銀河コミュニケーション
ひなたひより
第1話 少女の夏
島根県の美しい海の見える入り江にある町。
地元の県立小学校に通う女の子だ。
日焼けした肌に短めの髪、意志の強そうな目をした少し丸顔の活発そうな少女は、じりじりと肌を焼く太陽の光を、腕や首筋に感じながら自転車のペダルを踏みしめる。
海岸沿いを疾走する自転車は、さながら少女の内面の勢いそのままに、揺らめく陽炎の県道を真っすぐに進んでいく。
少女の左手には透き通る様な青い海。
白い砂浜はその透明度を際立たせる。
右手には深い森が続き、クマ蝉が五月蠅いぐらい合唱を響かせている。
夏休みに入ってすぐのあまり人通りもないこの県道には、夏の空気が充満している様だった。
自転車で潮風を切る少女は、そんな夏の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「気持ちいいー!」
少女は高らかに声を弾ませる。その黒く澄んだ瞳は、鮮やかな夏色を映しだす。
青い空に向かってどこまでも続く真っ直ぐな道の先に、ドキドキするような背の高い夏の雲が伸びていた。
「おはよう」
小さなブレーキ音をさせて自転車を停止させると、ほたるは先に待ち合わせ場所に自転車で到着していた少女に声を掛けた。
自分もそうなのだが、頭の上に載った大きな白いヘルメットが、日焼けした小柄な体にいかにもアンバランスだった。
「あ、ほたるちゃん、おはよう」
眼鏡をかけたおさげの少女は、手にしていた携帯から視線を移し笑顔を見せた。
おさげの少女のまたがる水色の自転車の籠には、プール用の透明なビニールバッグが入っており、その中に少女は携帯をしまった。
「暑くなりそうだね」
「うん。そうだね」
海沿いのバス停の前で待ち合わせた二人は、同じクラスの同級生。
それほど生徒のいない学校で、二人は一年生の時からずっと同じクラスだった。
つまるところ、この二人の少女が通う小学校には、学年ごとに一クラスしかない。
昔の名残で教室は幾つか有るのだが、実際使っている教室は一学年につき一つだけだった。
男子十二人、女子八人の合わせて二十人だけの六年生のクラスで、一番仲がいいこのおさげの女の子、
ほたるも日焼けした顔で、白い歯を見せて笑顔を返す。
「学校のプール、一番乗りだったらいいな」
夏休み、学校のプールでは水泳教室が数日あり、最終日には進級テストがある。
その他に毎回、練習を終えてから一度だけタイム計測をする。その時にタイムを切れたらその都度に進級できる仕組みだ。
現在3級のほたるは2級を、4級の詩織は3級の進級テストを受ける。
二人とも目標タイムまであと数秒という所まで来ていたが、このところ伸び悩んでいたので、相当頑張らないと進級できそうになかった。
学校の宿題よりも、ほたるにとってはそちらのほうが優先順位が上で、小学生では最後の夏休みの今年こそ、必ず成し遂げると意気込んでいた。
そしてあわよくば1級も狙っていたのだった。
「ねえ詩織ちゃん、プールに誰もいなかったらタイム計ってくれない? ストップウォッチ持ってきたんだ」
「いいけど。多分矢島が先に来て遊んでると思うよ」
「あいつホントうっとうしい」
自転車をこぎながらそんな会話を交わす。
滅多に車の通らない県道。夏の光を跳ね返す白いヘルメットをかぶる二人が並走すると、ボウリングのピンみたいだった。
海沿いの県道から少し外れて、自転車で急こう配の坂をウンウン言いながら上がると、少女たちの通う白い校舎が見えて来た。
なんとか足をつかずに二人とも上り切る。
やせ我慢が二人の額に、大粒の汗の球を浮かび上がらせ滴らせる。
駐輪場に自転車を止めて一息つくと、すぐにプールへと向かった。
花壇の前を通り抜けると、奥の方から蝉のやかましさに混ざって、男子の笑い声が聴こえて来た。
「ほたるちゃん、やっぱり矢島のやつ来てるみたい」
「もう、あいつどんだけ早いのよ」
バシャバシャと音を立ててはしゃいでいる声だけで、誰がいるのか分かった。
更衣室に入った二人は、錆だらけのロッカーにビニールバッグを置くと、肌に張り付くシャツをもどかしい気持ちで着替えた。
濃紺のスクール水着に着替え、プールに出てみると、思った通り三人程の男子が水に入って大はしゃぎしていた。
その中に、二人が矢島と呼んでいた坊主頭のやんちゃな男子も混ざっていた。
学校でいつも絡んでくる、うっとうしいやつ。
男子の中でもとりわけ口が悪くて、ほたるはしょっちゅうカチンときては口喧嘩していた。
そしてプールを占領して遊んでいる男子三人を指さして、ほたるは憎々し気に顔をゆがめて、不満を浴びせたのだった。
「あんたたち、騒ぐんなら端っこでやりなさいよね。わたし練習したいんだから」
ほたるはプールの中央で遊んでいた男子三人に、あっちへ行けと手を振った。
はしゃいでいた少年たちは、いつもの喧嘩相手の登場に、うっとうしそうな顔を向けた。
