第8話 スイカの種はどこまでも
開け放たれた窓から見える海が眩しいほたるの部屋。
ほたると詩織は扇風機のブンブン五月蠅い部屋で、向かい合って宿題をしていた。
本当は遊びに出かけたかったのだが、連日遊んでばかりのほたるは今朝、母から小言をもらったのだった。
「あんたいい加減遊んでばかりいないで、やるべきことをちょっとはしたら? 宿題だけじゃないわよ。お手伝いだって他の子はみんなやってるわよ」
「私だって一昨日釣りに行っておじいちゃんを手伝ったわ」
「あれは手伝いって言わないの。それにあんたは一匹も釣ってなかったでしょ。昇なんて宿題はコツコツやってるし、お母さんの手伝いしてくれるし、それはもう助かってるんだから」
「私だって手伝いしてるし」
「あんたが? 何を?」
「カメ吉に餌やってる……」
「あれはあんたの亀でしょ。それにあんたがカメ吉に餌をやるのは気が向いたときだけじゃない。昇が世話してなければとっくに死んでるわよ」
とまあこんな感じで結構叱られたのだった。
おじいちゃんの援護もあったのだが、おじいちゃんが甘やかすからだと、とばっちりを食っていたので、ほたるは少しは責任を感じていた。
そんな理由でお母さんにやっていますよとアピールすべく、詩織を招いて部屋で宿題をしているのであった。
「あっつい……」
「ほんとだね……」
額にじっとり汗が滲んでくるのを、時々手の甲で拭いながらテキストを解いてゆく。
「あとで西瓜切ってもらうから、もうちょっと我慢してね」
「うん。西瓜早く食べたいな……」
そんな会話をしながら、なんとか予定していたところまでやり切った。
そして冷蔵庫に冷やしてあった西瓜を切ってもらい、縁側で並んで食べる。
プッ、プッ。
ほたるが口に含んだスイカの種を遠くまで飛ばすと、続いて詩織も負けじと張り合って来た。
プッ、プッ……。
「あれ? そんなに飛ばないや」
「フフフ。コツがあんのよ。おじいちゃん秘伝のね」
「スイカの種を飛ばすのに秘伝が有るの?」
「まあね。私はおじいちゃんに習ってマスターしたからあの辺りまで飛ばせるのよ。もうちょっと頑張ったらこんな感じ」
プッ、プッ、プッ。
ほたるは唇をすぼめて、唾と一緒に勢いよく種を遠くまで飛ばした。
「どうよ!」
「なんだかきったないけど、遠くまで飛んだのは確かだわ」
「教えてあげてもいいわよ」
「いや、別にいいよ」
詩織がそんなに関心を持ってくれないので、ほたるはまあまあ残念がった。
それから良く冷えた西瓜を堪能した二人は、そこそこ汗が引いて涼しくなった。
「お昼ご飯うちで食べなよ」
「いいの?」
「今日は冷や麦だってお母さん言ってた。いっぱい作るから遠慮しなくっていいからね」
「じゃあご馳走になろうかな」
それから詩織はほたるの家族に混ざって冷や麦をすすった。
お互いの家にしょっちゅう出入りしている二人は、こうして家族の食事に交ぜてもらうことが少なからずあった。
家族的付き合いというよりも、もう少し楽な関係。家族に交ざってそこにいても、違和感のない関係性だった。
特に夏場、ほたるはエアコンのある詩織の部屋にしょっちゅう入り浸っており、ひょっとしたら自分の部屋より長くいるのではないかと思えるほどだった。
食べ終わって涼しい縁側で軽く昼寝をしたあと、ほたるは大欠伸と共にウーンと伸びをした。
体を起こして、まだ寝ている詩織の肩をゆする。
「じゃあそろそろ行きますか……」
「……あ、おはよう。やっぱり行くのね」
最初からほたるは母に見せるためだけに宿題をしていた。
したがって大人しく家で一日過ごすつもりなど最初からなかったのだった。
「これからが本番よ。今日はあの海で練習しましょう。ここで着替えて走って行こうよ」
「走んなくてもいいんじゃない。食べたばっかりだし」
「こうしてる間にもあいつに先を越されているに違いないんだから、ゆっくりなんてしてられないのよ」
「ほたるちゃん、すごい矢島に対抗心持ってるんだね」
そう言われて、ほたるは眉をひそめた。
「えっと、そうね。そうだった。矢島の馬鹿だったわね」
「どうしたの? 矢島に負けたくなかったんじゃないの?」
「まあそうよ。そういうことなのよ」
「変なの……」
何かを胡麻化そうとしている分かり易いほたるの態度を見て、詩織は首を傾げたのだった。
詩織と滅茶苦茶海で泳いだあと、明日の水泳教室で特訓の成果を見せつけてやろうと二人で盛り上がった。
詩織は流石に疲れた様子で、何度も欠伸をしながら自転車にまたがると、少し暑さの弱まった夕方の海岸線を、ふらつきながら帰って行った。
詩織を見送ったあと、日焼けした背中のヒリヒリした痛みを感じつつ、ほたるは自転車を走らせた。そしてまたあの電話機の前で自転車のスタンドを立てた。
昨日より一時間早い夏の夕暮れ時。
日はもうすぐ沈むだろうが、しばらくはまだ辺りは明るいので昨日までの不気味さはなかった。
そろそろかな……。
リリリリリ。
「はい」
「あ、もしもし、そっちはどう?」
「どうって、まあちょっと明るくっていい感じだよ」
「そう。良かった。まだ太陽が出てるってこと?」
「うん。今から沈んでいくとこ。綺麗だよ」
眩し気に目を細めるほたるの視線の先には、オレンジ色の夕日が海面すれすれに浮かんでいた。
「そう。君がそういうのなら本当に綺麗なんだろうな」
