クラリスの決断 2

 どのくらい経っただろうか。


「戻りました」


 隣の部屋から聞こえてきたアレクシスの声に、クラリスはハッと顔をあげた。

 部屋の片づけはある程度終わったが、日が昇って明るくなってから念のためもう一度確認し、絨毯も入れ替えるため、マチルダはこのままグラシアンの部屋で過ごしてもらうことになる。


 クラリスとブリュエットはもう戻っていいと言われたが、クラリスはアレクシスが心配で、もう少しマチルダの部屋で待たせてもらっていた。

 アレクシスが無事に戻って来た――、ホッとしたクラリスが、部屋に戻ろうとソファから立ち上がったとき、グラシアンの驚いた声が耳を打つ。


「お前、怪我をしているじゃないか!」

「え⁉」


 クラリスは飛び上がり、我も忘れて部屋の外に飛び出した。


「アレクシス様!」


 廊下で話しているアレクシスとグラシアンの姿を見つけて駆けて行けば、アレクシスがクラリスに気がついて目を丸くする。


「クラリス? ここで何をして……」

「ああ、クラリスはマチルダの部屋の片づけを手伝ってくれていたんだ。そのあと、お前が戻らないから心配して待っていたみたいだな」


 グラシアンがクラリスの代わりに説明してくれたが、クラリスはそれどころではなかった。

 アレクシスは腕にハンカチを当てて抑えていて、そのハンカチが赤く染まっていたからだ。

 青ざめるクラリスに、アレクシスが安心させるように笑った。


「ああ、これは犯人が投げたナイフがかすっただけで、それほど大きな怪我じゃないから大丈夫だよ」

「大丈夫だろうとどうしようと、このあと侍医に見てもらえ。それで、マチルダの部屋に侵入した犯人は?」

「すみません、取り逃がしました。土地勘があるのか、しばらく追いかけて、角を曲がったと思ったら姿が消えていて……」

「そうか……。いや、気にするな。夜だったからよく見えないだろう。ひとまず、マチルダの近辺の警護を今より厳重にしよう」

「殿下の近辺もですよ」

「そう、だな」


 グラシアンは考え込むように顎に手を当てたが、「考えるのは明日にしよう」と言って首を横に振る。


「マチルダは今日は私と同じ部屋で休ませる。お前は侍医のところだ。クラリス、悪いがこいつについて行ってやってくれ。行けと言っても、面倒がっていかないかもしれないからな」

「わかりました」


 ぎゅっと胸の前で手を握りしめて神妙な顔でクラリスが頷けば、アレクシスが困ったように眉尻を下げた。


「殿下、クラリスが血を見たら怯えるかもしれないので……」

「このまま部屋に戻らせた方が心配するだろう。クラリスのことだ、不安に思って朝まで起きているぞ。婚約者を寝不足にしたくないなら、一緒に行け」

「……わかりました」


 アレクシスが肩をすくめて、クラリスを伴って歩いて行こうとし、途中で何かを思い出したように振り返る。


「殿下、俺に投げつけられたナイフですけど、回収させています。血を拭った後で届けさせますので、ご確認をお願いします。……と言っても、どこにでもありそうなものだったので、大した手掛かりにはならないかもしれないですけどね」

「わかったわかった。いいから行け。あと、手当が終わったら朝までゆっくりしていい。私の警護はほかに頼んだからな」

「くれぐれもお気をつけて」

「ああ」


 グラシアンが野良犬でも追い払うようにぱたぱたと手を振る。


「アレクシス様、行きましょう?」


 グラシアンに一礼して、クラリスは怪我をしていない方のアレクシスの腕にそっと触れた。

 騒ぎがあったので、侍医も起きているはずだ。

 一階の医務室へ向かうと、すでにグラシアンが遣いを出していたのか、四十代くらいの医師がアレクシスの到着を待っていた。クラリスの知らない医師だったが、城で働いている侍医は十人くらいいる。つい先日新規で三名入ったとも聞いたので、新しく入った医師なのかもしれない。


