第2話 怪しげな電話

 島根県の海沿いの町。

 小学六年生の少女、熊取ほたるが暮らすその田舎町に、一軒のタバコ屋があった。

 もう営業しているのかしていないのかはっきりしない、その店先のカウンターに、ピンク色のダイヤル式公衆電話がある。

 携帯電話を誰もが持つ時代。硬貨を投入しないと電話をかけれないその骨董品は、ただ店先の飾りのようになっていた。

 簡素な開閉式の窓が開いているときには、時々このタバコ屋の店主のおばあちゃんの姿が見られる。

 たいがいは通学する子供たちの姿を眺めながらお茶を飲んでいた。

 それがこのおばあちゃんの日課みたいなもので、また、ひそやかな楽しみなのかも知れない。

「タバコ屋のおばあちゃん」大人たちがそう呼ぶ中で、小学生の子供たちは「電話のおばあちゃん」という愛称をつけていた。

 おばあちゃんは店先でしょっちゅうあの電話を拭いていた。

 いつもピカピカに磨き上げられたピンク色の電話は、日焼けして変色してはいるものの、店の看板の役割を十分に果たしていた。

 誰も使うことのない電話だからこそ、自分のものだと愛着が湧いていたのかも知れない。

 いつも並ぶようにして、おばあちゃんと艶のあるピンクの電話は、通学する子供たちを、当たり前のように見守っていたのだった。



 夕方遅く、ほたるは一人、自転車で家路を急いでいた。

 日が落ちて少し暗くなりかけた空を見上げて、遅くまで詩織と遊び過ぎたことを少しだけ反省する。


「また、お母さんに怒られそう……」


 急ぎ自転車をこぐほたるの右手には海岸線が続いている。

 昼間あれだけ透き通っていた青い海が、今は黒々とした墨のような色に変わっていた。

 その大きさと昏い深さが、ずっと小さかった頃に海で溺れかけたほたるの記憶を呼び覚ます。

 吸い込んだ筈の空気が海水だったときの恐怖。

 助けに来てくれた父に必死でしがみ付いた。

 大好きな昼間の海が、いつの間にか得体の知れない怖いものに変わってしまっている。

 そんな呼び起こしたくないものを振り払うように、さらにペダルを踏みこんだ。


 ガシャン。


「あっ!」


 ペダルが動かなくなり、自転車はそのまま速度を落として止まった。

 薄暗い県道の脇で、ほたるは自転車がどうなっているのかを確認する。

 しばらく様子を見た後で、ほたるは大きなため息を吐いた。


「はーー」


 チェーンが外れてギアの間に噛みこんでいた。

 勢いよくペダルをこいでいたせいで、その分しっかりと噛みこんでいるみたいだった。

 どうやらこの感じでは直して帰れそうになかった。

 仕方がないと、自転車を押してほたるは歩き出した。

 ほたるは自転車を押しながら、詩織の様に自分も携帯を持っていたらとまた溜め息をついた。


 電話さえできれば、おじいちゃんかお父さんが軽トラで迎えに来てくれるんだけどな。


 無い物は無いとあきらめて自転車を押すほたるは、そのうちにタバコ屋の前に差し掛かった。

 いつもおばあちゃんが外を眺めている開閉式の窓は閉まっている。

 ちょっと薄暗い店先が少し気味悪かった。

 そして、ほたるはカウンターに鎮座するピンクの電話に目を止めた。


 あれって使えるのかな……。


 自転車を止めてポケットをまさぐると、昼間買ったアイスのお釣りが指先に触れた。

 硬貨を取り出すと二十円ある。


 あの電話が使えたら……。


 小学生でも携帯電話を持っている時代。骨董品として飾ってあるだけの代物だとしても不思議じゃない。

 一枚をポケットに戻し、十円玉を握りしめ、ほたるは半信半疑で電話に手を伸ばす。

 薄暗い街灯の下で、ピンクの電話はおばあちゃんに磨いてもらっているお陰で妙に艶があった。

 恐る恐る硬貨を投入口に入れてみる。


 ガシャ。


「あれ?」


 十円玉はそのままつり銭返却口から出て来た。


「なんで?」


 ほたるは何度か硬貨を入れて、ガシャガシャ音を立てさせる。


「あ、そうか」


 受話器を上げてからじゃないといけなかった。


 誰もいなかったが、ほたるはうっかりしていた自分に恥ずかしさを覚え、なんとなく周囲を見渡した。

 そして気を取り直して、ややズッシリとした受話器を上げてみる。

