第19話 歳上の男の子

 約束通りお弁当を持って、ほたると詩織は学校の近くの川へと泳ぎにやってきた。

 先週平泳ぎの審査に合格して、今はほたると同じ3級となった詩織は、ほたるのコーチで早速バタフライの練習を始めていた。


「脚を蹴って姿勢を真っ直ぐに。腕をかくのは二回目のキックのときだって。ああ、もう、何やってんのよ!」


 ほたるのスパルタ指導の前で、詩織は悲惨な感じになっていた。

 泳いでいるというよりも全力でジタバタしている感じだった。

 溺れているのかともとれる詩織に、ほたるはまどろっこしさをみなぎらせながら、あーだこーだと檄を飛ばし続ける。

 そのうちにぜーぜー荒い息を吐きながら、詩織は水から上がってきた。


「これ、私無理だわ。何にもできる気がしない」

「始めたばっかりでしょ。なに弱音吐いてるのよ」

「いや、マジで尋常じゃないしんどさなんだけど、ホントにこれで合ってるの?」

「私を信じなさいって。私の言うとおりやってれば合格間違いなしよ」


 自信に満ち溢れたいつものほたるに、詩織は信頼してはいるものの不安を感じていた。

 詩織の知る限り、自分とは違い、ほたるは昔から運動神経が良くって呑み込みが早かった。

 しかし直感的なタイプなので、人にものを教えるのがはっきり言って下手糞だった。

 きっと怒り出すだろうからそのことには触れなかったが、ほたるの説明がどこまで正解なのか内心疑っていた。


「ねえ、ほたるちゃんが泳いで見せてよ」

「うん。いいよ。こんな感じだよ」


 颯爽と飛び込んで、ほたるは泳ぎ出した。

 学年で一番目標タイムに近いほたるの泳ぎは、流石ともいえるほど力強く綺麗だった。

 スムーズに泳ぐ姿に感心しつつも、説明してもらった感じと違うのではと詩織は首をひねった。


「どうよ!」


 ちょっと自慢げに水から上がってきた。


「上手いね。後で水中からも見てみたいな」

「お安い御用よ。詩織ちゃんにだけ見せたげる」


 こうして特訓は続く。

 今年の夏休みは毎日疲れるな。そう感じながら、詩織はほたると過ごす小学生最後の夏を楽しんでいたのだった。



 夕暮れ時。寄せては返す、けだるげな波の音を聴きながら、ほたるはテルとの会話を楽しんでいた。


「今日はホント疲れちゃった。詩織ちゃんも進級してきたから余計に頑張っちゃったし」

「ほたるはすごいね。いっつも燃えてるね」

「まあ、やるからにはとことんって感じよ。でないとつまんないじゃない」

「うん。確かに。君の友達もそんな感じなの?」

「詩織ちゃん? うーん、そうね。まあ私に付き合ってくれてる感じかも知れないわ」

「そうなの?」

「でも嫌々やってるわけじゃないわよ。結構楽しそう」

「きっとほたると一緒にいるのが楽しいんだよ」

「え、そうかな。そう思ってくれてるのかな」

「きっとそうだよ」


 ほたるは今日詩織と過ごした夏の一日を楽しげに語る。

 少年はそんな少女の話を楽しそうに聴いている。

 もう当たり前になった二人の会話。

 誰もいない海岸沿いの道に楽し気な笑い声が広がる。


「ねえほたる、昨日決めたこと、今から言い合おうよ」

「ああ、あれね。お互いのことを一つ言い合うってやつね」

「じゃあ、僕から……」


 テルは一呼吸おいて話し始めた。


「実は刺激のある食べ物は嫌いなんだ。つまり辛いものは苦手ってこと」

「そうなの? じゃあ私の番ね。私は辛いものはまあまあいける方よ。カレーは辛口をいっつも食べてるんだから」

「カレーって?」

「そう訊いてくると思った。カレーってインドの料理。インドって国があってそこに住んでる人はカレーをよく食べてるみたい」

「他の国の料理を調理して食べているんだね」

「うーん、正確にはそれに似た物かな。カレールーってのを買ってきて煮込んだらカレーが出来ちゃうのよ。結構おいしいんだから」

「成る程。ほたるはそれが気に入ってるわけだね」

「まあ、好きな方ね。ほかにもっと好きなのあるよ」

「へえ、聞きたいな。でも好きだって教えてもらっても料理の方がイメージできないね」

「そうね。テルに好きって言っても伝わらないね……」


 ほたるは、なんだか好きって連呼している自分に突然気付いた。

 勿論カレーの話で、電話の向こうの少年に好きって言ってるわけではないのだけれども、意識しだしたほたるのドキドキは、どんどん高まっていった。


「でもほたるが好きってことは伝わってきたよ」

「あ、あのさ、この話そろそろやめない?」

「あ、そう? 君がそう言うなら……」


 なんだか変に意識してしまったら次の言葉が出て来なくなった。


「明日も一つお互いのことを言い合おうね」

「うん……」

「あ、そうだ、明日はお祭りだって言ってたよね」

「ああ、盆踊りのことね」

「電話大丈夫かい? 君も色々忙しいんじゃないかな」

「まあ、大丈夫よ。そんなに遠くないし、いつもどおり掛けてきてよ」

「分かった。じゃあまた明日ね」


 少年との電話を終えて、ほたるは波の音を聞きながら自転車を走らせる。

 見たことも無い声だけの友達。


「一体どんな子なんだろう」


 潮風を体に感じながら、ほたるはそんな言葉を口にしていた。



 自転車を停めようと庭先に回り込むと、白いミニバンが停まっていた。

 ほたるはその車を目にして急いで自転車を停め、家の中に駆け込んだ。

 リビングで父や母と談笑していたのは、叔父夫婦とその息子だった。


「やあ、ほたるちゃんか。大きくなったねえ」

「あ、ご無沙汰してます」


 ほたるは叔父と叔母に会釈したあと、従兄に向き直った。


「カズ君、久しぶり」

「うん。久しぶりだね。ほたるちゃん」


 優しそうな笑みを浮かべた少年は、前にあった時よりもすこし大人びて見えた。



 テルとの電話を終えて帰ってきたほたるは、家族全員の揃ったテーブルで、従兄と向かい合って夕食を食べていた。

 久しぶりに会った父と叔父は、何やら楽し気に昔の話で花を咲かせていた。その話を聞き流しながら、ほたるはチラチラと従兄の顔に視線を向ける。

 今年、高校に進学したお兄ちゃんは、昔からほたるの憧れだった。

 熊取和哉くまとりかずや。ほたるはカズ君と呼んでいた。

 カズ君はとにかく優しかった。

 うっとおしくついて回るほたるに嫌な顔一つ見せず、四つ歳下のほたるの目線に合わせて、会う度いつも遊んでくれていた。

 それはきっと一人っ子の従兄が、ほたるをどのように扱っていいのか良く分からなかったからなのだろう。

 まるで男の子のようにやんちゃだったほたるを、従兄だけは女の子だからと気遣ってくれた。

 その優しさに触れているあいだ、ほたるはなんだか自分が女の子なのだと感じられた。

 昔、近所の悪ガキと喧嘩していたときに、声を聴きつけた従兄が助けに入ってくれた。

 誰かに護ってもらうという感覚をその時感じて、本当に特別な気持ちになった。

 そしてほたるは少し大人になった従兄を前に、またそんな気持ちが自分に生まれているのを感じていた。


 少しまた雰囲気が変わったみたい。


 何となく大人っぽくなった少年に、どうしても興味が湧き出してしまうのをほたるは抑えられなかった。

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