「何だよ、先に来てたの俺たちだろ。あとから来て偉そうに」
「あんたらは遊んでるだけじゃない。私は泳ぎたいって言ってんのよ」
「熊女が熊かきで泳ぐのか? 下手糞は引っ込んでろよ」
「なんですって!」
ほたるは顔を真っ赤にして怒り出した。
「調子に乗るんじゃないわよ! たいしてバタフライできない癖に!」
「おまえだってそうだろ。あんな泳ぎで出来てるつもりか!」
「言ったわね……」
「おまえこそ……」
ほたると坊主頭の少年は、どちらも口惜し気に睨み合った。
だがプールサイドにいるほたるとプールの真ん中辺りにいる少年では、流石に遠すぎて掴み合いになることは無かった。
そうしている間に体育の先生が更衣室から顔を出した。
「お前らまたやってるのか、ホントいつ見ても元気な奴等だ」
四十代半ばぐらいの無精ひげを生やした体育教師は、学校でいつも見慣れている二人のいがみ合いに、やれやれと割って入った。
「お前らがやかましくやってたらみんな泳げないんだよ。さあ早くここにいる者でコースロープ張れ。矢島と熊取はバツとして二人で作業しろ。いいな」
「えー」
二人は同時にあからさまな不満顔を体育教師に向けた。
「私、詩織ちゃんとがいい」
「俺も木村とがいい」
「駄目。いいから早く始めろ。ちゃんとやらないと最終日まで二人で組ませるぞ」
よっぽど嫌だったのか、二人とも慌てて作業にかかった。
二人は最後まで睨み合いながら一本のコースロープを張り終えた。
体育教師はそんなバチバチの二人を、ニヤつきながら眺めていた。
一年生の時からずっと少人数の生徒たちを見続けているこの教師にかかれば、単純明快なこの二人を大人しくさせるのは造作もないことなのだろう。
「さあ、練習はじめるぞ」
教師の掛け声で、生徒たちは何も言わずとも級の順で列を作った。
一時間の練習の終わりには、その日の成果を確認するためにタイムを計測する。
2級への進級を目指すほたるは50メートルのバタフライを泳がなくてはならない。
この日、練習で頑張り過ぎて疲れ切っていたほたるは、タイムどころか泳ぎ切れるかどうかも自信がなかった。
それでも隣で、同じように肩で息をしている矢島にだけは負けたくなかった。
同じ2級を目指している者は四人。
三人の男子に混ざって、女子ではほたるだけが50メートルバタフライの進級テストを受ける。
男子からは生意気な奴だと聴こえるように囁かれていたが、女子の中ではちょっとしたヒーローだった。
結構周りの期待に応えることが好きなほたるは、そういった性格も手伝ってやる気を溢れさせていた。
やってやろうじゃないの。
平泳ぎのタイムを計り終えた詩織たちがプールから上がると、今度はほたるたちの番だ。何も言われなくとも最終組の四人はスタート台に立つ。
ほたるは一番端のコースで先生のスタートの合図を、はやる気持ちを抑えながら待っていた。
そして短い笛の音と共に、ほたるは勢いよく飛び出した。
飛び込んだ瞬間にあの五月蠅かった蝉の声は聞こえなくなり、自分の体が作り出した気泡がシューっという音と共に後ろに流れ去っていく。
両足を揃えてドルフィンキックを三回打ってから腕を回して浮き上がると、誰のものともつかない賑やかな声援が耳に届いてきた。
独特の高揚感がほたるを包み込む。
ほたるはただ必死に腕をかいて水を蹴った。
夢中で25メートルを泳ぎ切りターンをする。勢いよく壁を蹴って浮上したとき、猛烈な息苦しさがほたるを襲った。
高揚感の中で前半のペースを上げ過ぎたせいだった。
息苦しさのせいで姿勢が乱れだしたほたるの体は、もどかしいほど前に進まなくなった。
乳酸が筋肉に蓄積され、鉛のような重さが腕にまとわりつく。これ以上体を酷使するなという筋肉組織からの警告だった。
それでも負けたくない一心で、必死に腕をかき続ける。
バタフライ特有の肩を水面から出して両腕を前に送る動作を、ほたるの沈んだ体はもはや出来ていなかった。
そして沈んだ体で息継ぎをしようとしたほたるの口が吸いこんだのは、空気ではなくプールの水だった。
「ゴホ! ゲボ!」
おもい切りむせ返りながらも、ほたるは何とか足をつかずにこらえた。
一体なんの泳ぎをしているのかという有様で、何とか最後まで泳ぎ切ったほたるは、結局四人の中で最下位に終わった。
泳ぎ終わってからもむせ返っているほたるに、流石に心配そうな感じで体育教師が声を掛けてきた。
「熊取、おまえ大丈夫か?」
飲みたくなかったプールの水にげんなりとしたままのほたるに、先生は「お疲れ様」と声を掛け、そのあと聴きたくないくらい酷いタイムを教えてくれた。
肩を落としたほたるの口から大きなため息が漏れ出た。
「はあーーー」
こうしてほたるの夏休みは始まったのだった。
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