 硬貨を指先でつまんで、今度こそはと投入しようとした時だった。


 ゴオオオォォォ。


 滅多に車の通らない県道で、ほたるの背後を大型のトラックが結構なスピードで通りがかった。

 あっという間に過ぎて行った轟音と風圧に、一瞬気を取られてしまったほたるの指から硬貨が滑り落ちる。


「あっ!」


 チン。という音が足元辺りからした。

 慌てて薄暗い足元に目を凝らす。

 百円玉ならまだしも、茶色い十円玉は暗い地面に溶け込んでしまって、いくら探しても見つからなかった。


「もう、サイアク!」


 思わず八つ当たりで、自転車を蹴とばしかけたが踏みとどまった。


「あれ?」


 ほんの少し離れた所にある植え込みの下に、それらしきものが見える。

 ポケットのもう一枚に手を出さなくて良かった。ほたるは安堵しつつ、しゃがみこんで植込みの根元に手を伸ばした。

 指先でつまんだ硬貨は湿った砂が付着していて、なんだかザラザラしていた。

 ほたるは怪訝な顔で硬貨をよく見ようと目を凝らす。

 しかし薄暗くてはっきり見えない。


 私が落としたのじゃなくて、もともとここに落ちてたやつみたい……。


 ほたるはちょっとだけ考える。


 これを使っても、私の落としたやつを見つけてくれればチャラだよね。


 前向きに都合のいい自己完結を果たし、遠慮なく使わせてもらうことにした。

 硬貨に付着した砂粒を、ザラザラした感触が無くなるまではらってから受話器を上げる。

 街灯もまばらな県道の左右を何度か目視し、車の気配がないことを確認し終えて、ほたるは硬貨をつまんだ指を投入口へと伸ばした。

 指を放すと硬貨はピンクの電話に、スッと吸い込まれていった。

 どういうわけだか一瞬だけ投入口が光り、電話機からウーンというかすかな作動音がしてきた。


 プツッ。プツッ。


 耳に当てた受話器から音がする。

 電話が生きていて使えることを知って、ほたるは安堵した。

 ダイヤルをしようと手を伸ばした時だった。


「はい。もしもし」


 受話器から声がしてきた。


 えーーーっ!


 声には出さなかったが、ほたるは心臓が飛び出しそうなくらい驚嘆した。

 まだどこにもダイヤルしていないのに、何故か誰かの声がしてきていた。

 薄暗いタバコ屋の店先で、ほたるは背中に氷水を浴びせかけられたかのような冷たさを感じ、ゾーッとしたのだった。


「もしもし? あれ? もしもし?」


 怪奇現象かと慌てたが、思いのほか受話器からの声が普通で、さらに同い年くらいの男の子の声だった。ようやく少しだが、ほたるは落ち着きを取り戻した。


「すみません。掛け間違えました」


 ほたるは慌てて謝ったあとで、まだダイヤルしていなかったことを思い出した。

 ほたるは眉間に皺を寄せて、この不可解な現象を何とかしようと考える。


 つまりこういうことだ。

 この受話器の向こうの少年? は電話をかけた。多分間違ってこの公衆電話の番号にかけてしまったまさにそのタイミングで自分が受話器を取った。

 そして今おかしなことになっているのだ。それしかない。


「じゃなくって、掛け間違えたのは私じゃなくあなたですよ。ここはタバコ屋の公衆電話です」

「え? いや、ちょっとどうなってるんだろう……」


 説明してもピンと来ていない様な少年の声に、鈍い奴だわとほたるは眉をひそめた。


「だから、タバコ屋の公衆電話なの。分かったら掛け直して」


 わたしは家に電話しなきゃいけないんだから、あんたにかまってらんないのよ。


 口には出さなかったが、そう思いイライラし始めた。


「いや、あの、どなたですか?」


 電話の向こうの少年が訊いてきた。


「それを訊きたいのはこっちの方よ。いや待って、だいたい名乗り合ってもしょうがないじゃない」


 話が噛み合わなくて、またほたるは眉をひそめた。


「大体あんたどういうつもりよ。間違い電話をしたんなら、すみませんって素直にひとこと謝るのが筋じゃないの? いい加減にしてよね」

「いや、掛かって来たから電話に出たんだけど……」


 そう言われて、ほたるは薄暗い店先で真っ赤になった。


 ひょっとして、慣れない公衆電話で知らない間にどこかに掛けてた?

 迷惑をかけてたのは私の方ってこと!


