔法の操作に優れ、類まれな身体能力を持っていたリンは人生を全て聖女の使命に捧げてきた。
両親や婚約者に化け物と言われようが気味が悪いと言われようが構いはしない。
戦うことしかできない自分を「お姉様」と慕ってくれる妹や弟。
「これもどうぞ」「いつもお疲れ様です」朝早くから街を出て夜遅くに戻る自分に、声をかけてくれたり差し入れをくれる民たち。
彼ら、彼女らを護る為なら自分がどうなっても構わない。それが昔からのリンの想いだった。
自分がいなくなった今、次に聖女になるのは次女のアンフィの筈だ。
だが、アンフィは魔法の才に長けているがまだ幼い。他の聖女候補も見たことはあるが、自分のように瘴気の地で戦い瘴気を払うほどにはまだなれないだろう。
「これ以上、大侵攻を起こすわけにはいかないんです」
今回の大侵攻は小規模で、ハジメと二人だから撃退することができた。
しかし、これが伝承に伝わるような規模になった時に果たして護れるのか。
「だからお願いします。あと一箇所、あと一箇所だけ」
リンが頭を下げて懇願する。
森の中で出会う魔物の相手を率先してもらっているし、面倒なことをお願いしているのは分かっている。
でも、こうしないと護れない。
下げられた頭に対する返答は、痛みだった。
「いたっ!?」
「ガカバ」
ハジメがリンの後頭部に拳を落としたのだ。
目を白黒させるリンに、ハジメはため息混じりに言う。
「ナンゲサテンナマタア。ナンスモオカイラク。ゾンエカテーイトサーサ」
顔を上げろ、ということなのだろうか? 小屋の方とは反対方向に歩き始めるハジメの背中に拒否しているような雰囲気は感じられなかった。
それが無性に嬉しくリンは小走りにハジメの横に並ぶと、少し高い彼の横顔を見上げて、
「ありがとぉ――?」
ビリッという音に首を傾げて下を見ると、ボロのドレスのスカートが枝に引っかかって破れてしまっているのだった。
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