第32話 大切な友達

 青く高い空に真っ白な背の高い雲が伸びる。

 鮮やかに空の青を映す小学校のプールで、ほたるはその時を待つ。

 この日のために準備してきた練習後のタイムトライアルの順番が、もうそこまで迫っていた。

 濃紺の水着の中で自分の心臓の鼓動が鳴っている。ほたるは胸の内側で躍動するその音を膝を抱えたまま聴いていた。

 平泳ぎのグループの計測が終わり、最後の泳者がプールから上がると、とうとうその時がきた。

 賑やかな蝉の鳴き声の中で、ほたるはスタート台へと上がった。


「ほたるちゃんガンバレ!」


 詩織の声援にほたるは手を軽く上げて応える。

 独特の緊張感を感じつつ、ほたるは体育教師のスタートの合図に耳を集中させる。


「よーい」


 ピーッ!


 鋭い笛の音と共に、ほたるは勢いよく飛び込んだ。

 シューっと細かな泡が流れていく音。

 ほたるは周りの男子が浮き上がって腕をかきだす中、キックだけでどんどん進んでいく。


 テル……。


 ほたるは見たことも無い親友の幻影を追いかけるように浮き上がり、腕をかく。


 君に教わったことを全部出し切る。


 あっという間に25メートルをターンして、またキックを使ってどんどん進む。

 少年が教えてくれた泳ぎ方のコツ。

 姿勢を安定させるためのキックがほたるの体を前へと運んでいく。

 浮き上がって腕をかきだしても、そのスピードが落ちることは無かった。

 水面から両肩が綺麗に浮き上がると、腕がスッと前に伸びてゆく。

 効率の良くなった腕のかきがキックのリズムと噛み合い、ほたるの体はまるで水面を縫うかのように進んでいく。


 テル、君と一緒に泳いでみたかった。


 たくさんの歓声の中で、ほたるは勢いを落とすことなく50メートルを泳ぎ切った。

 音の無い水の中から顔を上げると、太陽の眩しさがほたるの水色のゴーグルに射し込んできた。

 一着でゴールしたほたるの耳に、詩織の喜ぶ声が聴こえてくる。

 肩で荒い息をするほたるに、ストップウオッチを手にした先生が明るい声でタイムを告げた。

 ほたるは天を仰いだまま目を閉じた。眩しい陽射しの中、見たこともない少年の笑顔が瞼の裏に見えた気がした。



 ほたるよりも大喜びしている詩織と二人で、今日はジュースで乾杯していた。


「やったねほたるちゃん。バタフライ受かっちゃったね」

「ありがとう。詩織ちゃんが練習に付き合ってくれたおかげだよ」

「ホントに1級獲れそうだね。応援してるよ」

「私のことより詩織ちゃんも頑張りなよ」

「無理無理、まだ私、25メートルがやっとなんだよ。あと三回しか水泳教室無いし、最終日はタイム計るだけだから二回しか練習できないんじゃ無理だよ」


 まだ50メートルを泳ぎ切れていない詩織は、今のところ練習後のタイムトライアルに挑戦できていなかった。


「じゃあ中学でリベンジね」

「やっぱり水泳部に入るつもりなんだ」

「まあね。詩織ちゃんと一緒がいいなー」

「私にも選ばせてよ。部活いっぱいあるんだしさ」


 甘いジュースを飲みながら詩織と過ごすお昼どき。

 緩やかに流れるひと時に心地良さを感じながらも、ほたるはテルを想うのだった。



 夕方ほたるは、いつもより早めに家を出た。

 潮風の強くなった海沿いの道を、ほたるは自転車で疾走する。

 早く着いたとしても話を出来るわけではない。

 それでもほたるは、はやる気持ちを抑えられなかった。

 ずいぶん早く着いてしまい、タバコ屋の店先で海を眺めながらその時を待つ。


「すごく綺麗……」


 どうしてだろう。今日の海は本当に綺麗だった。

 それはきっと、今日が私にとって本当に特別な日だからだ。

 テルとの最後の日。

 私には何もできない。

 ただ今日タイムを切れたって言うだけ。

 テルはきっと明るい声で喜んでくれる。

 それでいい。

 それだけでいい。


 頬をまた涙が伝う。

 少しまた日が傾きかけた時だった。

 通り過ぎて行った三台の自転車をぼんやりと眺めていると、その自転車が戻って来た。


「何だ? 熊女じゃねえか」


 矢島だった。いつも一緒の男子二人もいる。


