第9話 特訓の成果

 とうとう特訓の成果を見せる時がやって来た。

 毎日詩織に付き合ってもらって練習したバタフライ。

 仕上がりは完璧ではないが、先週の自分と比べて一皮むけている自信があった。

 結構きつい一時間の練習を終えてからのタイム計測。

 この日のほたるには、先週までには無かった余裕があった。

 そんなに息も上がってないし体力も残ってる。あの少年からアドバイスしてもらったことを意識して泳いだ結果、顕著に疲労感が激減した。

 やたらと腕を回して自滅していたついこの前までのほたるには、考えられないくらいの進歩だった。


 ひょっとしたらいけるかも。


 平泳ぎのタイムトライアルが始まった。懸命に泳ぐ詩織をプールサイドから応援しつつ、ほたるは自分の番が回ってくるのをニヤニヤしながら待っていた。


「イケー詩織ちゃん!」


 ほたるのひときわよく通る声は、きっと詩織にも届いているに違いない。

 応援の歓声の中、詩織は先頭で25メートルを折り返した。

 先週よりも泳ぎに伸びがある。どちらかと言えば、ほたるに付き合わされて毎日のように練習していた詩織だったが、その泳ぎは、はっきりと分かるほど力強くなっていた。

 ラストスパートでさらに他の泳者を引き離し、一着で50メートルを泳ぎ切った詩織に、ほたるは拍手と歓声を送った。

 ほたるの隣で仲間の男子を応援していた坊主頭の矢島は、一着でゴールした詩織に残念そうな声を上げた。

 ほたるは口惜しがる坊主頭に、聞こえるように低く笑った。


「ふふふふ」

「なんだよ、熊女。どうせこれから、またいっぱい水飲むくせに」


 またいつもの悪態をついてくる矢島に、ほたるは内心ムカッとしたものの、ここは落ち着いて余裕の表情を浮かべた。


「あんたが吠え面かくの楽しみだわ」


 いつもなら頭に血が上って噛みついてくるはずのほたるが、ニタリと笑ったのに調子が狂ったのか、少年はすぐに視線を逸らした。

 平泳ぎの計測が終わった詩織がプールから上がってくる。

 良いタイムだったらしく、ほたるに向かって拳を突き出し親指を立てた。

 ほたるも同じ様に親指を立てて返したあと、ようやく最終組のバタフライを泳ぐ四人が飛び込み台に上がった。


 さあて、いよいよ本番よ。


 胸が高鳴っている。緊張というよりも期待と呼んだ方がこの高揚感には相応しかった。

 ほたるは飛び込み台のへりに足の指を食いこませて、その時を待つ。

 先生は全員が飛び込みの準備ができたのを確認すると、ストップウォッチ片手に、声を上げた。

 

「よーい」


 ピーッ!


 ほたるは笛の合図で落ち着いてスタートを切った。

 いつもなら浅く飛び込んで早々に腕を掻き始めるほたるだが、今日はほんの少しだけ、いつもより深めに飛び込んだ。それはこの日のために特訓したキックの回数を稼ぐためだ。

 飛び込んだ勢いを殺すことなく、特訓した鋭いキックを打つ。

 浮き上がるまでにキックで距離を伸ばし、姿勢を保ったまま腕を回し浮き上がる。


 いける!


