婚約者が別れてくれません 2

「朝から仲良しねぇ、クラリス!」


 できるだけ張り付くと宣言した通り、アレクシスは王妃の私室の隣――侍女の控室の前までついてきた。

 ちょうどクラリスと同時刻に出勤した侍女仲間のブリュエットがにやにや笑いで揶揄うものだからいたたまれなくなる。


「アレクシス様、もう大丈夫ですわ」


 まさか侍女の控室の中まで入ってくるつもりかと軽く睨めば、アレクシスもさすがにそこまで非常識な手段はとるつもりがないらしい。馬車の中で見せたほの暗い気配が嘘のように、アレクシスはさわやかな好青年の笑顔を浮かべた。


「それじゃあ、帰宅するころにまた迎えに来るよ。今日は俺も早いからね」

(……遅く出勤して早く帰るの? それっておかしくない?)


 侍女よりも騎士の方が出勤時間が長い。クラリスの送り迎えができるほど勤務時間が短いなんてありえないのだ。

 クラリスは怪訝がったが、アレクシスはブリュエットに「クラリスをお願いします」と告げて颯爽と去っていく。


「はあ、カッコいいわねえ! あんな人が婚約者なんて、クラリスは幸せ者だわ!」


 このこの、と肘でつつかれてクラリスは何とも言えない顔をした。

 未来の記憶を得るまでのクラリスなら、頬を染めて照れていただろう。だが、今のクラリスは手放しで喜べない。どんなに素敵でも、優しくても、二年後に裏切られるのだから。


「そう言うブリュエットだって、婚約者のオーランド様と仲良しじゃない」


 これ以上アレクシスのことで揶揄われると困ってしまうので、クラリスはそっと話題をずらす。

 なんだかんだ言って婚約者と仲のいいブリュエットは、暇さえあれば惚気たがるので、ちょっとでも話題を振れば食いつくはずだ。


「当り前よ! そうそう聞いて! オーランド様ったらね……」


 控室に入りながら、早くも惚気話がはじまった。

 本当に、仲がよさそうで結構である。


(羨ましいわ……)


 クラリスだって、惚気るくらいアレクシスのことが好きだった。でも今は、アレクシスの顔を思い出すだけで胸が痛い。


(アレクシス様の浮気相手が浮気相手だったし……その方と比べられたら、そりゃあわたしの方が見劣りするわ)


 二年後にアレクシスが情をかわした女性は、なんと、この国の王女様だ。

 第一王女、ウィージェニー。第二妃の産んだ王女で、現在十六歳。ピンクがかったベージュ色の髪に大きな茶色の瞳の、びっくりするくらい可愛らしい王女だ。


 クラリスだって、自分で言うのもなんだが、そこそこ顔立ちは整っている方だと思うけれど、ウィージェニーと比べると霞んでしまう。容姿も身分もすべて彼女の方が上。例えば町娘や娼婦と情をかわしたと聞いたならば、まだ一時の戯れと割り切ることができたかもしれないけれど、相手がウィージェニーだったら戯れなはずがない。未来のアレクシスは、本気でウィージェニーを好きになったのだ。


 ずーんと気分が重たくなってきた。

 王妃フェリシテの前で沈んだ顔はできないと、クラリスは大きく深呼吸をする。


「王妃様の今日のご予定だけど、午後からお茶会が入っていたわよね?」


 ブリュエットはまだ惚気話を続けていたが、クラリスの言葉を聞いて表情を改めた。侍女は王妃の予定にあわせて動かなくてはならない。


「あと、今日のお昼は王太子殿下とサロンで取られるそうよ」

「お昼はクラリスとフルール、午後のお茶会はクラリスとわたくしでいいかしら? クラリスは午後からわたくしたちが帰るまで休憩だもの」


 本日出勤するフェリシテの侍女はクラリスとブリュエット、そしてフルールの三人だけだ。クラリスとブリュエットが同じ十七歳。フルールが十六歳である。王妃の侍女は合計七人いて、朝の支度や朝食の準備、夜の就寝の支度などを担当するため、交代で城に寝泊まりしている。フルールは一昨日から城に泊る担当で、だいたい一週間ごとにその役目は交代されていた。一日中城で仕事につくので、城に泊る期間の時は休憩が多めになる。


 王妃や第二妃などの侍女は行儀見習いという意味合いが強いため入れ替わりが激しい。結婚したら退職する人がほとんどだ。フェリシテのケースで言えば、古参の侍女は彼女が嫁いだ時に実家から一緒にやって来たレオニー夫人ただ一人である。しかしレオニー夫人は四年前に三人目の子を出産し、子がまだ幼いために以前よりも出勤日数を減らしているため、週に二日ほどしか登城しない。レオニー夫人だけは、城の泊り仕事も免除されていた。

 ゆえに、レオニー夫人が不在の際は、侍女の采配をするのはクラリスより半年前に侍女になったブリュエットだ。クラリスはブリュエットの采配にもちろん異論はないので、頷いて答える。


