第31話 願いを言葉に

 ほたるは詩織を誘って海に泳ぎに来ていた。

 しばらくちゃんと練習していなかったバタフライ。

 テルが残してくれた大切なものを無駄にしたくなかった。


 今私にできること。


 明日の朝に目標タイムを切ることが出来たら、その日の夕方、最後の電話で報告できる。

 大切な友達の喜ぶ声を最後に聴くために、ほたるは準備したかった。


「ごめん、詩織ちゃん。付き合ってもらっちゃって」


 くたくたになるまで泳いでから、ほたるはゼイゼイ息を荒げながら砂浜に寝転がった。


「ほたるちゃん頑張ってるね」

「うん。どうしてもタイム切りたいんだ」


 詩織は倒れ込んだまま応えたほたるに笑顔を見せた。


「私さ、勘違いしてたみたい。てっきり矢島に対抗心持ってるって思ってた」

「え?」

「テル君なんでしょ。ほたるちゃんのライバルって」


 詩織のひと言にほたるは身を起こして、へへへと笑って見せた。


「実はそうなの。泳ぎを教えてくれたのもテルなんだ」

「やっぱりね。そうだと思った」

「ごめんね、黙ってて」

「いいのよ。私はテル君の友達だけど、ほたるちゃんはテル君にとって特別なんだから」

「え? どういう意味?」

「分かんなくっていいの。さあ私も頑張ろうっと」


 はぐらかして海に駆けて行った詩織の後ろ姿をほたるは見送る。

 詩織といると少し気持ちが軽くなる。

 ほたるはこの時、詩織にとても感謝していたのだった。



 午後三時まで海で練習した後、へとへとになって家に帰ると源三が縁側でほたるを待っていた。


「ほたる、さっき連絡があってな、あの人今日故郷に発つんだって」

「え? そんなに急に?」

「じゅうぶんデータもサンプルも採れたし、少しでも早く帰って星の子供たちを救いたいんだってさ」

「うん。そうだよね……」


 ほたるはそのことを素直に喜べなかった。

 テルの父親がこの星を去るということは、あの電話も回収されてしまうということだったからだ。

 ちゃんとしたお別れも出来ずに、このまま少年と話せなくなってしまうということをほたるは受け容れられず、呆然としてしまっていた。


「少し急ごう。そのまま発ってもいいみたいだが、どうしてもわしとほたるに最後会いたいって言うとった」

「分かった。行きましょう……」


 源三とほたるがあの岬に着くと、先日映像を通して会った仲間の研究者もほたるたちを待っていた。

 軽トラを降りるなり、ほたると源三は二人から握手を求められた。

 ほたるは三次元ホログラムで二人とは面識があったが、源三とは初顔合わせだったので丁寧に自己紹介をし合う。

 これから帰還しようとしている彼らとは、ここでそれほど長く話をできるわけでは無かった。話もそこそこに、やがて慌ただしくお別れの時が来た。

 あのパーフェクトケースのモニターを見ていたカイロンが、仲間の二人を促した。


「そろそろ軌道に乗る時間だ。二人とも準備してくれ」


 源三との話を切り上げて、先日ベルムと名乗った浅黒い皮膚の男がほたるにぺこりと頭を下げた。


「この間はごめんね。君とおじいさんのおかげで我々の星は救われそうだ。本当にありがとう」

「いえ、お役に立てて良かったです」


 そしてトレフと名乗った髪の長い女性が、魅力的な笑顔で二人に頭を下げた。


「あなた方のご親切、決して忘れません。いつか必ずお礼に伺います」


 ベルムとトレフは流暢な日本語で二人に感謝を伝えた。


「カイロン、お前は散々ルールを破ってくれたが、俺たちはそのことは黙っておくよ。逆に良くやってくれたと礼を言わないとな」

「そうね。最小限の接触で良質なサンプルを短期間で手に入れられた。結果的にあなたの手柄ね」


 二人に褒められてカイロンは苦笑いを浮かべる。


「俺は何にもしてないよ。ほたるちゃんと源三さんの手柄だよ」


 カイロンは誇らしげに二人に目を向けた。


「本当にありがとうございました。お二人に受けたご恩は必ずいつか返しにきます」

「わしは大したことしとらんよ。大したやつはこの孫娘と……」


 源三は何本か抜けた歯を見せて笑った。


「あんたの娘さんだよ。カイロンさん」

「え? 娘って? テルは私の息子ですが」


 最後の最後にとうとうバレてしまって、ほたるは顔をしかめた。

 源三はしてやられたと、ジロリとほたるを睨んだ。


「おまえ、ずっとわしをたばかってたんだな」

「ごめん。まあいいじゃない細かいことは」


 色々言いたいことがありそうな源三だったが、もうすぐ旅立つ三人を気にして追及は後にすることにしたようだ。


「じゃあ、お元気で」


 擬態させていた三台の探査船が姿を現す。

 トレフとベルムはもう一度お礼を言ったあと、先に探査船に乗り込んで再び船を擬態させた。

 最後に残ったカイロンに、なんとなく空を見上げたままの源三が尋ねた。


「あの二人、もう行ってしまったんかの」

「ええ、月の裏側に停泊してある母船に飛び立ちました。私も今からあとを追います」


 カイロンは少し名残惜しそうに源三に握手を求めた。


「源三さん、本当にお世話になりました。いつまでもお元気で」

「ああ、あんたもな」


 そしてカイロンはほたるに握手を求めた。

 あまり元気の無い様子で手を伸ばしたほたるに、カイロンは固い握手を交わしながら笑顔を見せた。


「あの電話機のことだね」

「はい……」


 カイロンは握手している手を放すと、ほたるの肩にそっと手を置いた。


「ほたるちゃん。本当は回収しなければいけないんだが、あの電話を置いていくよ。最後は君がテルと話してやってくれ。きっとあいつもそれを望んでいると思う」

「本当に? いいんですか? そしたらカイロンさんがテルと話せなくなるんじゃあ……それにまたルールを破ることになるんじゃないんですか?」

「うん、そうだね。でもいいんだ。これが父親としてテルにしてやれる最後のことなんだ。勝手なお願いだと思うけど、どうか君のその元気な声であいつを送り出してやってくれないか」


