事故と陰謀 1
「そう、やっぱり予定通り、侍女はやめるのね」
避暑から王都へ戻って来て、クラリスはすぐにフェリシテに侍女を辞める話をした。
淋しくなるわねと言ってから、フェリシテが優しく微笑む。
「でも、それがいいわ。伯爵家のためにはもちろんのこと、あなたのためにもね。アレクシス以上にあなたを大切にしてくれる人はいないでしょうから」
「はい」
未来で同じことになったとしても、フェリシテの言う通り、今のアレクシス以上にクラリスを愛してくれる男性はいないだろう。
クラリスが頷くと、フェリシテは「ふふ、惚気られてしまったわ」と笑って、机から書類の束を取り出した。
「悪いのだけど、この書類をグラシアンのところに届けてくれるかしら?」
以前、書類を運んでいる途中にジョアンヌに書類を奪われそうになったことが一瞬脳裏をよぎったが、今回向かうのはグラシアンの部屋だ。以前のように、ついでに渡してあげるという言い訳は使えないだろうから、ジョアンヌに遭遇しても書類を奪い取られることはないだろう。
「かしこまりました」
この時間なら、グラシアンは執務室の方にいるはずだ。避暑地での問題も片付いておらず、王都に戻ってからもグラシアンは忙しそうにしている。
(まだ犯人はわからないのよね……)
クラリスは廊下を歩きながら、ふと、避暑地でのことを回想した。
マチルダの部屋に侵入者が入り込んだあの夜から、王都に戻るまで、再び誰かの部屋に何者かが入り込むことはなかった。
警備が見直されて厳重になったから、入り込むすきがなくなったのだろう。
けれど、犯人の手掛かりもつかめないままだった。
アレクシスたちが追いかけて見失った犯人が何者だったのかは、依然としてわかっていないのだ。
アレクシスが回収して来た短剣も、特別なものではなくどこにでも売っているようなもので、犯人を特定するには至らなかった。
(でも……アレクシス様も殿下も、何か心当たりがありそうなことを言っているのよね)
明言しているわけではないが、グラシアンは再びマチルダが狙われる危険を感じているようだ。狙われる理由に心当たりがあるのかもしれない。もちろん、ただの侍女であるクラリスが首を突っ込んでいい問題ではないので訊くことはできないが、そのせいでアレクシスが再び危険な目に遭ったらどうしようと不安で仕方がない。
(結婚したら、アレクシス様は殿下の側近も騎士も辞めるけど……、まだ半年以上あるもの)
クラリスは再来月の頭に侍女を辞める。アレクシスは結婚式のギリギリまでグラシアンの側近を続けるけれど、結婚後はブラントーム伯爵家を継ぐためにクラリスの父の補佐をしながら子細を覚えるのだ。
(その前に、一か月くらい新婚旅行に行くんだけどね)
新婚旅行では南の内海に浮かぶ島へ行くのだ。
新婚旅行の時のことを思い出して、クラリスは頬が緩みそうになった。
アレクシスは結婚前もクラリスに甘かったが、結婚してから輪をかけて甘くなる。記憶と同じになるのか、それともちょっと違う展開が待ち受けているのかはわからないが、楽しみには変わりがない。
結婚式は春なので水が冷たくて海には入れないが、手をつないで海岸を歩いたり、夕暮れ時に人気のないところでキスをしたり、記憶にある限りとにかくすっごく幸せな時間だった。
(って、しっかりしないと。今は仕事中よ)
別れるのをやめて結婚すると決めてから、油断すると頭の中がピンク色に染まりそうになる。
好きな人ともう一度結婚式を迎えて、イチャイチャ、ラブラブな新婚旅行に行けると考えると、顔の表情筋が緩んで戻らなくなりそうだ。
同じように死ぬかもしれない未来を気持ちの上で受け入れられたからだろうか、それならばその時まで目いっぱい幸せになりたいというふうに気持ちが切り替わった。
だからとにかくアレクシスに会いたくて、そばにべったりと張り付いていたくなる。
(仕事中、仕事中。にやにやしてたら変に思われるわ)
片手で軽く頬を叩いて表情を引き締めて、クラリスは廊下を急ぐ。
グラシアンの部屋を叩くと、彼とともに室内にいたアレクシスがひょっこりと顔を出した。
「クラリス? どうしたの?」
「王妃様に頼まれて殿下に書類をお持ちしました」
キリッとした顔で告げてみたが、目の前のアレクシスが嬉しそうに笑うからつられて笑み崩れそうになる。
(結婚するって言ってから、アレクシス様、とにかく甘いんだもの)
あの夜覚悟を決めてから、アレクシスには結婚する意志を伝えてある。
そして、これまで「別れたい」と我儘を言ったことも謝罪した。
アレクシスはすごく喜んで、片腕を怪我していて痛いはずなのに、クラリスを抱えてくるくると回って――
(だから、仕事中!)
