第二部

プロローグ

 ――クラリス……クラリス……。


 ぽたり、と何も感じないはずの頬に温かいものが落ちる。

 しゃくりあげながら、だんだんと体温が失われて行くクラリスの体を抱きしめて泣くのは、クラリスが愛してやまない夫アレクシスだ。


(どうして……)


 感じないはずの熱を頬に、体に感じながら、クラリスはその様子を俯瞰で見ていた。

 そう――、事切れた自分自身とそれを抱きしめるアレクシスの姿が、足元に見える。


 正直、状況がよくわからなかった。

 まるで、自分の心が体から抜け出して、宙に浮かんでいるとでも表現すればいいだろうか。

 自分自身を見下ろすなんて、変な気分だ。

 それにしても――


(これは、何なのかしら?)


 アレクシスが泣いている。

 彼が泣く姿なんて、記憶にある限りクラリスは一度も見たことがない。


『アレクシス様』


 クラリスの名前を何度も呼びながら泣き続けるアレクシスを見ていることができなくて、彼の名前を呼んでみるけれど、クラリスの声は届かないようだった。


 ――クラリス……クラリス、どうして……。


 血まみれた部屋の様子と、自分の姿から察するに、これは未来でウィージェニーの刺客に殺されたあとのことだろうか。


(夢、よね……?)


 死んだ自分を客観的に見られるなんてあるはずがない。

 だからこれは夢のはずなのに――なぜ、こんな夢を見るのだろう。


 ――クラリス……。


(アレクシス様はどうして……)


 自分が見せている夢のはずなのに、クラリスはこれが現実なのか夢なのかだんだんとわからなくなる。


『どうして、そんなに泣くの……?』


 未来のアレクシスは、ウィージェニーに心変わりをしたはずだ。

 それなのに、どうしてこの世の絶望を見たかのように泣き続けるのだろう。

 やがて、泣き声が聞こえなくなって、アレクシスがクラリスの亡骸を抱きしめたまま立ち上がる。


 ゆらりと、まるで彫刻のように表情をなくしたアレクシスの碧の目は、ぞくりとするほど冷たく、そして暗かった――



     ☆



「クラリス!」


 肩を揺さぶられて、クラリスはハッと目を開けた。

 息がかかるほど近くにあるアレクシスの顔が――大好きな碧色の瞳が、ひどく心配そうな色に染まっている。


 夢で見た冷たく暗い色でなかったことにホッとしつつ、クラリスは軽く首を巡らせた。

 室内はまだ薄暗い。


 ここは、夫婦の寝室だ。

 予定通り十七歳になる年の春にアレクシスと結婚式を挙げて、新婚旅行を終えて、今は夏。


 領地を行ったり来たりの忙しい日々を送っていたが、去年の初冬に懐妊したマチルダのお腹が大きくなり、出産を来月に控えて、何かと忙しくなったためフェリシテから出産前後で城に助けに来てくれないかと相談を受けた。

 マチルダにはエディンソン公爵家から連れてきた侍女が一人と、フェリシテから譲り渡した侍女が二人いるけれど、すぐに懐妊したこともあり、新しい侍女の募集をかけなかったという。身の周りがバタバタするとストレスになり、流産や早産の危険が高まると判断されたからだ。


 それでなくてもマチルダを心配したグラシアンが妊娠前から何かと護衛をつけたがって、暇さえあれば張り付いているような状況だったので、これ以上はマチルダの精神負担が大きいと思われたのである。

 しかし、出産前後は何かと忙しいので、マチルダが心を許している相手に声をかけて見ることにしたらしい。

 ブリュエットは現在懐妊中で、マチルダと一月遅れで出産予定なので、城には上がれない。そこでお鉢が回ってきたのがクラリスだったのだ。


 ――新婚早々、申し訳ないのだけど……。


 フェリシテから頼まれて、アレクシスと相談した結果、クラリスは半年ほどの臨時雇いでマチルダの侍女になることを決めた。

 アレクシスも、それならついでだとグラシアンから半年ほど側近に戻るように言われたそうで、二人そろって城勤め再開である。

 ちなみに、クラリスが一度経験した未来ではこのようなことはなかったが、もうこれは今更だ。記憶にないことが度々起こっているので、気にする方が疲れる。


(やっぱり、夢、だったのよね……?)


