第34話 訪問診療
<1854年11月7日 夜半>
【楠瀬乙女】
『跡継ぎ争い』って、跡継ぎの座を奪おうとする争いじゃなくって、
跡継ぎの座を譲り合う争いかい。
権平さんは商いが忙しく、年齢的にも下り調子。
龍馬はまだ及ばぬところがあるが、これからに期待できる。
まぁ、年齢は技術でカバーできる部分もあるが、
商売が忙しいんじゃ、修練もままならないのだろう。
龍馬はまだまだ一所に収まらないだろうし。
とは言え、なんであんたと諸国漫遊せにゃいかんのかね!
日本初の新婚旅行は嫁と行っておくれ。
…って?
今の声は誰?
「今のは??」
「あぁ、失礼いたしました。母の北代伊代殿でございます。」
「父が病に臥せってから看病をいたしておるのですが、
先日父が労咳と言われましてな、乙女殿にうつしてはならんと裏に控えておったのです。」
千鶴さんと権平さんが答えてくれた。
母親に『殿』?
なんか違和感があるが、それより気になる言葉があった。
労咳…、結核か!
確かに空気感染するけど、どっちかというと飛沫感染に近い。
適切な処置さえすれば感染は防げる病気だ。
ここまできて感染症とは、何の因果なんだか!
しかも人柱にされて看病するなんて、
つい最近まで見ていた光景のようで無性に腹が立った。
「治療はどうなっていますか?」
気になるのはそこだ。
「わかってからは先生方も近寄りすらしてくれない始末でして…。」
千鶴さんが目を伏せながら教えてくれる。
そう、この時代、結核に対する有効な手立ては確立できていない。
「その診断はいつあったのです?」
「つい1週間ほど前ですが…?」
うん。
その見立てが正しければ、まだ間に合う。
「まず、お父様の容態を診させてください。
そのあと、私の見立て通りなら、ちょっと遠いですが、私の診療所に来てくれませんか?
ご一家以外にお父様に密に接触した人も含めて。」
「…?
どういうことですか?
というか、『父をみる』とはうつるのが怖くないんですか?」
「すみません。言いそびれましたが、わたしの本業は『医師』です。
その病に心当たりがあり、対処法を知っています。
診るにあたって、いくつかご協力いただきたいのですが、手伝ってくれますか?」
「できることなら!」
千鶴さんが答えてくれる。
なら!
「まずは風呂ってありますか!?」
【坂木権平】
龍馬を走らせ湯の準備に行かせた。
医術に風呂が必要とは…。
準備ができて、父上を入らせるのかと思いきや、入らせるのは伊予殿という。
乙女殿が覆面というか口当てをして、伊予殿が入る風呂に向かっていった。
千鶴が伊予殿の面倒を見、出てきたときには肌も毛艶もよくなっておったが、
これが父上の病気を診ることなのか?
ようなったのは伊予殿では??
「これからが本番ですから。
一旦お湯を全部捨てて、もう一度風呂の用意をしてください。
私はお父様のところへ。」
よくわからんが、言われるがままに父上の寝室の前まで案内する。
「…父上、起きていらっしゃいますか?」
「…権平か。起きておるぞ。」
「夜遅くで申し訳ありませんが、医者が参りましてございます。」
「そうか…。どうぞ…。」
「失礼いたします…。
こちらは楠瀬乙女殿。
若くございますが、父上の病について詳しいとのことでお連れいたしました。」
「楠瀬乙女です。よろしくお願いします。」
若い、女子の医師が、夜更けに来るなど、
父上は怒るかと思ったが、「そうか」とだけ言ってまた横になられた。
思ったよりも気力を削がれているのだろう。
「お疲れかとは思いますが、診察させてください。」
【楠瀬乙女】
お父様、八平さん、の診察を終えるころには、八平さんは眠ってしまった。
うん。
症状や聞き取りから、ほぼほぼ結核だと思うね。
確定診断は診療所のレントゲンを見てからになるけど。
疲れて眠ってしまった八平さんに新しい布団をかけた後、
権平さんを連れて風呂に向かう。
「私は後でいい。
権平さん、先に風呂に入って。
入り方はさっき伊予さんと千鶴さんに教えたから指示に従って。
兄妹でしょ!恥ずかしがらない!!
面倒だろうけど、入ったらもう一度湯を沸かして。
次は私が入るから。
それから、風呂から上がったら、私が風呂に入るまでは私に近づかない!
皆に徹底して!いいっ!?」
みんな意味を分かっていないようだけど、指示には従ってくれるようだ。
こういうのを裕子ちゃんが言う
けど、救える命を救うのが医者ってもんだろ?