「うん。見れなくって残念だね」
「ねえ、熊取さん」
「なに?」
「どんな風に君からその景色が見えているのか、できるだけでいいから教えてよ」
「いいわよ……」
そしてほたるは受話器を手に、沈みゆこうとしている夕日を眺める。
「ここからは海が見えるの。それで紅く染まった太陽が遠く海に沈んでいっている様に見えてる」
「うん。うん」
「水面は波のせいで揺らいでいて、太陽から私の方に向かって一直線にキラキラと光の帯が伸びているわ。それはまるで光の道の様に見えるの」
「すごいね……」
「水面に近い空はオレンジ色で段々上に行くにしたがってピンクががかり、やがて高い空にいくと濃い紫色に変わる。そこには明るい星が見え始めててとっても綺麗なんだ」
「夢みたいだね……」
「波の音と潮風の匂い。波の音ならこの電話機でも少しは聴こえないかな……」
そしてほたるは通話口を海に向けてみる。
ざざざー……。
ざざざー……。
「どう? 聴こえた?」
ほたるはまた受話器を耳につけて訊いてみた。
「うん。かすかに聞こえた……何時までも聴いていたくなるようなそんな自然の音だった」
「あれが私が毎日聴いてる波の音だよ。今日は穏やかだけど荒れてる日はちょっと怖いぐらいなんだ」
「うん。それもまたぜひ聴いてみたいな。なんだか君が住んでいる世界って夢の世界みたいだね。羨ましいよ」
「もう、そればっかりね。あ、そうだ、今日はさ、今波の音のしてた海で泳ぎの練習をしたんだ」
「ええっ! そうなの? 大胆なんだね」
何が大胆なのかさっぱり分からなかったが、少年の反応はなかなか面白かった。
「なに? そんなの普通じゃない。ただの海水浴だよ」
「君の星ではそうなのか。こっちの海は毒性があってそこに住んでいる水生生物は怖ろしいやつばっかりなんだ」
「なにそれ? じゃあ泳げないってこと?」
「泳げるわけがない。皮膚が耐えられないし、水生生物の餌にされちゃうよ」
「こっちの海はしょっぱいだけ。魚はまあ危険な奴はいるけど滅多に出会うもんじゃないし、夏になったら大人も子供も海で泳いでいるわよ」
「ますます興味が湧いてきた。同時にますます羨ましくなってきた」
電話越しの少年の声は好奇心に溢れていた。そしてそんな彼の反応を聞いているほたるも、少年の住んでいる世界を同じように思い浮かべ、想像の羽を羽ばたかせるのだ。
「うふふふ。ねえ、そんでそのしょっぱい海で泳いできたんだけどね。今日はちょっとコツを掴んじゃったかも」
「そうなの? すごいね」
「テルが言ってたよね、お尻が浮き上がるぐらい蹴り下ろせって」
「うん、そうだよ。上手くいったのかい?」
「そうなの。なんだかちょっとその感覚が分かっちゃって、やっと今日楽しくなってきたんだ」
「それは良かったね。僕の言ったとおりだったろ」
「うん。ホントだった。ありがと」
「へへへへ」
電話の向こうの少年の声は、少し照れている様にほたるには感じられた。
それからお互いに今日あったことを話した。
ほたるは病院であまり変化のない日常を送っている少年に、出来るだけ雰囲気が伝わるように気をつけて夏の一日を話して聴かせた。
「スイカっていう果実の種を飛ばすのが得意なんだね」
「まあ、数ある私の才能のうちのほんの一部だけど、誰にも負けない自信あるんだ。そうだ、泳ぎのコツ教えてくれたし、スイカの種の飛ばしかた教えてあげようか?」
「いや、そもそもそのスイカっていう果実が手に入らないから無理かな」
「そうよね。残念だわ」
詩織に続いてこの少年にも技の伝授ができずに、ほたるは本気で残念がっていた。
そして日が落ちた頃合いで、ほたるは今日少年に返事をすると言っていたあのことを切りだした。
「でさ、あの……昨日最後に言ってたことなんだけど……」
「ああ、熊取さんを何て呼べばいいかってあれだね」
「うん。まあ、考えたんだけど、ほたるって呼んでもいいかも……」
「いいかも?」
「泳ぎ教えてくれたし、あくまでも特別だからね。男子に気やすく呼ばせたりなんかホントはしないんだから……」
「特別なんだ。光栄だな」
そう言われてほたるは頬が火照ってくるのを感じた。
手を当ててみるとちょっと熱いような気がした。
「でもあんまし気やすく呼ばないでよ。遠慮しながら呼んで頂戴」
「遠慮しながら呼ばないといけないんだね。気をつけるね」
ほたるは自分で何を言っているのか良く分からなくなってしまっていた。
変に意識してしまっている自分に、勝手に戸惑ってしまっていたのだった。
「じゃあ、また明日だね」
「うん。またね、テル」
「うんまた明日、熊取さん、じゃなかった、ほたる……」
ドクン。
ほたるの心臓が変な音をした。
何の音!
びっくりしすぎて一瞬飛び上がった。
「今の感じ、遠慮しながらほたるって言えてたかな」
「あ、うん、まあいいんじゃない……」
「そうか、じゃあこんな感じで明日からも呼ぶね」
「うん。じゃあね……」
受話器を置いたあと、ほたるは胸に手を当てて鼓動を確かめてみた。
やや早い気もするが正常の範囲内だ。しかしさっきのドクンって心臓の音は何だったんだろう。
ほたるは自転車に跨ると、まだ明るいのどかな県道を、ぼんやりとした表情のままペダルを踏み走り出した。
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