第9話 嘲笑
なんだ、これは。
一見すると意味不明な数字と記号の羅列だ。いや、これだけでも一応考察することは可能だが。
この数字は──パスワードというよりも、番号が連続していることから西暦のように見える。そうなると、下の記号は何らかの成否に近い情報なのではないだろうか。つまり、一九七八年に、何か起こったということか。
「……何か、引っ掛かるな」
一九七八年。この数字に、俺は既視感を覚える。今から四五年前、昭和五三年。俺が生まれる五年も前、半世紀近く前の年号だ。だが、なぜだろうか。この数字に見覚えがある。なんだ、俺はどこで見かけたんだ。
貴重な十秒間を使って、記憶の片隅から呼び起こそうとするが──駄目だ。思い出せない。クソッ。恐らく、インターネットで検索をすれば一発で分かるはずなのに、寸前のところで出てこない。これも歳のせいか、情報化社会の弊害か。どちらにしても、今はこの数字に時間をかけている暇はないだろう。
俺は急いでメモ帳とペンを取り出し、内容を書き写す。よし、これでいい。残り時間は──二分を切っていた。急がなくては。紙切れを元の位置に戻し、二段目の引き出しに手をかける。
「…………っ」
“それ”を見た瞬間、俺の思考は一瞬停止する。
あの数字も意味不明なものだったが、これはそれ以上に奇怪なものとしか言えない。だが、ある意味では俺が求めている情報に非常に近いものだろう。ゆっくりと、丁寧に、貴金属を扱うように、俺はそれを持ち上げる。
それは御神体のような形をした木堀の像だった。一見すると、ただの工芸品のように見えるが──よくよく観察すると、妙だ。とてもではないが、俺はこれが“神”には見えない。
そいつは山羊のような頭をしており、腕が四本、翼と尻尾が生えているという不可思議な姿をしていた。いや、俺はこの姿を知っている──これはまさしく古来の“悪魔”の一人だ。
名は確か「バフォメット」だっただろうか。キリスト教に伝わる有名な異教の悪魔であり、頭部が山羊というのが最大の特徴だ。まさか、このバフォメットが──お父さまとお母さまの正体、なのか。
本格的に邪教っぽくなってきたな。探りを入れて正解だった。これは特ダネだぞ。昂る感情を抑えながら、俺はその像をよく観察する。
「……ん?」
その時、像の下部に妙な文字が彫られていることに気付いた。察するに、この神の名前だろうか。
『彁混神』
「かま……かみ?」
反射的に、俺はその文字を読み上げる。
いや、正しい読み方だという自信はない。少なくとも、この「彁」という漢字は見たことがなかった。何となく「可」につられて「か」と読んでしまったが──これで合っているのだろうか。
一応、メモ帳に彁混神の名も記しておく。時計を確認すると、既に制限時間である五分を超過していた。
どうする。残りの棚は一段残っている。ここは諦めるべきか、調べてみるか。いや──答えは既に決まっていた。
「…………」
俺は三段目の引き出しに手を──かけることなく、来客用の椅子へと戻った。
「ふーっ」
そして、大きな深呼吸をする。
あぁ、息が詰まる。まるでこの五分間は呼吸を止めていたようだった。いつの間にか、全身からは汗が滲み出ている。
分かっている。分かってはいるんだ。あそこは三段目を開けるべきだった。一段目と二段目を見るに、三段目も何か入っていた可能性が非常に高い。しかし、臆してしまった。
最初から、五分を過ぎたら止めるというのは決心していたのだ。この与えられた五分という時間はあくまで希望的観測、勘に近い。俺は記者としての直感を信じることにした。これ以上、探るのはまずい。ここがデッドライン、限界だったはず──だ。
そのようなことを考えていた時、後方から部屋の扉を開く音が聴こえた。
「すみません。藤木さん。待たせてしまって」
「え、えぇ。大丈夫ですよ」
天子が戻ってきた。咄嗟に時計の秒針を確認する。五分三十六秒。あのまま引き出しを開けていたら、間に合わなかっただろう。
結果として、俺の勘は当たっていた。やはり、いざという時に信じられるのは経験則から培った直感だ。危ない橋だったが、何とか乗り越えることができた。果たして、三段目には何が閉まってあったのか、その中身が非常に気になるが──今は忘れるべきだ。
「それで、何の話をしてましたっけ?」
「え、えぇ? さぁ……自分もちょっと忘れましたね」
数分前に命がけの物色をしていたということもあり、すっかりそれより前の天子との会話が抜けてしまった。
「あぁ、そうそう。藤木さんが私たちに興味を持ってくれた、という話でしたね」
「あー……そういえば、そうでしたね」
「ふふっ。嬉しい限りです。残りの時間で、藤木さんの人生に何か良いものが残ることを祈っていますよ」
「あ、ありがとうございます」
「では、時間も押しているので私はここで。表に比津地さんを待たせているので、午後からはまた彼に従ってください」
「分かりました。では失礼します」
よし、乗り切った。これ以上にない成果を持ち帰ることができたぞ。
高笑いをしながら小躍りをしたい気分を抑えて、俺は部屋から退室しようとする。しかし──その時、俺は大きなミスを犯してしまった。
コンッ
立ち上がった瞬間、軽いプラスチックが落下するような音が室内に響く。
「おや、何か落としましたよ?」
咄嗟に、俺は足元を確認する。そこには──メモを取る際に使用したボールペンが落ちていたのだ。
「……っ⁉」
一瞬で全身に鳥肌が立つような感覚を覚える。
い、いや──焦るな。ただ、ペンを落としただけじゃないか。何も疑われる要素はないはず。しかし、普段からペンを持ち歩いているというのは少し不自然じゃないか。まさか、記者と疑われるんじゃ。
そのコンマ数秒に満たない時間の間に、俺の脳裏には様々な感情が入り乱れる。
そう、ただペンを落としただけ。それだけなのだ。しかし、このカルトが支配する施設の中で、数分前に無断で室内を物色し、重要な情報を持ち帰ることができたという要素が加われば──話は変わってくる。
「はい。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
天子は足元に転がっているペンを拾いあげ、俺に差し出す。
だ、大丈夫だ。現時点では何も気付かれていないはず。それより、動揺を隠さなくてはならない。
「おや……? 藤木さん、どうしました? 汗でびっちょりですよ」
「え、えぇ?」
天子のその言葉で、俺は額から大量の汗が流れ落ちていることに気付く。
な、何をやっているんだ俺は。こんな明らかに取り乱してどうする。冷静にならなくては。
「もしかして、暖房が効きすぎてましたかね?」
「あ、そ、そうですね。ちょっと、それで暑いのかも」
天子の言葉に、俺はすかさず便乗する。
「ふふっ」
しかし──その瞬間、天子は不意に笑みを見せた。
「藤木さん、この施設に暖房器具はありませんよ?」
「──ッ」
天子は俺を嘲笑うかのように、怪しげな笑みを見せた。
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