「わかったわ。お菓子の準備は終わっているわよね?」

「ええ。お菓子も、今日の茶葉の用意も終わっているわ。今日のお茶会は王妃様以外には公爵夫人とそのご令嬢のお二人だけの内輪のお茶会だから、準備もそれほどないし大丈夫よ」


 大人数のお茶会は、城で働くメイドも大勢駆り出さなければならないほど大変だが、内輪のお茶会はそれほど気を遣わなくても問題ない。

 要は、フェリシテが仲のいい友人と楽しくおしゃべりする場だ。社交的な駆け引きはほぼ存在しない、ほんわかした場なので、それほど気を張り詰めなくてもいいのだ。


(いらっしゃるのはエディンソン公爵夫人とそのご令嬢のマチルダ様だもの。いつも通り和やかな会になりそうね)


 エディンソン公爵令嬢マチルダは王太子グラシアンの婚約者である。マチルダは現在十八歳で、半年後にグラシアンとの結婚を控えているのだ。その打ち合わせもかねてのお茶会なのである。

 今日の予定を確認して控室から王妃の部屋へ向かう。王妃はすでに朝食をすませて今日の仕事を確認しているころだ。同じ妃であっても、第二妃と違い王妃は政にも参加するため忙しいのである。


「ああ、おはよう二人とも」


 フェリシテは銀髪に青い瞳のおっとりと優しそうな外見をした女性だ。


「ちょうどよかったわ。この書類を宰相のところに渡しに行ってくれるかしら? 教会の修繕工事の書類だと言えば伝わると思うわ」


 多岐にわたる王妃の仕事の中で大きくな比重を占めるのが福祉方面の仕事だ。その中には教会の運営に関するものもある。教会は、孤児院や養老園を運営していたり、貧困層への炊き出しを行っていたりと、福祉や奉仕活動に深く関係するため、国からも多額の援助を行っている。一年の予算を決めるのは財務大臣や宰相、国王であるが、その予算をどう割り振るか決定するは王妃なのだ。ただし、王妃の独断で国の予算を動かすのは問題があるため、都度宰相と国王の承認を得る必要もある。


「かしこまりました。ブリュエット、わたくしが行って参りますね」

「ええ、お願いしますね、クラリス」


 二人きりの時は砕けた口調で喋っても、王妃の前ではきちんと敬語を使わなくてはならない。普段よりも丁寧な言葉を心掛けつつ、淑女として恥ずかしくない身のこなしをする。王妃もクラリスたち年若い侍女たちは行儀見習いとして預かっているため、このあたりは徹底して教え込まれるのだ。

 クラリスは優雅さに気を配りながら王妃から書類を受け取って、静かに、けれど優雅さが乱れないくらいの速足で部屋を出ていく。


 王や妃、王子たちの私室がある区域と主に文官が執務を行っている区域は、同じ城の中でも分けられている。王妃の私室のある三階から二階に降りて、宰相が使っている執務室へ歩いていると、前方から豪奢な濃い紫色のドレスを身にまとった女性が歩いてくるのが見えた。焦げ茶色の髪にオレンジ色の瞳の気の強そうな外見の女性の姿を見つけた途端、クラリスは慌てて足を止めて廊下の端に寄った。第二妃ジョアンヌである。ジョアンヌは気難しい性格で、少しでも気に入らなければ容赦なく叱責が飛んでくる。それが王妃の侍女であろうとお構いなしだ。

 クラリスが頭を下げてジョアンヌが通り過ぎるのを待っていると、ジョアンヌが足を止めた。


「あなたは王妃様のところの……。どちらへ向かうの?」

「宰相閣下のお部屋でございます、お妃様」

「そう……」


 今日は機嫌がいいのか、ジョアンヌは鷹揚に頷く。

 ジョアンヌはちらりとクラリスが持っている書類に目を留めて、にこりと笑った。


「その書類、わたくしが届けて差し上げましょう。ちょうどこれから宰相閣下のところへ行くのよ」


 宰相の部屋から遠ざかるように歩いて来たのに、これから行くとは妙な話だった。


(この方、隙あらば王妃様を蹴落とそうとなさるところがあるから……)


 この書類をジョアンヌに手渡せば、どうなるかわかったものではない。宰相の手元に届くかどうかも怪しいし、下手をすれば書類の内容を書き換えてフェリシテを非難する材料にされかねないのだ。

 ジョアンヌの目的がすぐに推察できるほど怪しさ満点だったけれど、相手は第二妃である。クラリスが下手に逆らえば、今度はそれがもとでフェリシテを非難しに行くだろう。


(困ったわ……)


 書類は渡せないが、安直に断ることもできない。


「どうしたの、早くお渡しなさい。わたくし、忙しいのよ」


 クラリスがなかなか書類を差し出さないから、ジョアンヌは少々イライラしはじめた様子。あまり待たせるとヒステリーを起されかねない。クラリスはますます弱り果てた。


「その、王妃様から直接宰相閣下に手渡すように仰せつかっておりまして……」


 フェリシテが渡してくるようにと指示を出したと言うことはそういうことなのだ。

 本来であれば、王妃の命令であることをほのめかせば、第二妃が食い下がるのはあり得ない。王妃の身分は特別なのだ。同じ妃であっても、王妃とそれ以下では格が違う。が、ジョアンヌは何を勘違いしているのか、王妃と自分が同等――もしくは自身の方が上であると思っているようで、クラリスの説明にムッと眉を寄せた。


