第30話 お互いのことを話そう

 あと数日しかない水泳教室。

 昨日のカイロンの話を聞いて重い気分を引きずったままのほたるは、練習後のタイムトライアルで、明らかにいつもの精彩を欠いていた。


「どうした熊取、ちょっとタイム落ちてきてるぞ」


 体育教師がストップウオッチに目を落としながら、荒い息をつくほたるに声を掛ける。

 ほたるは何も言わずに、そのままプールサイドへ上がって座り込んだ。


「なんだか元気ないね」


 へたりこむほたるの肩に、詩織がバスタオルを掛けてくれた。


「ありがと。なんだか調子悪くって」


 本当は詩織に話して気持ちを軽くしたかったけれど、あのことを聞いたあとでは余計に話し辛かった。


 まさか、テルがもう何処にもいないなんて言えないよ……。


 また思い出してしまい、着けたままのゴーグルに涙が溜まって来た。


 詩織ちゃんには言えないよ……。


 詩織には、あの電話機が回収された後に、真実を話してくれとテルから頼まれていた。

 ほたるは、あと三日しか話せないテルのことを詩織に伝えられない自分に、どうしようもない憤りを感じていた。



 二人は水泳教室のあと、駄菓子屋の前の安っぽいベンチで、恒例のアイスを齧る。

 少し風のある晴天の午後。二人ともあまり食べたくも無さげに、黙ったまま冷たい感触を味わっていた。


「ほたるちゃんってさあ」


 詩織はぽつりとつぶやく様に口を開いた。


「テル君のことどう思ってるの?」


 ほたるは食べるのをやめて、駄菓子屋の椅子から見える海に目を向ける。

 一呼吸おいてからほたるは口を開いた。


「きっと詩織ちゃんと同じだよ」

「私と同じ……」


 詩織もほたると同じ様に視線を海に向けた。

 遠くに見える白波を見つめながら、詩織はまた話し始めた。


「ねえ、ほたるちゃん」

「うん」

「私さ、今日からしばらく電話に出られそうにないんだ。だからテル君のことお願いね」

「えっ? そうなの」

「うん。テル君のことはほたるちゃんに任せた。任されたからには頑張って」


 遠くの水平線に目を向けたまま、詩織はそう言った。

 その遠くを見つめる目が、はるか遠くの会ったこともない少年に向けられているのをほたるは感じていた。

 そして詩織の手にしていた棒から、溶け始めたアイスがスルリと滑り落ちた。

 詩織はアッと言ってから、小さくため息をついた。


「あーあ、やっちゃった」

「油断しちゃったね」

「ほたるちゃんは落とさないでね。ちゃんと最後まで味わうんだよ」


 砂粒の上に落ちたアイスは、そのままゆっくりと溶けていく。

 もう味わうことのなくなったアイスを残して立ち上がった詩織は、少し寂し気な笑みを浮かべていた。



 テルはいつものように電話を掛けてきた。

 落ち着いた優しい声。

 この声を聴くのがいつの間にかほたるの楽しみになっていた。

 また涙が滲んでくる。


「ほたる? なんだか元気なくない?」

「あんたに言われたくないわよ。元気は私の専売特許なの」

「専売特許って?」

「またそれを言うか……」


 ほたるとテルはいつもの会話を噛みしめるように愉しむ。

 少年の運命を知っていながら何もできない少女と、明後日に危険な手術を控えながら心配させまいと言い出せない少年。

 押し潰されそうな痛みを胸に抱えながら、ほたるは今を楽しむのだと必死に自分に言い聞かせる。


「今日もお互いのこと、一つ言い合おうよ」

「うん。じゃあ今日は私から」


 ほたるはこらえきれずにまた涙を流す。


「私、本当は髪の毛長くない。前髪ピッチリのショートヘアなの。色黒でチビで痩せっぽちなの。目だってそんなにおっきくないんだ」

「じゃあ、僕のイメージどおりだ」


 明るい声が返って来た。


「君のイメージ勝手に想像してたんだ。この前聞いた感じとずいぶん違ってたけど」

「がっかりしたでしょ」

「まさか。ますます君に会いたくなったよ」

「嘘つき」

「嘘じゃない。本当にほたるに会いたいんだ」

「私もだよ……」


 ほたるは頬を涙で濡らしながら微笑んだ。


「じゃあ、僕の番だね、君が勇気を出して言ってくれたことに僕も応えるよ。実は明後日手術を受けるんだ」


 死の恐怖に抗いながら少年は明るい声で言ったのだった。

 全てを知っているほたるには耐えられない一言だった。


「心配しないで。ちょっとした手術なんだ。この手術が終われば今より元気になれるんだ。それでもほたるには敵わないだろうけど」


 ほたるは強がるテルの言葉に唇を噛む。


 嘘つき……。


 ほたるは込み上げてくるものをこらえて、できるだけ平静を装う。


「私に敵うわけないじゃない。あんたなんか秒殺なんだから」

「手厳しいね。まあそういうことなんだ。僕の方はそれだけ」

「ねえ、テル」

「うん、なあに?」


 ほたるは言葉に詰まった。

 カイロンからAIによって生死にかかわる情報は伝えることが出来ないと聞かされていた。

 伝えようとすれば、たちまち通話に干渉を受けてしまうということを。


「あのね、テル」

「うん」

「なんでもない」

「もう、ほたる、からかわないでよ」


 声が震えてしまわないよう気をつけながらほたるは笑った。

 テルの明るい笑い声が返ってくる。

 何時までも、何時までも聴いていたいと、ほたるは願った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る