笑っちゃダメ、と気合を入れて、クラリスはアレクシスに案内されてグラシアンの執務室に足を踏み入れる。
「ちょうど休憩する所だったから、クラリスもつき合え」
グラシアンがクラリスから書類を受け取ったあとざっと中身を確認して、そう言ってメイドにティーセットを三つ用意させる。
「あとで母上に渡す書類を用意するから、それを持って帰ってくれ」
「わかりました」
グラシアンの対面にアレクシスと並んで座ると、しばらくしてメイドがお茶とお菓子を運んでくる。
「結婚式の準備はどうなんだ?」
「これから本腰をあげて準備する所です。殿下は終わったんですか?」
「私はほとんど口出し無用らしいからな。マチルダと母上が進めている」
男が口出しすると全然先に進まないから黙っていろとフェリシテに言われたらしい。自分の結婚式なのに蚊帳の外だ、とグラシアンが苦笑した。
「ああ、花や飾りつけのことを言われてもよくわかりませんからね」
アレクシスがグラシアンに同意しつつ、クラリスを見る。
「そういうことは、女性の方がこだわりが強いだろうから、任せた方がいいでしょうね。もちろん、出来る限りのことはしますけど」
「やめとけやめとけ。手伝おうとしたら邪魔者扱いされるぞ。なあクラリス」
「え……いえ、そんなことは……」
ないと言いかけて、そう言えば記憶でもアレクシスはあまり結婚式の準備には口出ししなかったなと思い出した。なるほど、グラシアンの影響で余計なことを言わず黙っていたのかもしれない。
「ドレスの色に口出ししただけで怒られるからな。私たちの仕事は、花嫁にこうしたいと言われたことに頷くだけだ」
「色だけじゃないでしょう。露出が多いだのなんだのと言っていたじゃないですか」
「仕方ないだろう! 背中が腰まであいているんだぞ? 結婚式には男も来るんだ、文句も言いたくなる!」
なるほど、グラシアンはマチルダの肌を見せるのが嫌らしい。
「でも、ベールをかぶりますから……」
「クラリス。ベールはレースだ。透けているじゃないか」
「ええっと……」
「ああ、この気持ちは女にはわからないかもな。アレクシス、では逆に聞くが、クラリスのドレスの腰がこんなにあいていて、その白い肌をじろじろとほかの男が見ると考えてみろ。どう思う?」
「その男たちは抹殺しましょう」
「そうだろう⁉ そう思うよな⁉」
グラシアンが仲間を得たとばかりに勢いづいた。
「だから嫌だと言ったのに、これが流行りだと言ってマチルダも母上も……。おかげで私は悪者だ」
クラリスはグラシアンに同情しつつも、やはりそこまで過敏になる必要ないのではないだろうかと思う。グラシアンはそう言うが、誰も花嫁の背中を見るために結婚式に参列するわけではないのだ。誰が王太子妃の背中をいやらしい目で見るだろうか。
それなのに、アレクシスまで真剣な顔をしてクラリスに向かって、決めたドレスのデザインの露出具合を確認しはじめた。
(何でもいいって言ったくせに……)
この男たちには困ったものである。
「わたしのドレスの背中は、真ん中くらいまでしかあいていませんよ」
マチルダのように腰のあたりまで見せるようなデザインではない。そう言ったのに、アレクシスは「背中の半分も見せることになるのか」とぶつぶつ言いはじめる。
(なるほど、こんな様子で口出しされたら準備が先に進まないわよね)
マチルダもフェリシテもグラシアンを邪魔者扱いするはずだ。結婚式の日は決まっているのに、あれこれ文句をつけられたら準備が全然先に進まなくなる。
散々ドレスについて盛り上がっている男二人はしばらく放置するのがいいだろう。
ティーカップに口をつけつつ、耳半分でアレクシスとグラシアンの会話を聞いていたクラリスは、「そういえば」というグラシアンの声に顔をあげた。
「ここ最近で、クラリスの近辺で不審なことはなかったか?」
「不審なことですか? いえ、特には……」
「何もないならそれでいい。ただ念のため気をつけておくように」
「はあ。……あの、何かあったんですか?」
わざわざグラシアンが訊ねてきたということは、何らかの事情があるはずだ。
クラリスが訊ねると、グラシアンとアレクシスが顔を見合わせた。無言のやり取りがあったような一拍の間があり、アレクシスが口を開く。
「いや、最近、結婚予定の花嫁が無作為に襲われるという事件があったらしくてね」
「そうなんですか?」
そのような事件があれば噂の一つとしてクラリスの耳にも入っていておかしくないが、残念ながらそのような話は聞いたことがない。
「そうなんだ。だから、クラリスも身辺には充分に気を配った方がいい。何かあればすぐに俺に言うようにね」
「はあ……」
どうも腑に落ちないが、グラシアンが気にしてアレクシスがそう言うのだからそうなのかもしれない。
(でも、結婚予定の花嫁が無作為に襲われるなんて……よくわからないわ)
一度経験した未来ではそのような物騒な事件は起こらなかった。
経験した未来と少しずつ何かが違っているのは、もうすでにいくつもあったので今更驚かないが、今回の話はどうも違和感がある。
「そういうことだから、外出するときは一人にならないように。わかったか?」
「はい、わかりました」
頷けば、アレクシスがホッと息を吐き出して、もう一度グラシアンに視線を向けた。
(なんだか、この二人だけ事情が通じているような変な感じがするわ)
結婚予定の花嫁が襲われたらしいので、いくつかの情報は持っているはずなのに、それを教えてくれる気配もない。
(……何か隠していそうね)
それはただの勘だったので、もちろん口には出せないが、この二人の視線のやり取りが妙に気になった。
(そう言えば、未来でもアレクシス様とグラシアン殿下は何かコソコソしていたのよね)
アレクシスはクラリスと結婚後、グラシアンの側近を辞めたはずなのに、何かにつけてグラシアンに呼び出されて城へ向かっていた。
そのせいでウィージェニーに会う機会が増えて、浮気に発展したのだと思っていたが、果たして本当にそうなのだろうか。
素知らぬ顔をしてお茶を飲む二人を見ながら、ふと、クラリスはそんなことを思った。
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