<1854年11月8日 朝>
【楠瀬乙女】
あれから私も風呂に入り、全身を石鹸で洗った。
マスクをしているとはいえ、体に着いたりするわけだから予防措置だ。
着ていたものも収納した。
夜も遅かったことから、事情については朝になって説明するとして寝ることにした。
朝食には『大丈夫だから』と言って、伊予さんも同席させた。
話を聞けば、伊予さんは八平さんの後妻だそう。
前妻の幸さんが亡くなる前から一家と交流があり、
特に千鶴さんを妹のようにかわいがっていたという。
そのために逆に姉妹意識が抜けずに距離感が微妙にあったせいで、
『殿』と敬称がついてしまうようになったそうだ。
改めて、朝食をとってから、皆に昨日の説明をした。
「確定診断は診療所でしかできないけど、
昨日診た限り、皆さんの八平さんは労咳で間違いない。
けど、私なら治せるかもしれない。
私達がうつらないようにする対処法だけは知ってるから、昨日実践した。
風呂に入るのがそうだよ。さらに体をしっかり洗ってもらっただろう?
それが対処法の一つだよ。」
「そのようなことで本当にうつらないので?」
「もちろん、完璧じゃぁない。
が、ほとんど防げると思っていい。
労咳になったからといって、周囲の人間全員が労咳にならないのはわかっているだろ?
注意するのは患者がこっちに向かって咳をしたりする時ね。
要点を抑えれば怖くない、剣術と一緒だろ?」
「姉貴が言えば信憑性があるのぉ。」
皆いぶかしげだったが、龍馬の援護射撃で何とかなった。
思ったより家族に信用されているじゃないか。
「あとは衣服・布団を清潔に保つこと。
昨晩布団を変えたのは、ついた病気の元を払うため。
洗う時にはマスクをつけること!」
「『ますく』とは昨晩つけておった覆面ですか?」
「そうだよ。
布で作ったものでもある程度効果はあるけど、
それまでは八平さんに接触する人には私が支給するのをつけてもらう。
1度使ったら効果が薄くなったり、最悪うつりかねないから
使い捨てにすること。
時間があれば布で作ってみたらいい。三角巾でもいいよ。」
皆、物分かりがいい。
坂本家ってのはすごかったんだね。
そりゃ時代の先を見据える人間が生まれるわけだ。
そう感心しつつ、これからについての話をする。
「乙女さんが言う通りなら治せるかもしれないんですよね!?
どうすればっ!?」
「またんか千鶴…。そう焦っても乙女殿が困るぞ。
乙女殿、昨晩言ったようにあなたの診療所に一家や、父上に接触が深い人間と共に行かねばならないのですよね?」
「そうです。拡散しかねませんので、早期に対応せねばなりません。」
「遠いとは言っても、わぁなら一晩で行って帰れる距離じゃきぃ!」
「ちなみに、『接触が深い人間』とはどの程度で?」
「ん~、発病して床に伏せた後に、頻繁に接触していた人、かねぇ~」
「それならおりませぬ。
発病後は私が家を取り仕切っておりました。
また、看病は伊予殿がしてくれておりました。
店なら1,2日は栄が回してくれましょう。」
「善は急げじゃ!さっそく支度すっぞ!」
皆がバタバタと支度を始める。
八平さんには簡単に事情を説明したらしいが、飲み込み切ることができず、
とりあえずは息子の権平さんの言葉に従ってくれたらしい。
権平さんは里帰りをしていた次女の栄さんに事情を説明し、2日ほど家を空けることを伝えにいったのだが…。
一人の女性が一緒に帰ってきた。
「私も行きます!」
この人が栄さんらしい。
ちなみに栄さんが会議に加わらなかったのは、千鶴さんの子供の世話を見るために、
万が一を考えて店の方で寝泊まりをしていたそうだ。
紆余曲折あって、栄さんが同行、伊予さんが留守番と子供の世話をすることになった。
濃厚接触していたのは伊予さんだから、伊予さんにこのまま看病してもらいたい気持ちは確かにあるが、私はそういうのが嫌だ。
あの悪夢を思い出す。
それに、感染症への抵抗力を考えれば、若い方がいいのは確かだしね。
伊予さんは久々に家にこもることもなく、太郎くんと一緒に居れると喜んでいた。
血のつながりはないとはいえ、小さいころから家族ぐるみで付き合ってきたから実の孫以上に触れ合う機会は多かったようだ。
それに昨日の私の話を踏まえて、皆が診療所に行く間に家中の掃除もしてくれるそうで、大変助かる。
私が持ってきた荷物も置いていくことにした。
皆が帰ってこない場合や、八平さんがよくならない時にはうっぱらってもらうようにした。
まぁ、保険だ。
『若い女の医者』なんて信じれないだろうしさ。
「そんなものはいらない!」と皆が言ってくれたんだけど、私として通すべき筋は通しておきたい。
それに、今から歩いて帰るのに邪魔だという旨を伝えると、渋々受け取ってくれた。
とはいえ、現金が欲しいので売却だけは進めてもらうようにし、取り分は後で話し合うことになった。
とりあえずさっさと行かないと、本当に日が暮れちまう。
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