狙われたクラリス 1

 ――大丈夫、大丈夫。


 そんな風に自分に言い聞かせても、限界というものがある。


「…………」


 クラリスはマチルダの部屋の窓から見える城の裏庭を、険しい顔で見下ろしていた。

 エメリックと名付けられた王太子夫妻の第一子の王子はお昼寝中で、隣の部屋で乳母が面倒を見ている。

 乳母のおかげで子育ての負担が軽減されるから、マチルダも産後の疲れがすっかり取れたようだ。

 今は窓際の席でのんびりハーブティーを飲みつつ、クラリスの顔を見上げて困った顔をする。


「もうすっかり、隠すつもりはなくなったみたいね」

「そのようですね」


 答えるクラリスの声は固い。

 窓外に見える裏庭では、日傘を差したウィージェニーが散歩中だ。その隣には、騎士服に身を包んだアレクシスの姿がある。

 ここの所、ウィージェニーとアレクシスは城での噂の的だった。

 アレクシスはウィージェニーのお気に入りの護衛騎士で、どこへ行くにも連れて行くのだ。ちょっとした散歩にまでこうして駆り出しているくらいに。


(アレクシス様も、噂が広まってからは堂々としたものだわ。いまだにわたしには移動になったことを報告してくれないけど、今更よね)


 この二週間というもの、何度、問い詰めてなじってやりたくなっただろう。

 相変わらず休みの日は重ならないし、アレクシスは城に泊ってばっかりだ。

 いつの間にか王都は秋の足音が聞こえてくるころになっていた。


「いくら何でも、ちょっと近すぎるわよね。わたくしからグラシアン様に言ってみましょうか?」


 ウィージェニーが日傘を持っていない方の手を、するりとアレクシスの腕にからめる。

 むかっとしたクラリスが眉を跳ね上げるのを見て、マチルダが気遣うように訊ねてくれた。


「ありがとうございます。でも、夫婦の問題ですので」


 ここで怒ってはいけない。何度も言い聞かせるが、苛立ちはどんどん蓄積されて行く。


(思えば、死ぬギリギリまで知らなかった一度目の人生は幸せだったのかもしれないわ)


 堂々とほかの女と仲良くしている夫なんて見たくなかった。

 ウィージェニーに話しかけられて、とろけるような笑みを浮かべているアレクシスは、何とも言えない情けない顔をしている。あれが自分に向けられればそんな風には思わないのに、不思議なものだ。


「グラシアン様も、どうしてアレクシスをウィージェニー王女に渡したのかしらね」


 はあ、とため息を吐きつつマチルダが窓の外へ視線を向ける。


「あの様子は、陛下や王妃殿下のお耳にも入っているわよ。そのうち、アレクシスはお義母様に呼び出されるでしょうね」


 結婚前にクラリスがフェリシテの侍女を辞めたくないと言ったからか、彼女は何かとクラリスとアレクシスの仲を気にしてくれている。

 アレクシスが堂々とウィージェニーと仲良くしていれば、フェリシテにも思うところがあるだろう。現に、クラリスは一昨日フェリシテに呼ばれて、事情を確認された。

 クラリスが、アレクシスから何も聞いていないことをありのまま伝えると、フェリシテはずいぶんと怖い顔になったものだ。

 ちょっぴり、アレクシスがフェリシテに怒られればいいのにと思ってしまう自分がいる。


「マチルダ様、グラシアン殿下たちが何をコソコソされているのか掴めました?」

「それがさっぱりよ。何か企んでいるのはわかっているんだけど、なかなか尻尾を出さないのよね。ジェレットを捕まえて問いただしてもさらりとかわされるし」


 夫が何かを企んでいるのはわかっているのに秘密にされるのは面白くない。クラリスだけではなく、マチルダも日々不満を募らせているのだ。


(マチルダ様を本気で怒らせた場合、困るのはグラシアン殿下でしょうにね)


 グラシアンはマチルダを溺愛している。マチルダが激怒した場合、グラシアンは絶対にマチルダに勝てない。おそらく喧嘩にもならないだろう。一方的にグラシアンが頭を下げる姿しか想像できない。


「第二妃様の件があってから様子が変なのはわかっているのよ」

「ですよね」


 グラシアンに毒を盛ったのは、ジョアンヌのはずだ。遺書にそうあった。だが、ジョアンヌが自殺した後も、グラシアンやマチルダには毒見係がつけられている。ロベリウス国では、以前から道徳的に毒見係が置かれなくなっていたので、表向きは「毒見係」としてはいないが、食事前に必ず毒の確認がされるのだ。


