第3話 理解不能

「これでよしっと」


 朝早くからギアに噛みこんだチェーンを元に戻し、自転車を修理し終えたほたるのおじいちゃん、熊取源三くまとりげんぞうは額の汗を腕で拭った。


「油挿しといたから前よりいい感じになってる筈だ」

「ありがとう。おじいちゃん」


 作業を近くで眺めていたほたるは、あっという間に修理を終えた祖父に拍手を送った。

 昔から故障した物は、大概この祖父に頼んで直してもらっていた。

 機械音痴の父が、故障したものは買い替える方針を貫いている一方、昔気質の祖父は壊れてしまった物に命を吹き込む天才だった。

 源三にすれば、ほたるの自転車など物足りないに違いない。

 修理を終えた源三は、自転車置き場に何匹か飛んでいる蚊をパチンと叩いて、孫娘の近況を訊いてきた。


「で、昨日のプールどうだった。バタフライのタイム切れそうか?」

「その話はしないで。あんまし思い出したくない」


 ほたるが嫌な顔をしたのを察して、源三は少ししょげている孫娘の肩を叩いてやる。


「まあ、気にするな。まだひと月ぐらいあるんだろ。お前だったらやり通せるさ」

「まあ頑張るわ。今度は絶対負けないんだから」

「その意気だぞ。しかしバタフライってのがどうもな。わしが教えてやれるのは平泳ぎまでだからなあ。誰か泳ぎを教えてくれる奴がいたらいいんだが」

「そうなの。実は先生もあんまし泳ぎ上手くないし、周りにそこまで泳ぎに詳しい人いないし、町のスイミングは遠すぎるし……」


 不満を漏らしつつも、ほたるは自転車の籠に水着の入ったビニール製のバッグを入れた。

 ヘルメットをかぶると、源三の見ている前で早速ペダルに足をかけた。


「おじいちゃん行ってくるね。今日も根性で乗り切ってくるからさ」

「おお、よう言うた。じいちゃん応援してるからな。しっかりな」


 さっそく朝からエンジンのかかり始めた元気のいい孫に、源三は大きな声でエールを送った。

 そしてほたるの夏休み二日目が始まった。



 午後の日差しを浴びながら、ほたると詩織は並んでアイスを食べていた。

 水泳教室のあとの帰り掛けに、この駄菓子屋に立ち寄って、冷たいものを食べるのが至福の時間だった。

 二人の座る日焼けした青い樹脂製のベンチからは、道を挟んで海が見える。遠くの白波が見渡せられるこの景観を、ほたるは気に入っていた。

 それにしても水泳教室の後は全身の疲労感が半端ない。

 けだるげな夏の午後のひと時。溶け始めたソーダ味のアイスに、ほたるは眠たげに赤い舌を這わせていた。


「ねえほたるちゃん」

「え?」

「ちょっと言いにくいんだけど肩に手形が付いてるよ」


 隣でアイスを齧る詩織が、ほたるの右肩辺りを指さしながらクスリと笑った。


「そうなの。さっき着替えるときに気付いた。自転車のチェーンを直してくれたおじいちゃんにポンポンってされちゃったの。おかげでまたあいつにからかわれた」


 ほたるは思い出したのかイライラし始める。

 詩織はそんな喜怒哀楽のはっきりとしている友人の顔を、可笑しそうに眺めていた。


「自転車を直してくれたのはいいんだけど、これは流石に恥ずかしいわ。帰ったら文句言ってやるんだから」

「ほたるちゃんのおじいちゃんって昔漁師さんだったんだよね。今は優しそうだけど、昔は相当悪かったらしいよ」

「あ、それ、みんなに言われる。大酒のみで喧嘩っ早かったって。自分でも自慢してるけどホントくだらないわ」

「ほたるちゃんも気が短くって男子に噛みついて行くし、そんな感じだよね」


 悪気のない詩織のひと言に、ほたるはうんざりとした顔を見せた。

 おじいちゃんと一緒にしないでよ。そう顔に書いてあるみたいだった。


「やめてよ詩織ちゃん。私はどちらかと言えばあんな感じかな、ほら少女漫画で流行ってるやつ。『純情乙女は傷つかない』のヒロイン嵐山キララ。そんな感じでしょ」