 ほたるは腕のかきよりも、足の動きと姿勢に注意しながら泳ぐ。

 あっという間に25メートルのターンを終えたほたるは、壁を蹴ってから少し多めに足を動かす。

 浮き上がった時に、まだ体力に余裕があることをほたるは感じていた。


 腕よりもキックが大事……。


 自分に言い聞かせるように体を前に運んでいく。


 力任せに腕をかかなければこんなに進むんだ。


 姿勢を意識しつつ、ラストスパートで残った力を爆発させる。

 最後まで勢いを失うことなく、ほたるは壁にタッチした。


「はあ、はあ、はあ」


 荒い息で周りを見渡す。

 自分の泳ぎに集中していたほたるは、最終グループで一番にゴールしたことをその時知った。

 そしてほたるは高々と拳を天に向かって振り上げた。



「すごいね、ほたるちゃん。男子を抜いて一番だったね」


 駄菓子屋の店先。

 いつもより口に入れたアイスクリームを美味しく感じながら、ほたるは詩織の称賛を受けていた。


「まあ、これが実力ってやつよ」


 あまり奥ゆかしさは持ち合わせていない様で、やや自慢げに胸を張った。


「特訓の成果出たみたいだね。タイムだってあと二秒だって先生も惜しがってたね」

「まあ、そのうちタイムは切って見せるわ。それより詩織ちゃんも凄かったよ。あと一秒だったじゃない、惜しかったね」

「へへへ。ほたるちゃんについて行ってたらいつの間にかって感じよ。私も平泳ぎタイム切れたらバタフライのコツ教えてもらおうかな」

「いいわよ。詩織ちゃんにだけ特別に教えてあげる。他の子には内緒だよ」

「うん。ありがと。あー、置いてかれそうだなー。ほたるちゃん、もう1級見えて来たね」

「そうなのよ。ちょっと気が早いけど、いけそうな気がするのよね。1級獲ったらおじいちゃんに何か買ってもらえそう」

「じゃあ頑張らないとね。でも毎日海と川とプールって私たち凄くない?」


 あらためてそう詩織に言われてみて、夏休みに入ってからそればっかりだったことにようやく気が付いた。


「ねえ、中学に入ったら水泳部に入ろうよ。詩織ちゃんとなら楽しそう」

「本気? 練習きつそうだよ。他の部も色々考えようよ」

「まあ、運動部は決定ね。そこは譲れないから」

「そうゆうと思った。ほたるちゃんが運動部以外に入るなんてピンと来ないし」


 笑い合いながら二人は溶け始めたアイスを急いで食べる。


「ねえ、矢島さ、今日は終わってから何にも言わなかったね。よっぽど悔しかったんだろうね」

「格の違いがようやく分かったんじゃない? もう相手にすることも無いしすっきりしたわ」

「でもさ、ほたるちゃん泳ぐ前からあんまし矢島のこと、特に気に掛けてない感じじゃなかった? 最近何だか別の何かが気になってる感じだね」


 直球で痛いところを突かれて動揺したほたるの手から、残り僅かなアイスがぽとりと滑って落ちて行った。


「あーっ!」


 最後のひと口を楽しみにしていたほたるは、泣きそうな顔で叫んだのだった。



 潮風の匂いを感じながら、ほたるは道を挟んで広がる夕日でキラキラした水面に目を向けていた。

 いつもよりやや興奮気味なほたるは、ピンクの電話の受話器越しに、今日の成果を自慢げに語っていた。


「へえ。おめでとう。いや、タイムを切ってからそう言うべきなのかな」

「まあ、そうかな。でもこのまま練習したら絶対タイムを切る自信あるんだ」

「うん。その意気だね。きっとほたるなら大丈夫だよ」

「あ、うん。ありがとう……」


 まだやはり名前で呼ばれると、なんだか変な気持ちになる。

 ほたるは名前を呼ばれるたびにちょっと調子が狂ってしまうので、なんとなくやり辛さを感じていた。


「それでさ、僕も君に負けないように、またちょっと新しいことをいま頑張りだしたんだ」

「何? 抜け駆けしようっていうの? ずるくない?」

「そうならない様に言っとくね。スポカーンの腕のこと、ちょっと気をつけだしてるんだ」

「え? 腕はおまけみたいなものじゃなかったっけ?」

「推進力はキックだけの方が実は速いんだ。でも息継ぎしないと長い距離は泳げない。必然的に腕を回さないといけないなら効率的にやったほうがいいよね」

「うんうん」


 解説をし始めた少年の話に、ほたるはすぐに引き込まれた。

 前の時もそうだったが、この少年の明朗な語り口には不思議な魅力があり、普段人の話をあまり聞かないほたるをも集中させる何かがあった。


「腕のかきは単体だけで見ると、それほど推力のあるものではないけれど、効率よく回せばそれなりの推力は得られるし、全体の水の抵抗を最小に出来る。キックを二回打って腕を一回まわすのが理想的なタイミングである以上、ほたるに合った無理のないテンポでキックとストロークを連動させた方がいい。腕のかきの正確さを高め、効率化できれば、今よりさらにキックが生きてくるはずだよ」