「侍医頭はウィージェニー王女の側にいらっしゃいますので、私が診させていただきますね」


 アレクシスとともにクラリスがついてきたのが意外だったのか、侍医は目を丸くしてから眼鏡の奥の双眸を優しく細める。


「ウィージェニー王女殿下に何かあったんですか?」


 侍医頭はクラリスもよく知っている六十代の医師である。二十代のころから王家に仕えている古参の侍医で、王家の信頼も厚いため毎年離宮にも同行しているのだ。

 侍医はアレクシスの傷の確認をしながら首を横に振る。


「いえ、マチルダ様の部屋の騒ぎで目を覚まされまして、不安で眠れないから鎮静剤がほしいとおっしゃられましてね。侍医頭がお部屋に向かったのですよ。陛下や王妃様、第二妃様もお目覚めでしたので、ウィージェニー王女の診察後、陛下たちのご様子も確認してから戻って来るそうです」

「そうですか……」


 ウィージェニーが騒ぎを聞いて不安を感じるほど繊細な性格をしているとは思えないなと心の中でつぶやきながら、クラリスは頷く。


「ああ、深くはないですが、結構切りましたね。縫いましょうか?」

(え⁉)


 アレクシスは大きな怪我ではないと言っていたけれど、縫うほどのものだったようだ。

 アレクシスの腕の傷を確認すると、侍医の言うとおりなかなか大きな傷だった。

 クラリスが泣きそうに顔をゆがめると、アレクシスが今にも舌打ちしそうな顔になった。


「いや、大した怪我ではないので」

「これは充分大した怪我ですよ」


 侍医にきっぱりと否定されて、アレクシスがはあと息を吐いた。


「……婚約者が心配するので」

「心配させたくないなら、きちんと治療しましょう。破傷風になったら大変ですからまず消毒しますよ。少ししみますが、我慢してくださいね」


 半ば押し切られる形で、傷を縫うことが決定した。

 アレクシスが心配そうにクラリスを見やる。


「見ていて気分のいいものではないだろうから、クラリスは部屋に戻った方が……」

「いえ、ここにいます」


 縫うような怪我ならなおさらだ。心配で部屋に戻る気にはなれない。

 アレクシスの隣に座って、ぎゅっと彼の服の裾をつかむ。怪我は怖いし、怪我を縫うというのも怖いけれど、部屋には戻りたくない。


「じゃあ、縫う間は目をつむっていなよ。クラリスの方が倒れそうだ」


 血の気が引いた顔をしていたのだろう。アレクシスが怪我をしていない方の手でクラリスの目の上を覆う。ハンカチ越しに怪我を抑えていたからだろう、彼の手からは少し血の匂いがして、それが一層クラリスを不安にさせた。


(こんな事件なんて、起こらなかったのに……)


 記憶では、マチルダの部屋に侵入者が入ってアレクシスが怪我をする事件なんてなかった。


(やっぱり、ちょっとずつ何かが違う)


 クラリスが過去に戻ってきたからなのだろうか。それとも、クラリスが一度経験した過去と違う行動――アレクシスと別れようと試みたからなのだろうか。


(わたしが余計なことをしなかったら、アレクシス様が怪我をすることはなかったのかもしれない)


 クラリスが一度経験した通りに生きていれば、同じ未来が訪れていたはずだ。


(今回は怪我ですんだけど、もし、アレクシス様に何かあれば……)