 カイロンは息子を想う父親の顔を見せた。

 ほたるは少し声を震わせて応えた。


「分かりました」


 息子との最後の電話を託してくれたカイロンの気持ちに、ほたるは応えたいと気を引き締めた。

 そして最後にカイロンは目頭を紅くしながら笑顔を見せた。


「ありがとう。テルは君に出会えて本当に幸せだ」


 探査船のハッチが開いて、カイロンは杖をつきながら、ゆっくりと船に乗り込んでいった。


「さようなら。親愛なるお二人に永遠の幸せがあらんことを」


 そしてハッチが閉じると一瞬で探査船は消え去った。


「行っちゃったね」

「ああ、行ってしもうた」


 何もない高い空に二人は手を振る。

 きっとカイロンからはこちらが見えているのだろう。


「お元気で!」


 ほたるの大きくよく通る声は、きっとカイロンに届いている。

 源三は手を振り続ける孫娘の頭を撫でながら高い空を見上げていた。



 カイロンが旅立ったことをほたるはテルに告げた。

 テルは何度もほたるに父親が世話になったお礼を言った。

 ほたるは少し照れながらテルとの会話を噛みしめる。


「父さん、電話機を回収しなかったんだね。僕はほたると話せてありがたいけど、良かったのかな?」

「なんだかホントは駄目みたいだったけど、テルのために置いていくって言ってた」

「ホント? 思い切ったことするなあ。後できっと怒られるだろうな」

「いいんじゃない。テルのことを第一に考えてくれているんだよ」

「まあ、こうして今日もほたると話せているし感謝かな」


 テルは明るい声をほたるに届ける。

 それだけでほたるは嬉しいのだ。


「ねえ、今日は午前中ずっと練習してたんだ。明日、プールでタイム切ってやろうって思ってるの」

「ほたるはすごいね。じゃあ明日はいい報告楽しみにしてるね」

「うん。期待しといて」


 明日がテルとの最後の電話になる。

 そう思うとまた普通に話せなくなってきた。

 そしてほたるの耳に、またテルがあの言葉を聞かせてくれた。


「今日も一つお互いのことを言い合おうよ」

「うん。じゃあ、今日はテルから言って」

「そうだね……」


 テルは少し考えるように言葉を切った。


「ほたる、君は僕にとって特別だ」

「え、何よ急に」

「特別な君にだけ本当のことを言うよ」

「うん……」


 少しの沈黙の後、テルの声が再び聞こえてきた。

 その声は少し震えていた。


「怖いんだ」

「テル……」

「明日の手術。君と明日電話で話をしたあと、すぐに僕の手術が始まる」

「うん……」

「本当にまたこうやって君の声が聴けるのか不安なんだ。どうしようもなく怖いんだ」


 電話の向こうの少年の声は、今まで聞いたことの無い不安そうな声だった。


「生きていたいんだ。そしていつか君に会いたいんだ」

「テル……」


 ほたるは受話器を持っていない方の手で、Tシャツの胸の辺りを皺になるほど握りしめた。

 押さえていたものが張り裂けてしまいそうなくらい膨れ上がる。

 そしてとうとう胸の中にしまっていたものが溢れ出した。


「テル! 手術しないで!」


 ほたるは叫んでいた。


「手術したらテルは死んじゃう。そんなの嫌。いや、いや……」


 もはやカイロンに止められていたことなど、激情に駆られたほたるの頭から消し飛んでいた。

 溢れる感情をそのままほたるは言葉にした。


「ほたる? あれ、どうしたんだろう急に何も聞こえなくなった」


 テルの反応を聴く限り、銀河コミュニケーションサービスのAIが干渉しているのは間違いなかった。

 生死に拘わる情報を封鎖すると言っていたカイロンの言葉どおりだった。


 テルの声が突然聞こえなくなった。


「テル? テルどうしたの?」


 そして受話器から無機質な音声が聴こえてきた。


「こちらは銀河コミュニケーションサービス情報管制センターです。ただいまパラドックスに関わる情報の流れを検知しました。復旧までしばらくおまち下さい」


 ほたるはこのまま通話できなくなってしまうのではないかと青くなった。


「なお、この電話機で再びパラドックスに関する情報が検知された場合、直ちにサービスを停止させていただきます。くれぐれもお気を付けください。ではサービスを再開いたします」


 無機質なアナウンスが止んだ途端、不安そうなテルの声が聴こえてきた。


「ほたる。ほたる。返事をしてくれ!」

「テル。聞こえてる。聞こえてるよ」

「ほたる……」


 心からほっとしたような声だった。


「ごめん。なんだか少し調子が悪くなったみたい」

「びっくりしたよ。もう話せないのかと焦った」

「もう大丈夫だよ。テル。私がついてる」

「うん。ありがとう」


 ほたるは思い知らされた。もし、もう一度パラドックスに関わることを話せば、もう二度とテルと話せなくなるのだと。

 無力な自分に涙が溢れた。


「ほたる? どうしたの」

「え、ううん。私もちょっと今ので不安になっただけ。大丈夫だよ」

「そう。なら良かった」

「テル」

「うん」

「私も特別だよ」

「え?」

「私にとってもテルは特別なんだ」


 ほたるはこの時はっきりと知ってしまったのだった。自分にとってこの少年がかけがえのない存在だということを。

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