避暑地へ 4

 昼食と着替えを終えて、クラリスは玄関に降りた。

 玄関前にはすでにアレクシスが立っている。彼も騎士服ではなく、シャツとズボンという楽な格好をしていた。足元だけは、ぬかるみを想定してか、乗馬の時のブーツを履いている。

 手には小さなバスケットがあるので、飲み物や軽食が入っているのだろう。


「じゃあ行こうか」


 自然と手をつないで、クラリスはアレクシスとともに別荘の西側へ向かって歩き出す。

 西に少し行けば小川が流れているのだ。

 山の中は木々が日差しを遮ってくれるので涼しくて気持ちがいい。


「落ち葉が滑りやすいから気を付けて。歩きにくかったり、疲れたりしたら本当に抱えて歩いてもいいんだよ?」

「大丈夫です!」

「恥ずかしがらなくても、山の中なんだから人に見られたりしないのに」


 人に見られていなくても恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。抱きかかえられたらアレクシスの体温を強く感じるし、距離も近くなる。目の前にアレクシスの顔があったらドキドキするではないか。


(これ以上好きになったら大変だもの!)


 未来も今もアレクシスはクラリスに激甘なので、すぐに甘やかすのだ。


「じゃあ、つらくなったら言うんだよ?」

「そんなに長い距離でもないじゃないですか……」


 すでに小川のせせらぎが聞こえてきている。小川までは、別荘から歩いて十分もかからない距離だ。


「でも、クラリスは小さいから」

「身長は関係ないです! それから、まだ伸びているんですからきっともっと大きくなります!」


 言って見たものの、二年後でも今と身長は大差なかったことはもちろん知っている。


(確かにわたしは身長がちょっと低いけど、ちょっとだけだと思うの。アレクシス様が高いから小さく思うだけだわ!)


 アレクシスは長身なので、並ぶと結構身長差がある。おそらく三十センチ近く違うはずだ。でも、だからと言ってクラリスが小さすぎるわけではない。断じて!


「身長と体力は比例しないんです!」

「まあ確かに。クラリスはダンスも三曲くらい続けて踊れるもんね」

「三曲じゃないです。五曲は頑張れます」

「そう? じゃあ、今度試してみる?」

「いいですよ?」


 そして少しは見直せばいいのだと思って、そこでクラリスはハッとする。

 ダンスを踊るということは、パーティーに出席するということだ。パーティーは基本社交シーズンに多く開かれて、シーズンオフの夏場はよほどのことがない限りない。せいぜいガーデンパーティーなど、ダンスをしないのんびりした会が開かれるくらいだ。


(しまった……。こんなことを言ったら、今年の社交シーズンでアレクシス様と踊る約束をしたようなものじゃない……)


 ロベリウス国の社交シーズンは秋の半ばほどからだ。ちょうど、クラリスが侍女を辞める予定の時期からである。今年はグラシアンの結婚式があり、社交シーズンの開始を結婚式の日とするので、通年より社交シーズンの開始が一、二週間早まるが、それでも秋からだ。


(暢気に社交シーズンまで一緒にいたら、それこそ別れるのは不可能だわ……)


 侍女を辞してから本格的に結婚準備にとりかかる。そうなれば、やっぱり結婚式はしませんとは言えない。ドレスだけならまだしも、招待客に招待状を配ったり、大聖堂に前金を支払って日付を抑えたあとでは無理なのだ。さらに、そのタイミングで国王陛下にも正式に結婚する報告をするから、そうなれば覆せなくなる。

 内心あわあわするクラリスに対して、アレクシスは楽しそうだ。


「言質は取ったよ?」


 そう言って笑うアレクシスは、絶対にわざとダンスの話題を出したに違いなかった。


(ずるいずるいずるい!)


 気づけば逃げられないように包囲されている気がする。


(どうしよう……)


 やっぱり今の約束はなしでと言えば、アレクシスは怒るだろうか。


(怒るわよね……)


 この二か月、アレクシスは怖い顔をしなくなったけれど、何かのタイミングでまたあの怖い雰囲気を出されるかもしれない。クラリスはまだ少し怖くて、アレクシスが確実に怒りそうな発言を二人きりの時にする勇気はない。


「ああ、川が見えてきたよ」


 けもの道のように入り組んだ細い道を進んでいくと小川が見えてきた。

 そよそよと流れている清流のほとりの小さな川州に降りてそっと水を覗き込む。


 川底にはたくさんの拳大の石が沈んでいて、そのせいか水面が波打って見えた。ここの所雨がなかったからか水量が少なく、石の表面を撫でるように水が流れているからだ。波打つ水面に日差しが反射して、キラキラしてとてもきれいだ。

