やがて森になる

尾八原ジュージ

やがて森になる

 日が照っていた。

 かつての目抜き通りは今は影も形もない。両脇を固めていた店々のウインドウは瓦礫の山と化している。アスファルトは剥がされて土が露出し、人々はそこに根を下ろしていた。

 突然世界中で始まった人間の樹木化は、もはや留まるところを知らない。また、止めようとする人もすでにいなかった。黙って立ち並ぶ人々は、もう木そのものと言っていいだろう。肌はすでにガサガサとした樹皮となり、頭部や肩から伸びた枝には緑の葉が生い茂っている。誰も彼も目を閉じて何も語ろうとはしない。死んでいるのではない。眠っているのだ。風が吹くたびに、ざわざわと葉っぱの擦れる音が鳴り渡り、それが彼らの会話のようだった。

 東京にいた人間はおそらくほぼすべて木と化している。人間らしい活動が可能だった最後の数ヶ月をもって、彼らは日光と土を求めて建築物を破壊した。樹木化が始まったそのときから、誰もが本能的に悟ったのだ。こうなるのが一番よいのだと。わたしもそういう心境になっていたし、だからこそ人のいない場所、そして広々と根を下ろせる場所を探していた。

 強張り始めた足の歩みはひどく遅い。

 わたしはつらつらと考えごとをした。ひとりだけ樹木化が遅れたのは、日光に当たる時間が極めて少なかったからだろうか? それとも、人と関わることがほとんどなかったからか? いや、単に体質の問題なのかもしれない。今更答えを求めても仕方がないことで、それよりもわたしには、どこかしらゆっくりと根を下ろせる場所が必要だった。

 完全に出遅れた。よい場所はもう粗方ふさがっている。歩くたびに体の中からぎしぎしと音がした。

 車に乗ろうかと何度か考えた。その辺に乗り捨てられた車を使えば、楽に移動ができるかもしれない。でも道路にはすでにたくさんの木が生えていて、それらをなぎ倒して進むことは普通車には難しそうだった。人情としてもやりたくないと思った。

 いっそ誰かが抱っこして運んでくれないかしらと思っていたわたしに、お誂え向きの出会いが訪れたのはそのときだ。

「あー! いたいた!」

 と大声をあげながら、華奢な人影が近づいてきた。

「ごめんね、待った?」

 そう言って小首を傾げた彼女は、黒いロングヘアをなびかせ、ひらひらした白いワンピースを着ていた。足は裸足で、ピンクの爪がきちんと並んでいる。

 彼女が人間を模したロボットであろうことはすぐにわかった。まったく樹木化していない。おまけにどこかにぶつけたのか、右頬の表皮がちょっぴり剥がれ、その下に鉄板が露出していた。

 可愛くて若い女の子の姿をしているし、とても人懐っこい。おそらく個人の家で、恋人や奥さんとして使われていたものだろうと見当をつけた。本来の恋人と、わたしみたいな冴えない女の見分けもつかなくなったのは故障のせいだろうか? それとも元々の設計が甘いのか。いずれにせよ地獄に仏だと思った。

「頼みがあるの」

「えっ、なになに?」

 頼み事をされると知って、女の子はとても嬉しそうにニコニコした。

「運んでもらえない? わたしを」

「いいよ!」

 女の子は「よーし」と手を叩いて、わたしの右腕を彼女の首にかけさせた。

「持ち上げるからね? せーの」

 両足がふわっと浮いた。人生でたぶん初めてのお姫様だっこを、この人類全滅のときに味わっている。それも見た目はとても可愛い、ロボットの女の子に抱かれている。なんだかシュールだ。思わず「重くない?」と尋ねると、「全然平気だよ!」と答えて彼女は笑った。

「ねぇ」

 揺られながらわたしはまた尋ねた。「あなたの名前は?」

「リンカ」

「じゃあ、わたしは誰?」

 リンカは少しも迷わず、「りょうくん」と答えた。それが彼女の本来の持ち主の名前なのだろう。わたしは特に否定はしなかった。取り急ぎ、そのことは重要ではない。

「リンカちゃん、わたし仕事で地下室に缶詰になることが多くてね。だから今の状況にあまり詳しくないんだけど、他の人はみんな木になっちゃったのかな?」

「うーん、わかんない」

「ほかに動いてる人っていない?」

「うーん、わかんない」

 あまり高度なやりとりは望めそうになかった。

 なんにせよ、リンカに出会えてよかった、と思った。移動が格段に楽になったからだ。「日当たりがよくて広い、土があるところを探してる」と言うと、彼女はニコッと笑って「オッケー」と答えた。それからぱちぱちっと瞬きをしてしばらく動きを止め、突然無機質な声で「十キロ圏内に一件ヒットしました」と言った。どうやら、わたしの伝えた条件に合う場所を検索してくれたらしい。

