花をめでる会 4
「小さな鉢植えっていうけど……どれかしら?」
クラリスは温室の中を見渡しながら首を傾げる。
フェリシテは温室の入口に置いてあると言ったけれど、それらしいものは見当たらない。
小さな鉢がないわけではないが、どれも花をつけていないものばかりだ。
(奥のヒヤシンスかしら?)
ヒヤシンスは耐寒性にも耐暑性にも優れているので、別に温室で育てなくてもいいのだが、フェリシテがヒヤシンスの香りが好きで温室の奥にヒヤシンスのコーナーを設けているのだ。
青紫や白、ピンク、黄色、赤……とカラフルなヒヤシンスが並んでいる様はとても愛らしい。
「うーん、でも、王妃様は入口って言ったし……」
いくらなんでも奥と入口を間違えたりはしないだろう。
もしかして入れ違いで誰かが取りに来たか、それともフェリシテの勘違いなのかどちらかかもしれない。
「早くしないと花をめでる会が終わっちゃうわ」
ここは一度、フェリシテに確認しに戻った方がいいだろう。
クラリスが温室から出ようと踵を返そうとしたとき、蝶番が軋む小さな音がして、温室に誰かが入って来た。
一瞬、温室の花が切り刻まれたことが脳裏をよぎって警戒したクラリスだったが、入って来た人物を見て思わず息を呑む。
「アレクシス様……」
何故アレクシスがここにいるのだろう。
今日はグラシアンの側にいたはずだ。側近が王太子の側から離れたらダメだろうに。
(……とにかく、戻らないと)
ここでアレクシスと二人きりになるのは気まずい。先日の夜のことがまざまざと思い出されるからだ。こんな昼間からアレクシスが強引なことをしないとは思いたいけれど安心はできなかった。
「クラリス、待ってくれ」
クラリスは小さく会釈をして逃げるようにアレクシスの脇を通り過ぎようとしたが、温室から出る前にアレクシスに腕をつかまれてしまった。
反射的にびくりと肩を震わせ、そろそろと振り返ると、どうしてかアレクシスが傷ついたような顔をする。
「そんな顔をしないでくれ……。この前のようなことはしないから」
そのような顔と言われても、クラリスは自分がどんな顔をしているのかなんてわからない。
この前のようなことはしないと言われても、最近のアレクシスは急に雰囲気が暗く変わるので、クラリスは彼の言葉をどの程度信じていいのかわからなかった。
少なくとも、クラリスが持つ二年後までの記憶では、アレクシスがクラリスに対して強引なことをしようとしたことはない。
時折見せる仄暗い表情も、ちょっぴり怖い顔も、これまでクラリスが知らなかった顔だ。
そういう顔をするときのアレクシスは、クラリスが知らない誰かに見える。
逃げなければ無理やり捕らえられて、閉じ込められてしまいそうな――そんな危険な気配がするのだ。
「クラリス」
困った顔で、アレクシスがもう一度クラリスの名前を呼ぶ。
どちらにせよ、アレクシスに腕をつかまれた状態では逃げ出せない。男と女というだけでも力差があるのに、アレクシスは優秀な騎士だ。彼がクラリスを逃がす気にならない限り、ここから出ることはできないだろう。
「殿下に頼んで、少し時間をもらったんだ。話がしたい」
「……わかりました」
クラリスは小さく息を吐いて、アレクシスに促されるまま温室の中の椅子に座った。
(もしかしたら、王妃様とグラシアン殿下はグルなのかしら?)
フェリシテが鉢植えを取って来いと言ったことからして妙だったのだ。グラシアンと示し合わせて、クラリスとアレクシスを二人きりにするつもりだったと考える方がしっくりくる。フェリシテは、クラリスが侍女を続けたいと言い出した時からアレクシスとの間に何かあったのだと気づいていた。心配して気を回したのかもしれない。
クラリスが椅子に座っても、アレクシスはクラリスの逃亡を警戒しているのか、腕からは手を離してくれたが絡め取るように手をつながれた。
アレクシスの大きな手からクラリスより少し高い体温が手のひらを伝って流れ込んでくる。
この、大きくて温かくて優しい手が、クラリスは好きだった。
アレクシスの手は、クラリスを守ってくれるのだと、裏切ったりしないのだと、ずっと信じていた。
(わたしはいったい、どこで何を間違えたのかしら……?)