「こんなところで何やってんだ?」


 矢島はうっとおしそうな顔をするほたるに近づいてきた。


「あんたには関係ないでしょ。さっさと消えなさいよ」


 カチンときたのか、矢島はしつこくほたるに話しかけてきた。


「おまえ今日タイム切れたからって調子に乗ってんだろ」

「いいから私にかまわないで」

「何だ? 誰かと待ち合わせか? 誰が来るか俺たちも一緒に待ってやるよ」


 ほたるはふざけ始めた男子三人を睨みつけた。

 もうあと十五分くらいで電話がかかってくる。

 それまでにこのしつこい男子たちを何とかしなければいけなかった。


「あんたが帰らないんなら私が帰るわ」


 ほたるは吐き捨てて自転車に跨る。

 一度帰ったふりをしてまた戻って来よう。そう考えたのだった。

 さっさと背を向けて自転車をこぎ出したほたるに、矢島は何を考えているのかついてきた。

 ほたるはそのしつこさに大声で怒鳴った。


「なんで付いてくんのよ!」

「俺もそっちに用があるんだよ」

「じゃあ私はこっちに行く!」


 ほたるは反対方向に向かって自転車をこぎ出す。

 しかし矢島たちは、またしつこくほたるを追いかけ始めた。

 ほたるは自転車を力いっぱいこぎ出す。

 それでも矢島たちはほたるについてきた。

 一生懸命ペダルをこぐほたるだったが、男子のスタミナは想像以上だった。


「いい加減にしなさいよ!」


 振り返って叫んだ時だった。

 ハンドルがぐいと引っ張られるような感覚。

 前輪が荒れた路面のくぼみに嵌ってハンドルを取られたのだった。


 あっ。


 一瞬だった。


 ほたるの視界は縦から横に変わっていた。


 一瞬の無重力の後に痛みが襲って来た。


「やばい。矢島、逃げようぜ」

「いや、でも、ほっとくのか」

「こいつが勝手にこけたんだ。いいから逃げようぜ」


 慌てて逃げ出した男子たちの声がうつろに聴こえてきた。ほたるはあちこちの鈍い痛みを感じながら立ちあがった。

 転倒した自転車に、痛みをこらえて駆け寄る。

 日が沈みかけている。もうあまり時間が無い。

 自転車を起こして跨った時、タイヤが変形していることに気付いた。

 すぐに自転車を諦めて、ほたるはもと来た道を走り出す。


 テル。


 沈みかけた夕日の美しい海沿いの県道。

 体のあちこちの鈍い痛みを忘れるほどに、ほたるは顔も知らぬ大切な友達のことを想い走った。

 水平線に半分沈んだ夕日が、ほたるの小柄な体を照らし出す。

 誰もいない県道を急ぐほたるに長い影がついてくる。

 まるでその引きずる影に何らかの質量があるかのように、ほたるの足どりは重い。

 そのおかしな走り方から、どこかしらを痛めているのは明らかだった。

 それでもほたるは息を切らしながら走り続ける。


 今日タイムを切れたことを伝えるために。

 君の明るい声をもう一度聞くために。


 テル。


 ようやくあと50メートルくらいにタバコ屋が近づいてきた。

 ほたるは肩で息をしながら走り続ける。


 まだ鳴らないで。


 ほたるはそう願った。


 鳴らないで。


 リリリリリ。


 潮騒の音に混じってベルの音が聞こえてくる。


「待って!」


 ほたるは叫ぶように願いながら走り続ける。


 もう少しなのに。


 そして電話は鳴り止んだ。

 潮騒の音だけが静寂の中に残る。


 そんな……。


 リリリリリ。


 ふたたび電話のベルが息を吹き返す。


 ほたるは必死で受話器を取ろうと痛みも忘れて走る。

 あと10メートルほどの所でほたるは最後の力を振り絞った。


「届いて!」


 そしてほたるの手が受話器に届いた。


「テル!」


 ほたるの耳に当てた受話器からは何も聞こえてこなかった。


「テル!」


 必死で呼ぶ声が誰もいない県道に響く。

 ほたるは受話器を電話機に戻した。

 そしてもう一度ベルが鳴るのを願うように待つ。

 たくさんの涙が足元を濡らし、暗い夜空に明るい星が瞬きだしてもベルはもう鳴ることは無かった。

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