 何キロもお姫様抱っこのままで移動させるのは可哀想な気もしたが、何だかんだ言ってもリンカはロボットで、本物の華奢な女の子ではないのだ。遠慮はやめた。

「じゃ、行こっか。りょうくん」

 リンカの歩みはスムーズだった。動きも自然だ。ただ知能の方はさほど高くないらしく、「わたしの名前は沢渡るり」と何度言っても、すぐに忘れて「りょうくん」と呼ぶのだった。

 まぁ、いいか。わたしは訂正を諦め、黙って彼女に運ばれることにした。日は中天を過ぎていた。


 完全に樹木と化して根を張ってしまう前に、多くの人は日当たりのいい屋外へと出ていた。

 皆目を閉じ、一様に穏やかな顔をしていた。これがきっとわたしたちにとって一番しあわせな運命だったのだと、彼らの表情が語っているように思えた。この樹木化がなければ、いずれ人口増加による食糧難が世界中で発生し、不幸な事件が数え切れないほど起きていたことだろう。

 それにしても東京にはこんなに人がいたんだな――改めてそう思うほど、外は樹木化した人間で溢れ、森そのものになりつつあった。

 たくさんの人とすれ違った。

 夫婦らしい男女が寄り添っていた。女性は赤ちゃんを抱っこしていた。

 杖と一体になった老人が、空を見上げたまま木になっていた。

 ニューヨーク、パリ、ロンドン、北京……真っ白な塀にひたすら世界中の都市の名前を書き、その前に立って樹木化している男性がいた。壁の隅には昨日の日付と、「各都市応答なし。僕が最後の人類かも? 違ったら教えてください」という言葉が並んでいた。塀の上には黒い油性マジックが置かれている。

「リンカ、そこのマジックとってくれる?」

「はいっ!」

 わたしは壁に今日の日付を書き、「わたしが最後かも」と書き添えた。

 男性はうっすらと笑みを浮かべていた。わたしも微笑んだ。ひさしぶりの他人との交流らしきもの、それをわたしは純粋に「楽しい」と思った。

「ねぇリンカ」

 少し会話というものをしたくなった。わたしは体勢を立て直したリンカに話しかけた。

「わたし、大きなサーバールームの保守点検が仕事だったの」

「そうなんだ! すごいね!」

「他人と関わるのが苦手でその仕事についたの。毎日大きな箱みたいなサーバーが並ぶ広い地下室を歩いて目視で点検するの。必要な報告だけすればいいから楽で」

「うんうん、わかるー」

「両親は生きてるはずだけど、実家を出てからはほとんど会ってなかった。折り合いが悪くって。妹と弟が一人ずついて、そっちとはたまに連絡とってた」

「そうなんだ! すごいね!」

「ふふっ」

 やっぱり、あまり会話は得意じゃないのかもしれない。わたしがおかしくなって笑うと、リンカも笑った。

 彼女はあの目抜き通りで何をしていたのだろう? わたしはふと考えた。もしかすると、本物のりょうくんを探していたのかもしれない。そう思うと少し罪悪感を覚えた。

 わたしが樹木化した後、リンカはどうするのだろう? バッテリーはいつまで保つのだろうか? 森と化した街の中を、いつまで彷徨うつもりなのだろうか。

「こんなとこまで連れてきてもらって、ごめんね」

 わたしはリンカに謝った。

「いいんだよ、りょうくん」彼女は嬉しそうに笑った。「りょうくんと一緒にいられるだけで、あたしは幸せ」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 リンカの腕に身を預けて、わたしは、自分が本物のりょうくんだったらいいのにな、と思った。


 やがて、わたしたちは小学校にたどり着いた。

 グラウンドにはたくさんの人が根を下ろしていたけれど、隅の方になら多少のスペースが空いていた。少し狭いが日当たりは悪くない。これ以上を望むのは欲張りすぎだと思った。

「ここ、いいね。下ろして」

「うん」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 リンカの笑顔を、改めてとても可愛いなと思った。

 地面に下りると、待っていたようにわたしの足は根を張り始めた。みるみるうちに体が強張っていく。その一方で、わたしは体中に太陽の光が満ちていくのを感じた。人間だった頃には味わったことのない、しあわせな感覚だった。

「リンカ」

「りょうくん」

「あなたに会えてよかった」

「あたしも!」

 わたしの髪がカサカサと音を奏でた。いつの間にかこんなに葉が繁っていたのだ。

 わたしは目を閉じた。

 まぶたの裏にリンカの笑顔が映った。「僕が最後の人類かも?」と書き残した男性のことを思い出した。たぶんわたしじゃないかな、わたしは心の中で呟く。少し離れた場所で根を張っている彼に届くような気がした。

「りょうくん、眠いの?」

 リンカの声を聞いた。

「うん。おやすみ」

 わたしは葉擦れのような声で囁いた。「おやすみ」とリンカが言い、細い指がわたしの頬をそっと撫でた。

 わたしの意識は静かに、静かに土の中へと潜っていく。そうして人類は永遠の眠りについた。

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