 理不尽なことには徹底的に噛みついていくほたるだったが、自らに非があるとなると、あっさり素直に謝る性格だった。


「えっと、あの、さっき私が言ってたこと全部ナシってことで……」

「え? そうなの?」

「間違えたのは私の方でした。すみませんでした」

「間違えたって何を?」

「だから電話を掛ける先よ!」


 なんだか話が嚙み合わず、思わずまた声を荒げてしまった。

 電話の向こうから、小さくクスクス笑っているような声が聴こえて来た。


「なによ……」

「え、いや、なんでも……」


 受話器の向こう側で絶対笑いをこらえている感じだった。


「あんた失礼ね! 名を名乗りなさいよ!」

「僕はテル。初めまして」

「私は熊取ほたるよ!」


 言ってしまってから、得体の知れない相手と自己紹介してしまったことに気付いた。


「さっきはごめんよ。笑ったりして」

「まあ、いいけど……」


 素直に謝られてそれ以上言えなくなった。

 電話の向こうの声からは、うわべだけでなく、ちゃんと謝罪している感じが伝わって来た。


「熊取さんは幾つなの?」

「え? なに? 新手のナンパか何かなの?」

「え? どういう意味?」


 そう返されるとちょっと恥ずかしかった。

 そんな気恥ずかしさを紛らわせるように、ほたるは素直に年齢を伝えた。


「いえ、まあその……十二歳だけど」

「あ、一緒だ!」


 受話器の向こうの声が一段明るくなる。


「すごい。偶然に話せた女の子が同い年だなんて」

「えっと、そうかな。たまたままそうゆうこともあるんじゃない?」

「いいや、奇跡的だと思う。偶然を超えた奇跡だよ。きっと」


 何やら興奮気味の少年は、声を弾ませてさらに訊いてきた。


「それで、君の今いる所ってどんなとこなの?」

「どんなって、すっごい田舎よ。海と山ばっかり」

「いいなー。見てみたいなー」

「何よ、馬鹿にしてるの?」


 きっと都会のお坊ちゃんに違いない。

 こっちは実際田舎に住んでいるわけだが、都会っ子に田舎者とそしられるのは気に入らなかった。

 ほたるは、はっきりと分かるぐらい冷たい口調で返してやった。


「親に言って夏休みに連れて行ってもらえば? 私はいっつもこんなとこだけど」

「うん。そうしたいけど、ずっと病院だから……」


 少年の寂しげな言葉に、ほたるは相手のことをよく知りもせず口にしてしまったことを、すぐに後悔した。


「ごめん。何か事情があるんだよね」

「謝らないで、仕方ないんだ」

「病気なの?」

「うん」


 しばらくほたるは何も言えず黙り込む。


 ブー。


 ブザー音が鳴った。


「何の音かしら?」

「ああ、もうすぐ電話が切れるんだ。丁度一分後に」

「そうなの……」


 見ず知らずの得体の知れない相手だったが、このまま電話を切ってしまうのはなんだか後味が悪かった。


「ねえ、熊取さん」

「え?」

「またこうして話せないかな」

「え? 話すって?」

「僕はずっと病院暮らしで外の世界を知らないんだ。友達を作りたくても学校に行ったことも無い」

「そうなの……どうしようかな……」


 ほたるは電話のコードを指に絡ませてほんの少しだけ考える。

 見たこともない少年の言葉に、心を動かされたのは確かだった。


「いいわよ……」

「いいの!」

「うん」


 受話器の向こうの明るい声に、スッと気持ちが軽くなった。

 ほたるの口元に自然と笑みが浮かんだ。


「明日、同じ時間にこの電話に掛けるよ。また話をしようよ」

「え? この時間に? しかも公衆電話だよ」

「え、駄目かな?」

「ダメじゃないけど自宅とかの方が良くない? 私、携帯持ってないけどそっちは持ってるんだよね」

「いや、その電話でないと駄目なんだ」

「え? どういうこと?」


 ブー。


 またブザーが鳴った。


「あと十秒で切れる」

「あ、えっと、じゃあまた明日ね」

「うん。約束だよ」

「うん。分かった」


 通話は突然切れてしまった。

 ほたるは切れてしまった受話器を手にしたまま、しばらく呆気に取られていた。


「私いったい何やってるんだろう……」


 完全に真っ暗になってしまった気味の悪い県道に、また静けさが戻った。

 ほたるは不思議な電話の前で波の音を聴きながら、いったい何がどうなっているのだろうと考える。

 結局なんの知恵も浮かばないまま、ほたるは天を仰いでため息をついた。

 少女の仰ぎ見た澄み渡った空には、いつの間にか落ちてきそうなほどの星が瞬いていた。

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