 ほたるは月に二回刊行している少女誌のヒロインに、ずっと前から憧れを抱いていた。


「いや、どうかな……ほたるちゃんとはちょっとタイプが違うかな……」

「いや、絶対そうだって。なんだか共通点が多すぎてつい感情移入しちゃうのよね」


 なんだか自分を押し売りしているほたるの話を聞き流しながら、詩織は食べ終えたアイスの包みを店先にあるゴミ箱に捨てた。


「ほたるちゃん、今日はお昼からピアノのお稽古あるからまた明日ね。明日プールないけど、お昼から何して遊ぶかお互い考えとこうよ」

「そうね。私、結構色々やりたいことあるんだ。どれか一つに絞っとこ」

「じゃあまたね」

「うん。また明日」


 ほたるは駄菓子屋で詩織と別れてから自分も自転車に跨った。

 少し走ると、昨日おかしなことがあったタバコ屋の前を通りがかった。

 開きになっている店の窓は開け放たれており、そこからおばあちゃんの顔が見えた。

 目が合って、おばあちゃんは軽くこちらに会釈した。

 ほたるも会釈を返す。

 カウンターに鎮座しているあのピンク色の電話は、今日も磨き込まれ、艶のある姿で看板としての役目を果たしていた。

 そしてその電話の横には、トラジマ模様の立派な体格の猫が寝ている。

 多分一年ほど前から、おばあちゃんのところに居ついている野良猫。

 何度か触ってやろうと近づいたが、その度に逃げられていた。

 ご飯をくれるおばあちゃん以外近づくんじゃねえ。そういう感じのやさぐれた猫だった。


「また日が暮れてから来てみるか……」


 ほたるはそう呟いて、潮風香る快晴の海岸線を自転車で走り抜けるのだった。



 夕ご飯の後、ほたるは家族に気付かれないようにそっと自転車に乗って家を抜け出した。

 まだ薄明るい空の下。照明を点けずにほたるは快適に自転車を走らせていく。

 少し涼しくなった風が心地いい。

 胸に海からの風をいっぱいに吸い込んで、ほたるは自分でも戸惑うほどの高揚感を感じながら、あのタバコ屋の前に自転車を停めた。

 だいたい五時には営業時間を終えるタバコ屋には、もうおばあちゃんの姿はなく、昼間に開いていた窓は閉められて鍵がかかっていた。

 カウンターには、あの磨きこまれたピンクの電話がある。


「本当にかかってくるのかな」


 自分がまだ半信半疑であることを口に出してみる。

 あと少しで昨日とだいたい同じ時間になる。

 ほたるは馬鹿馬鹿しいと思う反面、半分は期待感で胸をドキドキさせながら、電話の前で立ち尽くしていた。


「そろそろかも……」


 時計を持ってきているわけではないが、空の明るさと照らし合わせて、その時が近づいて来ているのをほたるは感じていた。


「鳴らないな……」


 かなり薄暗くなったこんな場所で、私は何をやっているんだろうと滑稽に感じ始めた時だった。


 リリリリリ。


「えっ! うそ!」


 本当に鳴り始めた電話にうろたえたほたるは、そのまま受話器を手に取って耳に押し当てた。


「もしもし熊取さん?」


 受話器から、昨日のあの少年の声が聴こえてくる。


「うん。私。本当にかけてきたんだ」

「え? 約束したよね」

「そうだけど。ちょっと疑ってた」

「どうして? 約束は守るものだよね」

「そうだけど……」


 真っ直ぐすぎる少年の反応に、ほたるは半分疑っていた自分に恥ずかしさをおぼえた。

 きっとこの少年は、初めてできた友達と話が出来ることを心待ちにしていたに違いない。口には出さなかったが電話の向こうの明るい声にほたるは心の中で謝った。


「熊取さん。ねえ、どうしたの」

「あ、ごめん。ちょっと考えごとしてた」

「ふーん。ね、今日は何してたの?」


 普段勢いでは誰にも負けないほたる以上に、少年の声は前のめりな印象だった。初めての友達と話せる喜びと、隠しきれない好奇心がありありと、その弾むような声に表れていた。


