第33話 通り過ぎて行った夏

 電話に出ることのできなかった翌日も、またその次の日も、ほたるはずっとずっと毎日、テルからの電話を待ち続けた。

 しかしあれからピンクの電話が鳴ることは無かった。


 夏休みが終わりに近づいて、水泳教室最後の進級テストが始まった。

 あちこち怪我をしていたほたるだったが、そこいらに絆創膏を貼ってはいるものの、もうすっかり痛みは無くなっていた。

 ふざけてほたるを追いかけ怪我をさせた少年たち三人は、女の子に怪我をさせたと、狭い町ですぐに噂になり、相当こっぴどく怒られた様だった。

 頭に大きなコブを幾つも作って謝りに来た男子三人に、ほたるはなんの関心も示さなかった。

 ほたるは自分のことよりも、不安を抱いたまま手術を受けたであろう、もう声を聴くことの出来なくなってしまった大切な友達を想い、何度も泣いたのだった。


 ごめんなさい。


 無力な自分に石をぶつけるように何度も責めた。

 後悔をし続けることしかできない自分の小ささを思い知った。


 それでも。


 ほたるは一人スタート台に立つ。


 もう二度とあの明るい声を聴けないのだとしても、私が1級を獲ったならテルの足跡がまた一つ私の中に残るのだ。


 1級の100メートル個人メドレーのタイムに挑戦するのはほたるだけだった。

 個人メドレーはまずバタフライから始まり、背泳、平泳ぎ、自由形の四種目、それぞれ25メートルを続けて一人で泳ぎ切る。

 怪我をしていたせいで、まともに練習出来ていないほたるにとって、この100メートルは未知の挑戦だった。

 独特なプールの匂い。緊張を押さえようとするかのように、ほたるは大きく息を吸い込でゆっくりと吐いた。

 皆の注目する中、きらめく水面を前に、今その時が訪れようとしていた。

 自分の胸から伝わってくる鼓動の速さを感じながら、ほたるは静かにその瞬間を待つ。

 そして、とうとうその瞬間がやって来た。


「よーい」


 ピーッ!


「いけー! ほたるちゃん!」


 大勢の歓声の中にひときわ大きな詩織の声が響く。ほたるは詩織の声援に背中を押されるようにスタート台を蹴った。

 空中を舞ったほたるの体は、滑らかな放物線を描きながら、綺麗に指先から入水していった。

 濃紺の水着にまとわりついていた細かな気泡が、シューっという音と共に後ろに流れていく。

 ほたるは殆ど音のない世界で、少年から教わったしなやかなキックを打ち、水を縫うように進んでいった。


 テル。私、上手くなったよ。きっとあなたに負けないぐらい。


 殆ど音のない世界で、ほたるは少年の名を心の中で呼んだ。


 テル。見ていて。私はきっと。


 もう得意種目になってしまったバタフライは、あっという間にほたるの体をプールの向こう側まで運ぶ。

 ターンをして背泳ぎに入ったほたるは、再びドルフィンキックで距離を稼ぐ。浮き上がって腕をかきだしたほたるは、まだ疲労を貯めていない体でスムーズに進んでいった。

 そして背泳ぎの次は得意な平泳ぎだ。一気に泳ぎ切り、ほたるは最後のターンをする。

 賑やかな声援の中、残った体力を振り絞って最後のクロールを全力で泳ぐ。疲労で重くなり始めた腕と脚を懸命に動かし、最後のひとかきで伸ばした手が壁に届いた。

 とうとうほたるは100メートルを泳ぎ切った。

 水から顔を上げたほたるの耳に、自分の荒い息遣いと詩織の声が聴こえてくる。

 ゴーグルを外して見上げた頭上に、逆光の体育教師の姿があった。

 ストップウォッチのタイムを告げる明るい声。

 ほたるは青く高い空を見上げたまま眼を閉じた。

 そして遠いはるか彼方に手を伸ばすかのように、右手を天に向かって高々と振り上げたのだった。



 その日の帰り道、ほたるはまたあの駄菓子屋のベンチで詩織と並んでジュースを飲んでいた。

 男子でも届かなかった偉業を成し遂げたにしては元気の無いほたるに、詩織は言葉少なく話しかける。


「やったね。ほたるちゃん」

「うん。ありがとう」


 二人は遠い水平線に目を向けている。

 所々で白波が砕ける。

 今日は少し風が強い。


「テル君から連絡ないね」

「うん……」


 続かない会話。

 明るく笑い、つい先日まで夏という季節の只中にいた二人は、いつの間にか季節を追い越してしまったかのようだった。

 目まぐるしくたくさんの経験をした二人は、小学校最後の夏休みをこうして終えた。


「ねえ、詩織ちゃん、私ね」

「うん」


 今、ほたるは海に目を向けたまま、テルとの約束を果たそうとしていた。


「テルからね、詩織ちゃんに伝言があるんだ」

「うん」


 そしてほたるは高い空を見上げる。

 そして静かに落ち着いた声で、もう二度と言葉を交わすことの出来ない少年の話をしたのだった。

 遠い銀河の星と星を繋いだ不思議な電話のこと。

 その電話で奇跡のように知り合えた少年のこと。

 少年が病に侵された大勢の子供たちの一人であったこと。

 そして過去を繋ぐことで話せていた少年は、もうこの世の人ではなかったということ。 

 詩織は最初、その意外過ぎる話に戸惑いを見せていたが、涙を浮かべながら真剣に話すほたるに、その話が真実であることを感じ取ったようだった。

 最後まで詩織は、落ち着いた様子で、ほたるの話に耳を傾けていた。


「詩織ちゃんにね、ごめんって謝っておいてって言ってた。隠しごとをするつもりは無かったって」

「うん……」


 詩織は込み上げてくるものを必死で押さえようとするかのように、膝の上に置いた二つの拳を握りしめていた。


「信じてくれる?」


 夢のように、忘れられない声だけを残して逝ってしまった遠い銀河の少年の話をし終えてほたるは尋ねた。


「うん。私は信じるよ。ほたるちゃんを信じる……」


 詩織の目からポロポロと涙が留まることなく流れ出す。

 そしてほたるの目からも。

 海からの風に吹かれて足元に溜まった砂の上に、二人の涙が幾筋も落ちていく。

 ただ嗚咽し、二人は涙を流し続けた。

 きっとこのような時間が今の二人には必要だったのだろう。

 ただ言葉も無く、二人は大切な友達を想い、涙を流し続けた。

 ただただ透きとおった青い空に真っ白な高い雲が映える、風の強い夏の午後だった。

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