「そうゆうことか。つまり腕を綺麗にリズミカルに回せば姿勢を保つことが出来て次のキックにスムーズにつながる。結果良く進むってことにつながるんだね」

「そうなんだ。ほたるも良く分かってきたね。これからは脚を基本に練習しながら腕のかきの効率化を目指そう」

「で、どうやったらいいの?」


 ほたるは早速興味を隠さず訊いてみた。


「細かく説明するから聞き漏らさないでね」

「分かった」

「まず大事なことは腕をかき始める前の姿勢なんだ。顎を引いて頭の上に腕が伸びるようにしっかりと遠くまで腕を伸ばす。この指先からつま先までしっかり伸びた状態が、最も水の抵抗を受けない姿勢なんだ」

「ふんふん、なるほど」


 ほたるは泳いでいるイメージをしながらテルの話に耳を傾ける。


「できるだけ遠くの水をキャッチして水をかき込んでくるんだけど、その時に掌だけじゃなくって掌から肘までのあいだ全部を使って水をかくようイメージするんだ」

「掌から肘までね……」

「そして水をかき込んだら胸の前あたりで丁度肘が直角になるくらい曲げてやる。そうすると両手の指先が近くなっている筈だ。そしてそこから肘を伸ばして、出来るだけ体の近くで最後までかき切るんだ」

「んー。なんかイメージできないな……」

「かき始めの時から胸の前までの手の動きは丁度両手でハートマークを描く様な感じだよ」

「え? ハートマーク?」

「そう、ハートマーク。やってみて」


 ほたるは一旦受話器を置いて、水をかいているつもりで両腕でハートマークを描いてみた。

 何度かやっているうちにテルが言っていることが何となく分かって来た。


「お待たせ」

「どう? ちょっと分かってくれた?」

「うん。ハートマーク描いてみたら何となくそんな形になった……」


 なんだか電話越しだが、お互いハートマークを腕で描いているのを思い浮かべて、ほたるはまた頬が熱くなってくるのを感じていた。


「慣れるまではちょっとかかるかも知れないけど、このやり方が一番効率がいいんだ。あとは呼吸の時に顎を上げ過ぎてのけ反らないこと。それに気を付けてがんばって」

「うん。ありがと……」

「あれ? 元気ないね。どうしたの?」

「え? 元気ならあるわよ。テルの倍くらい有り余ってるんだから」

「その調子だね。また大変だと思うけど、いい知らせ待ってるね」

「うん。頑張る。そんで1級受かってみせる」

「ほたるは凄いね」


 唐突に褒められて、ほたるはすぐに聞き返す。


「え? 急に何よ」

「前をしっかり見てる。いや前しか見ていないというべきか」

「褒めてんの? けなしてんの? どっちなの?」

「勿論、褒め言葉だよ。君を尊敬してる。僕はそんな風になかなかなれない」

「まあ尊敬してくれるのは嬉しいけど、テルだってすごいと思うよ」

「僕が? 病院でただ毎日を過ごしているだけの僕が?」

「こんな遠く離れた私に泳ぎを教えてくれた。きっとこんなことできるのはテルだけだよ」


 ほたるが少し恥ずかし気にそう言うと、もっと照れたような声が受話器の向こうから返ってきた。


「うん……君の言うとおりかも知れないね。嬉しいよ」

「ねえ、私達いいコンビだよね」

「うん。本当だ」


 電話の向こうの声が明るくなる。

 つられてほたるも明るい声で応える。

 タバコ屋の店先で、こうして特別な時間がゆっくりと流れていく。

 ほたるは夕日の沈み切ったまだ明るい空を見上げた。


「また明日だね」

「うん。そうだね」


 二人はきっと気付いていない。

 ぴったり息の合った二人は、もう本当の友達だった。

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