クラリスの決断 1
――それは、何の前触れもなく起こった。
「きゃあああああああ――――‼」
夜のしじまを引き裂くような悲鳴が響き渡った。
「何⁉」
ベッドの中で微睡んでいたクラリスはどこかから聞こえてきた悲鳴に飛び起きて、あわてて部屋を飛び出す。
隣の部屋を使っているブリュエットも同じタイミングで部屋から出てきて、クラリスを見つけて駆け寄ってきた。
「今の聞いた?」
「ええ! あの声……、マチルダ様かもしれないわ」
「何ですって⁉」
半分夢の中だったからはっきりとはわからないが、そんな気がする。
しかし、言ったクラリス自身も半信半疑だった。
(こんなこと……起こらなかったはずなのに……)
不用意に動いていいのかわからずブリュエットとともに廊下に立ち尽くすクラリスの耳に、バタバタと言う足音が聞こえてくる。夜の番をしている騎士たちだろう。
「どうした⁉」
「悲鳴が……あちらの方から……。マチルダ様かもしれません」
未来の王太子妃だ。マチルダの部屋の前には護衛のための騎士が常に立っているし、隣にはグラシアンもいる。グラシアンの部屋のさらに隣はアレクシスたち側近の部屋だ。何かあればグラシアンやアレクシスがすぐに駆け付けるはずだが、何があったのかわからない状況では不安しかない。
「わかった!」
騎士がそう言って駆けていく。指示があるまで動かない方がいいだろうから、クラリスはブリュエットとともに廊下で待つことにした。
(マチルダ様の身に何かあったのかしら……? でも、なんで……)
こんなの、記憶にない。
もしマチルダの身に何かあったらと思うと、動揺が止まらなかった。
花をめでる会の準備の時もそうだった。なぜ、記憶とは違うことが起こるのだろう。未来で死んで過去に戻って来たクラリスの存在が影響しているのだろうか。
(もし……もしマチルダ様に何かあったら、わたしのせいかもしれない……)
ぎゅっと白くなるほど手を握りしめて、祈るようにマチルダの部屋がある方向に視線を向ける。
ドクドクと恐ろしいほどの速さで打つ自分の脈を聞きながら待っていると、ややして、騎士がこちらへ戻ってくる。
「二人とも、こっちに来てくれ」
「あの、マチルダ様は?」
「無事だ。だが、部屋が少し荒らされていて、片づけを手伝って差し上げてほしい」
「荒らされているって、何があったんですの?」
ブリュエットが眉を寄せて訊ねるが、騎士は首を横に振るだけだ。
「わからない。殿下がマチルダ様に訊ねているが、その、ひどく狼狽されていて、お話しできる状況ではないようだ」
それはそうだろう。部屋が荒らされていたということは、何者かが侵入したということだ。マチルダは相当怖い思いをしたに違いない。
「わかりました。ありがとうございます。行きましょう、クラリス」
「ええ」
ブリュエットが一度部屋に戻りランタンを持って来る。
ブリュエットとともにマチルダの部屋へ向かうと、彼女が連れてきた公爵家の侍女が蒼白な顔で散らばったガラスの破片を集めていた。よく見れば、絨毯が濡れている。
「大丈夫ですか? 何でガラスが……」
クラリスが彼女の側に膝をつきながら訊ねれば、侍女は小さく頷いた。
「大丈夫です。マチルダ様にお怪我はございません。このガラスは、マチルダ様が驚いて投げた水差しの破片です」
(水差しを投げた……?)