どこかで間違えてしまったから、アレクシスはウィージェニーに心を許したのだろうか。
思えば、二年後――クラリスが殺される日の朝まで、アレクシスは優しかった。
本当に直前まで、クラリスはアレクシスがウィージェニーと浮気していたことを知らなかったのだ。
いつもと変わらない日常。
あの日クラリスは、グラシアンに呼ばれて城へ向かうアレクシスを見送った。
いってくるよとクラリスの頬に口づけて、アレクシスは優しい笑顔で邸を出て行った。
それが、アレクシスの姿を見た最後の記憶。
本当ならばあの日、アレクシスは夕方に戻ってくるはずだった。
けれども昼前に城から遣いが来て、戻るのは夜遅くなると言われた。
城で何かがあったのかと不安に思ったが、城からの使いが持っていたのはアレクシスの筆跡の手紙だったため、それほど大きな問題でもないだろうと思いなおした。
そして夜。
夕食を終えて部屋に戻り、アレクシスが帰って来るまで待っていようと、灯りを落とした部屋の窓際で、ぼんやりと月を見ていた。
気配は、感じなかった。
気がついたのは、クラリスの口に布のようなものが押し当てられた時。
びくりとして振り返ろうとしたけれどその前に壁に押さえつけられて身動きが取れなくなった。
恐慌状態に陥りそうになったクラリスの首に、冷たくて硬いものがあてられる。
それがナイフだと知ったクラリスには、もうなすすべはなくて。
震える声でアレクシスの名前をつぶやいたクラリスの耳に嘲笑が聞こえる。
――馬鹿な女だ。夫に裏切られたことにも気づかないなんてな。今頃お前の夫はウィージェニー様の寝所の中だろうよ。
ナイフが首を滑る。
意識が闇に飲まれる前に見た男は知らない顔で――けれども、赤く染まったナイフの柄には、ウィージェニーが使っている紋章が入っていた。
何が何だかわからなくて、冷静になれたのは二年前に巻き戻って来たあと。
アレクシスはウィージェニーと関係を持っていて、クラリスはそのせいでウィージェニーに殺されたのだと理解した。
もし、だ。
アレクシスが妻以外見えないほど、クラリスが彼の心を縛ることができていれば。
アレクシスがウィージェニーに心を奪われる前に気がついていれば。
あの日、彼を家から出さなければ。
何かが違っていたのだろうかと思わなくもない。
でもそんなことを考えたって仕方がなくて。
臆病なクラリスは、もう二度とあの絶望を味わいたくないのだ。
アレクシスがこの先の未来でクラリスを裏切るのだとすれば、もう二度と裏切られたくない。傷つきたくない。
ウィージェニーに奪われないように繋ぎ止めておけばいいのだと、そんな楽観的に考えられるほどクラリスは強くない。
(だからもう解放されたいのに……、何故、離れてくれないの?)
クラリスだってわかっている。
もしクラリスがアレクシスと同じ立場だったら、いきなり未来で浮気をするから別れろと言われても納得できなかっただろう。
でも、だったらどうしろというのか。
クラリスは、アレクシスの嫌いなところはどこにもないのだ。嫌いだから別れてくれなんて口が裂けても言えなかった。
「クラリス、俺には君がよくわからないよ。あの日、いきなり未来の話をされたときから、クラリスはなんだか人が変わったみたいだ」
(それは、アレクシス様もだわ)
あの日から、アレクシスも雰囲気が変わった。優しい以外の彼を知らなかったクラリスには、アレクシスが時折見せる暗い顔が怖い。
「あの夜のことは、悪かったと思っている」
クラリスが黙ったままだからだろう、アレクシスは少し視線を落として続ける。
「クラリスに結婚できないって言われて、なんだかここが、すごく冷たくなったんだ」
アレクシスはクラリスとつないでいない方の手を自分の胸にあてた。
「もしかしたらクラリスには俺以外の男がいるかもしれない。だから俺と別れたいんだって思うと、頭と心の中が真っ黒に塗りつぶされて行くようだった。もちろんそんなことは言い訳にはならないけれど……クラリスを怖がらせたことは、すまないと思っているんだ。ごめん」
「わ、わたしには、他の男の人なんて……」
クラリスは、ずっとアレクシスだけを見ていた。アレクシスに疑われるようなことは何もない。ふるふると首を横に振ると、アレクシスは自嘲と苦笑が混ざったような小さな笑顔で「うん」と頷く。
「クラリスは真面目だから、そんなことはないって俺も信じている。信じているけど……、クラリスが急に別れたいなんて言うから、俺も頭の中がぐちゃぐちゃなんだよ」
「……はい」
確かに、クラリスを裏切ったアレクシスは二年後の彼で、今の彼には何の落ち度もない。
それなのに一方的に別れてくれと言われれば、彼だって動揺もするだろう。
自分がアレクシスの心を何も考えていなかったことは、クラリスも認める。
「ねえ、クラリス」
アレクシスが膝を少し動かして、クラリスに向きなおる。
顔をあげれば、少し淋しそうな彼の顔があった。
「俺はクラリスが好きだよ。本当だ。だから将来、俺が君を裏切って浮気をすると言われて、困惑したし、腹も立った。俺は君を裏切らない。別れろと言われても納得なんていかないんだ」
(裏切らないって言うけど……だって……)
実際、アレクシスは未来でクラリスを裏切ったのに。
そんなことを言いそうになって、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
「クラリス、信じてほしい」
信じられることなら信じたい。
目の前の彼は、二年後のアレクシスとは違うのだと。
今のアレクシスは、クラリスが知るアレクシスと違って、二年後もクラリスから離れて行かないのだと。
けれども、信じるのはまだ怖い。信じても裏切られない保証は、どこにもないのだ。
クラリスの葛藤がわかったのか、アレクシスが遠慮がちに手を伸ばして、クラリスの頭に触れる。
優しく頭を撫でられて、クラリスは泣きそうになった。
「クラリスは俺が信じられない?」
「……わかりま、せん」
信じたいけれど、怖い。それを言うのは憚られて、クラリスは視線を落とす。
「クラリスが俺を信じられなくなったのなら、きっと俺が君を不安がらせるようなことをしたんだろうね」
頭を撫でる手が止まって、遠慮がちにアレクシスがクラリスを抱き寄せた。
「でもやっぱり、俺は君とは別れられないよ。だから、少しずつでいい、俺を見て。君が俺をもう一度信じてくれるように、頑張るから。だから別れるなんて言わないでくれ」
クラリスは頷けない。
でも、少しだけ――少しだけ。
(今のアレクシス様なら、わたしを裏切ったり、しない……?)
二年後の記憶には、アレクシスとこうして温室で語り合ったものはない。
裏切らないと言われたことも、信じてほしいと言われたこともない。
記憶とは少しだけ違うから、もしかしたら二年後も違う未来が待っているかもしれない。
(そんな楽観的なこと……)
流されてはダメだと、心の中のもう一人の自分が告げる。
「愛してるよ、クラリス」
でも――
目の前のアレクシスを拒絶することは、どうしてもできなかった。
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