「私? 私は朝から水泳教室。今日もいっぱい水飲んだ」

「水泳教室って水を飲む教室なの?」

「あんた馬鹿にしてんの? 飲みたくて飲んでるわけないじゃない!」

「え? 飲みたくないのに飲まされる教室なの?」


 昨日もそうだったが、今日もなんだか話が噛み合わない。


「水泳教室だってば。泳いでたら口から水入って来るじゃない。あれよ」

「泳ぐと口から水が入るのか。なるほど」

「変なとこで感心しないでよ。本当はみんなが泳いでるプールの水なんか飲みたくないんだから」

「それは大きな問題だね。早速改善した方がいいね」

「できるんならやってるわよ……」


 こちらの心情を一切気にせずそう言われて、ほたるはブツブツと呟いた。


「なんだかあんたと話してると、しょっちゅう噛み合わないのよね。相当文化が違うとこに住んでるみたいだけど、どの辺に住んでるの? 海外とか?」

「あ、そうか。君は事情を知らないでこの電話を使っていたんだね」

「事情ってなによ」

「僕のいるところは君のいるところからずっとずっと遠い場所さ。そこのあたりから話した方がいいみたいだね」

「勿体ぶってないで早くどこだか言いなさいよ。フランス? オーストラリア? 南極とか?」

「そういう感じじゃないんだ。いいかい。これから話すことは他の誰にも言わないで欲しいんだ。君と僕、二人だけの秘密ってことで」

「なに? 気味の悪いこと言いだしたわね。あんた、もしかしてスパイとかなの?」

「え? スパイって?」

「いや……今のはナシ……」


 真面目に返されて、いささかほたるは恥ずかしさを覚えた。

 どうもこの少年と話をしていると調子が狂う。


「熊取さん。さっきも言ったけど、二人だけの秘密ね」

「いいわ。だからさっさと言っちゃいなさい」

「うん。じゃあ説明するね。まずこの電話のことだけど……」


 少年は、少しイライラし始めたほたるに、とても分かり易いとは言い難い説明をしだした。


「その電話、君が今使っている装置は、外見は君たちの普段目にしている電話機に擬態させてあるけど、実際は、はるか遠くの星と星とを繋いで恒星間通信を可能にする装置なんだ」

「ふんふん」

「あれ? 驚かないの?」

「いいから続けなさい」

「それでね、この通話は銀河コミュニケーションサービスという恒星間音声通話技術を扱う会社が提供しているサービスなんだ」

「ほう。なるほどね」

「つまり僕のいる星は君の住んでる星から遠く離れた場所にあって、その通話を銀河コミュニケーションサービスを使って繋いでもらっている訳なんだ」

「へえ、じゃあ、あんたは銀河の遠く離れた場所にいる宇宙人で、その長ったらしい何とかサービスで今会話している訳だ」

「そのとおり。呑み込みが早いね」

「馬鹿にすんな!」


 ほたるはとうとう爆発した。


「そんな与太話、よくも長ったらしく聞かせてくれたわね。あんたが宇宙人だって? 笑わせんじゃないわよ。宇宙人だっていうんならなんで日本語喋ってんのよ!」

「いやこれも銀河コミュニケーションサービスが翻訳してくれているんだ。そうゆうサービスなんだよ」

「あんた嘘つくならもう少しましな嘘つきなさいよ! な訳ないじゃない。この電話だってだいぶ昔の型だけど普通の電話機よ。昨日十円玉入れたらあんたに繋がったし」

「いやそれは……」

「もう沢山よ。馬鹿にするにもほどがあるわ。もう帰る!」

「ちょっと、ちょっと待って!」

「なによ……」


 ほたるは猛烈に癇癪を起しながらも、必死に引き止める少年の声に思いとどまった。


「えーと、その、証明するよ。どうしようかな……」

「さっさとしなさいよ。切るわよ!」

「短気な人だな……」

「何か言った!」

「いえ、なんにも……」


 しばらくしてからまた少年の声が聴こえて来た。


「あのさ熊取さん、ちょっと電話機を上げてみて」

「は? 何させようていうの?」

「いいから持ち上げてみて。ちょっと重いかもだけど」

「ちょっと待って」


 ほたるは耳に当てた受話器を肩で押さえるようにしながら、ずしりとした電話機を持ち上げてみた。


「重っ! 持ったわよ。それで?」

「電線とかのコード見当たら無いよね」

「え? ちょっと待って」


 ほたるは下を覗き込んでみた。少年の言うとおりそこには何もなかった。


「どういうこと……」

「電源も電話回線も繋がっていない。そうじゃないかい?」

「あんたの言うとおりだわ……」


 ほたるは重い電話機を、カウンターに降ろして首を傾げる。


「その電話機は君の星には一台しかない貴重なものなんだ」


 まるで理解が追いついていないほたるだったが、謎だらけのこの不思議な電話と少年に惹きつけられてしまったのは間違いなかった。

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