 ぼんやりしていると、アレクシスがそっとクラリスの頭を撫でる。


「クラリス、うなされていたけどどうしたの……?」

「夢を、見て……」

「夢?」

「あまり、幸せな夢じゃなかったものですから……」


 アレクシスが泣く姿なんて、夢でも見たくなかった。

 クラリスが表情を曇らせると、アレクシスがクラリスをすっぽりと抱きしめる。

 裸の胸に抱きしめられると、少し高い彼の体温がじかに伝わってくる。

 ホッと息を吐き出すと、アレクシスがちゅっと額にキスを落とした。


「こうしていたら、幸せな夢を見ない?」

「ふふっ、なんですか、それ」


 クラリスは吹き出したが、アレクシスに抱きしめられていたら確かに幸せな夢が見られそうだ。


「でも、あれだね。悪夢ってさ、何かの前兆って言われることがあるだろう? 大丈夫だと思うけど、ちょっと気を付けて」

「大丈夫ですよ」


 夢で吉凶を占うのは、十年くらい前にロベリウス国で流行った子供や貴婦人の遊びだ。

 当時七歳くらいだったクラリスも、そのころは自分の夢に一喜一憂していた。幼かったこともあり、占いの結果をもろに信じてしまって、怖くて泣いたこともある。


「アレクシス様も、子供のころには夢占いを信じていたんですか?」

「今でも信じているよ。だって子供のころの夢占いの通りになったからね」

「どういうことです?」


 アレクシスはちょん、とクラリスの鼻の頭をつついて茶目っ気たっぷりに片目をつむる。


「夢占いで、青い目をした可愛らしい女の子と幸せな結婚をするって出たんだよ」

「……夢占いで、そこまで詳細な結果が出ましたっけ?」


 結婚までは出たとしても、相手の特徴までは占いで出ないはずだが。

 クラリスが首をひねると、アレクシスがクラリスの目尻を撫でた。


「俺の夢に出てきたのが、青い目をした可愛らしい女の子だったんだ。その夢の占いの結果が結婚だったんだから、青い目をした女の子が相手に決まっているじゃないか」

「それはまた、強引ですよ」


 クラリスはくすくすと笑った。


「強引だろうと何だろうと、こうして現実になっているじゃないか。だから、俺の夢に出てきた青い目をした可愛い女の子はクラリスだったんだよ」

「ふふ、その夢の中でも青い目をした女の子と結婚したんですか?」

「したよ。結婚して、子供にも恵まれて、年を取って引退して、領地の田舎でのんびりと過ごすんだ。ときどき子供たちと孫たちが遊びに来てくれてね、とっても幸せな一生を送るんだよ」

「それは……素敵ですね」

「だろう?」

「ええ……」


 未来が、クラリスが一度経験した通りの結末を迎えるなら、そんな未来は起こりえない。

 だが、それが現実になるのならば、なんて素敵な未来なのだろう。

 クラリスがアレクシスの胸に顔をうずめると、アレクシスがぽんぽんと背中を叩いた。


「眠くなってきた?」

「そうですね」


 本当は眠くなったわけではなかったが、このままだと、アレクシスの語る未来予想図に泣いてしまいそうだった。

 クラリスが目を閉じると、アレクシスが夏用の薄いシーツを肩にかけなおしてくれる。


「おやすみ、クラリス」

「はい。おやすみなさい、アレクシス様」


 こうして彼の腕の中で眠れる日は、あとどのくらいだろうか。

 願わくば、アレクシスが子供のころに見た夢のように、ずっと先まで続いてくれればいいのにと、クラリスは思った。



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