第10話 脱走
「あぁ、クソ……やらかした」
ベッドの上で、俺は天子とのやり取りを思い出し、悶えていた。
あれから、特に天子はペンに言及することなく、俺はまた作業に戻った。そして、現在の時刻は午後六時。日が沈み、二日目の取材が終了しようとしていた。
「大丈夫……だよな」
傍から見れば、何も怪しいことはないはずだ。ただペンを落としただけ──だが、天子の表情を思い出すと、どうも気になってしまう。あの顔は──俺を揶揄していた。例えるなら、花瓶を割ってしまってデタラメな言い訳を繰り返す子を見る親といったところか。確実に、何らかの意図があったに違いない。
だからこそ、あれ以上何も言ってこなかったところが不気味なのだ。意図や思考が読めない。できるなら、もう会いたくないとさえ思ってしまう。まさか、俺は泳がされているのだろうか。全ては天子の計画、なのか。
「はぁっ」
大きな溜息を吐く。考えていても仕方ない。
とにかく、俺は無事に生還した。今はこの事実さえあれば十分だろう。ポケットの中からメモ帳を取り出す。
「あとは……この謎解きだな」
天子の部屋から持ち帰った成果を改めて振り返る。
西暦のような数字が羅列された暗号。そして、バフォメットのような姿をした像に記されていた『彁混神』という文字。さて、こいつらをどうするか。
やはり、気になるのは数字の方だ。特に、最初の『1978 〇』という部分。ここがどうしても引っ掛かる。
「……頭までは出かかってるんだが」
確かに、俺はこの数字に見覚えがある。しかし、どこで目撃したんだ。ここ数か月以内の出来事なら、さすがに思い出せるはず。ってことは──それより前に見たということになる。
「……駄目だ。思い出せん」
三十分近く記憶を遡ってみたが、正解に辿り着くことはなかった。そうなると、あとはこの“彁混神”だ。
「……なんだ。この漢字」
出版業界に席を置いているということもあり、活字に関しては俺もそこそこ自信がある。だが、それでもこの「彁」という文字に関しては──見覚えがなかった。
常用漢字、または一般的に使われる漢字ではないというのは確かだ。となると、やはり何か宗教的な意味を持っているのか、中華圏で使用されている文字の可能性が高い。これもネットで検索すれば一発で分かるだろうに、携帯がこの場にないのがもどかしい。
結局、持ち帰った情報は現時点では何も解明できないという結果で終わってしまった。最低でもあと二日はこの謎を抱えたまま過ごすことになる。
「……いや、無理だな」
ただでさえ三段目が開けなかったことをまだ引きずっているのに、それに加えて解明に二日も生殺しにされるのは耐えられない。それに、期限まで待っていたら──間に合わない。何となくだが、これらの暗号は二日後に控えている降誕祭とやらに深く関わっている気がする。そうなると、最低でも明日中には全容を理解しておく必要がある。
しかし、どうする。恐らく、俺一人では解決するのは不可能だ。かと言って、信者に聞き回るのは論外。携帯を取り戻すというのも現実的じゃない。つまり、残された道は──
「……脱走、だな」
食堂で夕食を済ませ、軽く仮眠をとった。
現在時刻は深夜の十二時。ちょうど、日付が変わる頃合いだ。
計画はこうだ。まず、この天使の故郷を抜け出し、公衆電話を探す。そして、相手にメモの内容を告げ、再び何事もなかったかのようにこの部屋に戻ればいい。
事前に周辺の地図は頭に入っている。夜道ということもあるが、人通りがある場所までは一時間程度で出るはずだ。つまり、多く見積もっても往復三時間もあれば、戻ってこられる計算になる。
ここに住む住民は大半が翌日の朝礼に出席するということもあり、深夜は寝静まっているに違いない。抜け出すにはこのタイミングしかないのだ。勝算は──かなり高いと見込んでいる。
「……行くか」
唯一の懸念材料を挙げるならば、門番の存在だろう。一応、正面の門は夜になると施錠されるのだが、容易に乗り越えられる高さだ。しかし、警備の者が周囲にいたなら、素直に諦めるしかない。
ゆっくりと、部屋の扉を開け、左右を確認する。人影は──ない。照明も付いておらず、月明かりだけが唯一の光源だった。
事前に暗闇に目を慣らしていたということもあり、ある程度の視界は確保できている。ゆっくりと、足音を立てないように、俺は移動を始めた。
数分後、無事に正面門の前に到着する。
さて、ここが一番の難所だ。この時点で誰か見張りがいるなら、作戦は中止。大人しく尻尾を巻いて、部屋に戻るしかない。頼むぞ。
物陰から様子を伺う。ざっと見る限りは周囲には誰もいないようだ。よし、こうなったら、もう行くしかない。
意を決し、俺は門へと駆け寄り、内門の施錠を足場に、木登りの要領で乗り越える。
ドンッ
静寂な闇の空間に乾いた着地音が鳴り響く。慌てて、周囲を警戒するが、誰も来る気配はなかった。脱走は──成功だ。
あとは体力勝負。一直線に俺は市街地に向かって走り始める。目指すはその先にある公衆電話だ。今のご時世、携帯電話の普及ですっかり数は減ってしまったが、いくつか目星はある。設置の法則さえ知っていれば、そこまで探すのに苦労はしないだろう。
いつの間にか、俺は笑みを浮かべながら走っていた。あぁ、まさか、ここまで順調に事が進むとは思わなかった。我ながら、できすぎているとさえ感じる。あいつらの言葉を借りるなら──これも神の思し召し、というやつなのだろうか。つくづく、便利な言葉だな。
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