 クラリスは、確かに傷つくのが嫌だ。アレクシスに裏切られるのが嫌だ。でも――、それ以上に、アレクシスの身に危険が迫る方が嫌だった。

 もし、クラリスの行動でアレクシスに万が一と言うことがあれば、生きていけないかもしれない。


「大丈夫だよ、クラリス」


 アレクシスがクラリスを安心させるように優しい声で言うけれど、ちっとも安心できなかった。

 裏切られるくらいなら、別れた方がいい。でも、失うくらいなら――


「じゃあ縫いますから、そちらのベッドに横になってください。麻酔を使うので」


 麻酔は近年開発された技術で、いくつかの種類があるらしい。


「麻酔の効きによっては多少の痛みはあるかもしれませんけど、我慢してくださいね」


 アレクシスがベッドに横になったので、クラリスは侍医の邪魔にならないように反対側へ回って彼の枕元に座った。

 侍医が麻酔の用意をはじめたとき、ガチャリとドアが開いて侍医頭が入って来る。


「ああ、疲れた。まったく、怖いからって大騒ぎしやがって……って、あ? どうした?」


 この侍医頭はちょっと目つきが悪くて、そして口が悪い。が、よく悪態をつくが腕は確かで、意外と優しい。

 侍医頭はベッドに横になっているアレクシスと枕元に座るクラリスを見て目を丸くした。


「先生、怪我をしたみたいで」

「ああん? 見せてみろ。こりゃあぱっくりやったなあ。なんだ、縫うのか?」

「ええ、そうしようと思っているんですが」

「なら俺がしてやろう。麻酔は?」

「ええっと、今用意を……」


 侍医がちょっぴり焦ったような顔をして、手元に集めていた薬品を侍医頭から隠すように背後に回した。

 不思議に思っていると、こきこきと首を鳴らしながら近づいた侍医頭が、カッと目を見開く。


「この馬鹿もんが! この傷でそんな強い麻酔使ってどうする! しかもそれとそれを合わせりゃ副作用が出るぞ! 依存を起させる気かボケが‼」


 侍医頭の大音量の怒鳴り声が部屋をびりびりと震わせた。

 しかし、その大声よりも侍医の言葉の方が怖かった。


(え、この若い方の先生大丈夫なの⁉)


 泰然と構えていたから安心していたのに、そのような危険な麻酔をアレクシスに使おうとしていたなんてと、クラリスはゾッとする。

 血の気が引いたクラリスの目の前で、侍医頭が侍医から薬瓶を奪い取った。


「ああもう俺が全部する! お前はそこで見てろ! 馬鹿が! ったく!」


 悪態をつきながら、侍医頭が手際よく麻酔の準備をする。


「嬢ちゃんは顔をそむけてな。心配ならそっちの手を握ってりゃいい。見ていて気持ちのいいもんじゃねえだろうからな」


 そう言いつつ、侍医頭がアレクシスの口に薬品をしみこませた布を押し当てた。


「ゆっくり吸いな」


 侍医頭の指示に従って息を吸いこんだアレクシスの表情が、だんだんとぼんやりして来た。

 針の先で腕をつついてはアレクシスの反応を確かめて、侍医が「よさそうだな」と頷く。

 もう一度傷口を消毒してから、侍医頭が手際よく傷の治療をはじめた。






 傷の縫合が終わると、アレクシスが起きたら声をかけてくれと言って、侍医頭たちは隣の部屋に移動した。

 眠っているアレクシスを見ながら、クラリスは考える。


 包帯を巻かれた腕は痛々しく、麻酔が切れたらしばらく痛むだろうと侍医頭が言っていた。痛み止めを処方してくれるらしい。

 麻酔がしっかりきいているからか、アレクシスの寝顔は穏やかだ。


 クラリスはそーっと手を伸ばして、アレクシスの顔にかかる前髪を横に払った。

 傷の影響で、熱が出ることがあるそうだが、今のところ熱があるようには見えない。

 アレクシスは昔から元気で、未来でも彼が体調を崩すことは滅多になかった。そのためか、こうして怪我の治療をされて眠っているアレクシスを見るとすごく心配になる。もしかしたら、このまま目を覚まさないのではないかと思ってしまうのだ。


(……わたしって、我儘ね)


 裏切られたくないからアレクシスと別れたいと思った。

 でも、アレクシスを失うかもしれないと思うと、離れたくなくなる。

 自分でもあきれるほど単純だが、それが答えなのだろう。


 クラリスは、自分が死ぬより――殺されるより、アレクシスを失う方が嫌なのだ。

 もし未来を変えて、アレクシスが死ぬようなことがあれば、後悔してもしきれない。


(もし、同じように未来で死ぬことになっても、それまでアレクシス様と一緒にいたいわ)


 それでまた、裏切られても、傷つくことになっても、もういい。

 クラリスはゆっくりと上体をかがめて、アレクシスの額に口づける。


(大好き……)


 裏切られても、その結果殺されることになっても、この気持ちだけはどうしても消せなかった。


 だからもう、いい。


 同じ未来を迎えようとも、残りの時間を精一杯、彼とともにいられればそれでいいのだ――





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