ある男の奮闘

小野寺かける

本願

 妻が死んでどれだけの日々が過ぎただろう。薄暗い部屋の中で、男は埃だらけの床に膝をついた。

 朝日が差しこむ窓際にはベッドを置いてある。そこで眠るのは、かつて街一番の美人と謳われた妻だ。病で命を落として長い年月が経ち、生前の面影は当然ながら失われている。

「ああ、でもやっと」

 血の気のない唇を笑みの形に歪めて、男は垢と皺にまみれた手をサイドテーブルに伸ばした。そこには白いクリームに赤々と艶めく苺が生えるケーキが乗っていた。

 妻とこれから先もずっと一緒にいたくて、男は死者蘇生の術に縋った。それに関する書物をかき集めて読み漁り、錬金術や魔術、生贄などありとあらゆる方法を試したものだ。

 なかなか効果を得られずに歯がゆさが募り、諦めそうになる日もあった。親族や友人から理解を得られず白い目を向けられ、孤独に震えた夜もある。

 しかし妻が眠るベッドのそばに行くたび、耳の奥で彼女のナイチンゲールの如き声が響いたのだ。私を必ず蘇らせて、と。

 これは自分だけの願いではない。妻も命を取り戻すことを望んでいる。

 そういえば、彼女には口癖があった。

 ――女の子ってね、お砂糖とスパイス、それから素敵なもので出来てるの。

 どうして忘れていたのだろう。男はキッチンに駆けこむやいなや、家にあった砂糖とスパイスを使って様々な料理を作った。

 残念ながら腕が悪かったせいで、初めはただの炭と変わらないような一品ばかり量産した。出来損ないを適当に捨てたり、食材を腐らせたりもしたものだから、キッチンどころか家中に腐臭が漂った。

 足の踏み場もないほど散らかったさまを目にすれば、きれい好きの妻は怒るだろう。しかし掃除をする余裕はない。一刻も早く己の仮説が事実だと確かめなければならないのだ。あとでいくらでも怒られる覚悟をして調理に没頭した。

 どうにか完成した料理は一口ずつ妻の口元に運び、上顎を持ち上げて噛ませる。ぐちゃ、と食材が潰れる音が響くたび、彼女が生き返ったような気がして心が安らいだ。

 そんな日々をくり返したある日、男が動かすより早く、彼女は自ら口を開けた。

 あの瞬間は永遠に忘れないだろう。骨だけになった妻に、命の欠片が確かに戻ったのだから。

「サリア」

 愛しい名前を呼びながら、男はケーキを一口ぶんフォークに突き刺して妻の口元に差し出した。

 咀嚼するたびに彼女の骨は僅かずつ、しかし着実に肉を纏う。腕と脚はほとんど元に戻っているし、この調子なら二年後には生前の美しさで笑いかけてくれるに違いない。

 ケーキをゆっくり食べる妻に微笑んで、男は壁にかかった金の額縁に視線を移した。

 収められているのは若かりし頃の二人の肖像だ。結婚祝いに、と知り合いの画家がくれたもので、そこに描かれた妻の姿こそ、男が取り戻したいものである。

「また君と手を繋いで歩ける日が待ち遠しいよ」

 男の囁きに応じたように、妻の顔がかすかに動く。「私も」と同意してくれたのだろうか。

 桃色に艶めいた頬も、リンゴのように赤かった薄い唇も、瞼が無くてむき出しの青空の色の瞳も、なにもかもが肖像とは程遠いぐちゃぐちゃの状態だというのに、男は満足げに朗笑した。

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ある男の奮闘 小野寺かける @kake_hika

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