ということは、マチルダは侵入者に気づいて咄嗟に近くにあった水差しで抵抗したということだろうか。
(ひとまず、お怪我がなくてよかったわ……)
クラリスはそっと息を吐き出し、ガラスの破片を拾っている侍女の手にそっと触れた。
「ここはわたくしたちが片づけますから、あなたはどうぞマチルダ様のお側についていてあげてくださいませ」
「いえ、マチルダ様は殿下のお側にいらっしゃいますから――」
「それでも、気心の知れた方がお側にいらっしゃった方が、安心なさると思いますから」
落ち着いてきたら何か飲み物がほしくなるかもしれないし、姿が見えない侍女を心配しはじめるかもしれない。
それに、マチルダの侍女も相当参っているようだ。侍女は別室で休んでいたはずなので、侵入者の姿は見ていないかもしれないが、主人の部屋に何者かが入り込んだのだから動揺しているはずである。彼女も少し休んだ方がいい。
「では、お言葉に甘えて……」
侍女が隣の部屋へ向かうのを見届けて、クラリスは散乱しているガラスの破片を回収していく。大きな破片を集めたあとは箒で掃いた方がいいだろう。絨毯も交換すべきかもしれない。絨毯の毛の中に細かい破片が入り込んでいるかもしれないから。
クラリスがガラスを片付けている間に、ブリュエットは部屋の中におかしなところがないか点検している。
駆けつけてきた騎士たちは部屋の窓を確認していた。バルコニーの窓ガラスの鍵のところが割られているので、侵入者は窓から入ってきたようだが、ここは二階だ。庭には夜の番の兵士が巡回しているのに、いったいどうやって入り込んだのだろうかと思っていると、兵士の一人が何かを見つけたらしい。
「上だな」
(上……?)
もしかして、上からバルコニーに降りてきたのだろうか。
(この真上の部屋は、確か空室だわ……。でも、ということはマチルダ様の部屋に入った侵入者は、一度離宮の中に入ったってこと? 玄関にも裏口にも兵士が常駐しているのに?)
もちろん、一階の窓のどこかから侵入したとも考えられるが、常に兵士が巡回しているのだ。彼らの目をかいくぐって入り込んだということは、それなりに訓練を積んだものではなかろうか。
そのような人間が、マチルダの部屋に入り込んだなんて。ただふらりと物取り目的で入り込んだわけではない気がする。
(マチルダ様をはじめから害するつもりだった、とか……?)
クラリスはゾッとした。
クラリスの記憶では、二年後もマチルダは元気だった。だけど、その未来が変わる可能性があるのだろうか。
(この部屋で何があったのか、アレクシス様ならある程度事情を知っているかしら? ……って、アレクシス様はどこ?)
グラシアンの側近のアレクシスが、この部屋にいないのはおかしい気がした。この部屋で何かがあったのだから、グラシアンの側近として率先して状況確認に動いているはずだ。グラシアンの身辺警護のために側にいるのだろうか。いや、グラシアンの性格なら、何があったのかを調べろとアレクシスに命ずるはずで――
(アレクシス様はどこ?)
クラリスは急に不安になって来た。
アレクシスの姿が見えないのはどうしてだろう。彼の身に何かあったのだろうか。
いてもたってもいられず、クラリスは窓とバルコニーを調べている兵士たちに近寄った。
「あの……アレクシス様はどちらに……?」
「ああ、クラリス嬢か」
遠慮がちに訊ねれば、兵士の一人がクラリスに気づいて振り返る。彼の顔は見たことがあった。アレクシスの友人の一人で、男爵家出身の衛兵だ。
「アレクシスなら、不審者を追いかけて行ったぞ」
「え⁉」
思わず、クラリスは声を裏返した。
「ああ、そんなに不安がらなくても、アレクシス一人じゃない。殿下の部屋の扉の警護に当たっていた衛兵二人も連れて行った」
それでも、たった三人で不審者を追いかけたということになる。
青くなったクラリスを心配するように、衛兵が笑った。
「大丈夫、アレクシスは強いからな。それに、不審者がどこへ逃げたかを探りに行っただけだろうから、深追いはしないはずだ」
「そう、ですか……」
クラリスは衛兵に礼を言って部屋の片づけを再開する。
けれど、一度胸に広がった不安は消えてくれず、震える手でガラスの破片を集めながら、クラリスはきゅっと唇をかんだ。
(大丈夫よ……)
アレクシスは大丈夫。何度も自分に言い聞かせながら過ごす夜の時間は、まるで永遠のように思えた。
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