(つまり、まだ何かあるってことなのよ)


 ここまではクラリスもマチルダも推測がついている。だが、それ以上がわからない。もしかしたら、ウィージェニーにも何らかの危険が及ぶ可能性があって、アレクシスをつけることにしたのかもしれないけれど、事情が知らされていないから想像しかできない。

 クラリスの考えが及ぶ可能性の中では、グラシアンがアレクシスにウィージェニーを何らかの脅威から守るように命じて彼女の護衛騎士にした可能性が一番高い。


(そして、それが原因で恋に発展しちゃうのかしら……)


 一度目の未来で、アレクシスとウィージェニーが恋仲だと知ったとき、一体どこでそれほど親しくなったのかと疑問だったが、その答えが、目の前にある。これ以外に考えられなかった。


「そう言えば昨日、グラシアン様がまた文句を言っていたわ」


 一度グラシアンの不満を口にしたからか、マチルダが不満顔で思い出したように言った。


「クラリスをいつになったら辞めさせるんだって。しつこいわよね、いつになったら諦めるのかしら」

「すみません。おそらく、アレクシス様が殿下に頼んだのだと思います」


 アレクシスはなかなかマチルダの侍女を辞めないクラリスに焦れている。顔を合わすたびに、まだ辞められないのかとそればかり言うのだ。

 自分だって休みなく働いているのだから、彼の言うところの「休みが合わない」というのは理由にならないはずなのに、そのあたりは都合よく忘れているようなのである。

 マチルダはハーブティーに口をつけながらため息を吐いた。


「このままだったらグラシアン様が強引に別の侍女を連れてきてクラリスを追い出しそうだわ。だからね、わたくしも考えたのよ」

「考えた、ですか?」

「そうよ」


 キラリと瞳を輝かせて、マチルダが悪戯っ子のように笑う。


「お義母様にお願いしたの。ふふ、クラリス、お義母様の侍女に移動しない? いくらグラシアン様でもお義母様相手に強引なことはできないもの」


 クラリスはぱちくりと目をしばたたいた。


「え……大丈夫なんですか?」

「もちろんよ。お義母様も大歓迎だっておっしゃっていたわ。それに、最初に約束を破ったのはあちらよ? クラリスが侍女を辞めるときは、アレクシスも仕事を辞める時。最初からそういう話だったじゃない? クラリスが働く間だけアレクシスを借りるって殿下は言ったもの。それを守らない人に文句を言われる筋合いはないわね」

「でも、理由を聞かれるんじゃないですか?」

「それなら大丈夫よ。ほら、わたくしすぐに子供ができて自分で侍女を雇えなかったじゃない? エメリックが二、三歳くらいになるまではあまり環境を変化しない方がいいと思うから、しばらく新しい侍女の採用は控えるつもりなのよ。そうしたらお義母様が、それでは困るでしょとおっしゃって、ご自身の侍女を三人ほどわたくしに下さることになったの。でも、急に三人も侍女が減ったら、お義母様も困るでしょ? だから、ね?」


 なるほど、考えたものだ。フェリシテはマチルダ付きに移動させる予定の三人の侍女の代わりに、新しい侍女を雇うらしい。だが新しく雇った侍女が仕事に慣れるまでには時間がかかる。その間の補佐としてクラリスを雇う、という寸法らしい。


「わたくしはグラシアン様のお願いを聞いてクラリスを辞めさせるけれど、そのあと誰が雇おうと、わたくしには関係ないものねえ?」


 にこにこの可愛らしい笑顔であくどいことを言うものだと感心するが、クラリスもその意見に相違はない。むしろ大歓迎だ。


「素敵です。名案です、マチルダ様!」


 アレクシスも、マチルダの侍女を辞めろと言ったが、フェリシテの侍女をするなとは言っていない。


(揚げ足を取るようだけど、アレクシス様だって王妃様のご命令には逆らえないものね?)


 クラリスはもう一度裏庭に視線を落として、口端を持ち上げる。


(わたしにだって、妻のプライドはあるのよ。知らないところでイチャイチャなんてさせるものですか)


 未来が変わるか変わらないかはわからないが、見て見ないふりをするつもりはないのである。

 クラリスはマチルダと目配せをして、そしてにっこりと微笑み合った。



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