 魚でもいないだろうかとじっと川を観察するクラリスの横で、アレクシスが乗馬ブーツを脱ぎ始める。


「あー、暑かった」


 そう言いながら、アレクシスはざぶざぶと川の中に入っていった。と言っても、水量が少ないので、アレクシスの踝ほどの深さしかない。


「クラリスもおいで。水が冷たくて気持ちがいいよ」

「でも……」

「大丈夫。流れがゆっくりだし、深くないから大丈夫だよ」

(流される心配をしているんじゃなくて、足を出すのが恥ずかしいからなんだけど……)


 川に入るなら、ワンピースの裾をたくし上げる必要がある。

 未来で夫婦だったのだから今更だと思わなくもないが、今の時代では未婚のクラリスは、異性の前で足を出すのが恥ずかしいのだ。


(アレクシス様はそういうの、全然気にしてないみたいだけどね!)


 クラリスが足を出すことについて、彼は何も思わないのだろうか。

 ちょっぴり面白くないが、一人気持ちよさそうに水を楽しんでいるアレクシスを見ると悔しくなってくる。


(もういいわ! どうせアレクシス様しかいないんだものね!)


 相手が気にしていないのに、一人で悶々とするのは馬鹿馬鹿しい。

 クラリスは靴を脱ぐと、ワンピースの裾を軽く持ち上げて慎重に川の中に足を入れた。

 アレクシスがすぐに近づいて来て、転ばないように手を引いてくれる。


「気持ちがいいだろう?」

「……はい」


 ちょっと悔しいが、確かに冷たくて気持ちがいい。

 クラリスを支えるためだろうか、アレクシスが自然と腰に手を回してくる。

 近い距離にドキリとしたけれど、狼狽えればアレクシスが揶揄ってくるのは目に見えていた。アレクシスはクラリスがドキドキしているのを見ると楽しそうな顔をするのだ。そして、嬉しそうに笑う。


「クラリスと王家の別荘地に来るのは今年が最後だね」

「そうですね……」


 結婚するにしろしないにしろ、アレクシスとこうしてここで過ごせるのは今年が最後になるだろう。

 アレクシスと別れて、クラリスが侍女を続けた場合、来年も同じようにアレクシスとクラリスがこの地を訪れる可能性はあるが、そうなっても二人の関係は変わっている。

 クラリスが視線を落とすと、何かを感じ取ったのか、アレクシスがクラリスをそっと抱きしめた。


「ねえ、クラリス。頬へのキスくらいなら許してくれる?」

「きゅ、急に何を――」


 驚いて、クラリスは弾かれたように顔をあげた。

 綺麗な碧色の瞳が思った以上に真剣で、クラリスの顔が真っ赤に染まる。

 花をめでる会以降、アレクシスはクラリスの唇にキスをしなくなった。クラリスを怯えさせるのではないかと自重してくれているのだろう。だから、手をつないだり、抱きしめられることはあっても、この二か月キスはされていない。

 狼狽えるクラリスの頬を、アレクシスがそっと撫でる。


「頬で我慢するから、ね?」

「で、でも……」

「もちろん唇でもいいよ。どっちにする?」

「あ……ぅ……」


 おろおろと視線を彷徨わせるも、アレクシスは許してくれない。


「頬、唇。さあ、どっち」


 何故二択なのだろう。おかしい。絶対におかしい。


「答えなければ唇ね。三、二……」

「頬で!」


 カウントダウンをはじめられて、クラリスが慌てて叫ぶように言えば、してやったりとアレクシスが笑った。

 悔しくて膨らませた頬に、ちゅっとアレクシスの唇が触れて、離れていく。

 時間にして一秒くらいなものだっただろう。

 それなのに、信じられないくらい恥ずかしくてクラリスが両手で顔を覆えば、アレクシスがぎゅっとクラリスを抱きしめた。

 シャツ越しに、ミントのようなさわやかな香りがする。


(どうして唇にキスされるより恥ずかしいの……⁉)


 顔から火が出そうなほど熱くて、顔があげられない。


「今はこれで満足しておくよ」


 言いながら、頭のてっぺんにもキスが落ちる。


「大好きだよ、クラリス」


 その言葉を、一体どこまで信じていいのだろうか。


(ねえ、アレクシス様は永遠にわたしを好きでいてくれるの……?)


 クラリスが一度経験した未来のアレクシスではなく、今の彼なら。そんなことを、訊ねてしまいそうだった。



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