「このわたくしが渡せと言っているのよ」

(やっぱり引き下がってくれなかったわね……)


 むしろ、クラリスが必死に守ろうとする書類に余計に興味を持たれてしまったようだ。


(教会の修繕工事はかなりの予算が動くから、何が何でも死守しないと……)


 腐っても第二妃。この書類を悪用し私腹を肥やすようなことはしないと思いたいが、はっきり言って、クラリスはジョアンヌが信用ならない。

 それは、もしかしたら今から二年先の記憶が関係しているのかもしれなかった。

 二年後にアレクシスが浮気心を起した相手は、何を隠そうジョアンヌの一人娘なのだから。第一王女ウィージェニーの放った刺客によって殺されたクラリスは、どうしてもその母親であるジョアンヌにいい印象を抱けない。

 まあ、その記憶がなくとも、いい印象は抱いてはいなかったのだが。


 はしたないけれど走って逃げようか。

クラリスがそんな乱暴な方法を検討しはじめたその時、不意にジョアンヌが歩いて来た反対方向から、二人の男性が歩いてくるのが見えた。


(アレクシス様……と、グラシアン王太子殿下)


 十九歳であるグラシアンは、すでに政治に参加している。騎士でありながらグラシアンの側近も務めているアレクシスの手に分厚い書類の束があるのを見ると、どこかの大臣に提出しに行くのか、それとも会議があるのかのどちらかだ。側近だけでなく王太子も動いたところを見るに、後者である線が濃厚だろうか。特に王太子が出向く予定がなければ、書類は文官が取りに来るか、側近が届けに行くからである。


「おや、第二妃。ここで何をしているんですか?」


 にこやかに、けれども腹の底を見せない胡散臭い笑顔でグラシアンがジョアンヌに訊ねた。グラシアンは穏やかで優しい王太子だが、海千山千の大臣たちを相手に仕事をしているため、意外と狡猾な面も持っている。そうでなければ王太子や王などやっていられないのだろう。

 ジョアンヌはあからさまに嫌そうな顔をして、ぷいと顔をそむけた。


「別に、なんでもございませんわ。王妃様の侍女を見かけたので挨拶をしていただけです」

「そうですか。ならば、彼女を少し借りてもよろしいですか? 用事がありまして」

「……構いませんわ。わたくしもこのあと用事がありますから急いでおりますし。失礼いたしますわね」


 先ほど宰相に用事があると言ったのに、ジョアンヌは宰相の部屋とは逆の方へ逃げるように歩いて行く。

 クラリスがホッと息をつくと、グラシアンとアレクシスが近づいて来た。


「大丈夫? 絡まれていたんだろう?」

「ありがとうございます、殿下。宰相閣下にお届けする書類を渡せと言われて困っていたところだったんです」

「おやおやそれはまあ……。第二妃にも困ったものだね」


 第二妃が王妃を目の敵にしていることをグラシアンも知っている。そのため、王妃付きの侍女がジョアンヌや彼女の侍女に絡まれるのも。


「アレクシス。彼女を宰相の部屋まで送ってあげてくれる? 私は先に会議室へ向かうよ」


 グラシアンがそう言って、アレクシスが持っていた書類の束をひょいっと受け取った。

 アレクシスが小さく笑って「かしこまりました」と頷くと、クラリスの背にそっと手を回した。


「いちゃいちゃせずに、送り届けたらすぐに会議室に戻って来るんだよ」

「いちゃい――」


 クラリスは真っ赤になった。こんな場所で何を言い出すのだ。それにクラリスはアレクシスといちゃいちゃする用意はない。彼とは早々に婚約を解消する予定なのだ。

 慌てるクラリスに、グラシアンは「あはは」と笑いながら歩いて行く。


(もうっ――)


 クラリスは赤い顔を隠すように俯いて、少し速足で宰相の部屋へ向けて歩き出した。そのあとをアレクシスがついてくる。


「嫌な思いはしなかった?」


 一歩がクラリスの歩幅の倍くらいあるアレクシスでは、クラリスがどんなに急ごうと簡単に追いつかれる。

 小声で訊ねられて、クラリスはちょっと顔をあげた。


「大丈夫です。……その、助かりましたわ」


 グラシアンとアレクシスが来なければ、本当に困ったことになっていただろう。あのような場面でそつなく対応できるのが立派な淑女なのだろうが、クラリスにはまだ無理だった。まだまだ研鑽を積む必要がありそうだ。


「侍女の仕事は大変だろう? そろそろ辞して、結婚準備に専念しても――」

「ここで結構ですわ。送っていただきありがとうございました」


 クラリスはわざとアレクシスの言葉を途中で遮って足を止めた。実際、目の前に宰相の部屋の扉がある。扉の前に立っている衛兵はアレクシスと仲がいいのだろうか、クラリスとアレクシスを交互に見てにやにや笑いを浮かべていた。

 衛兵のにやにやした顔に恥ずかしさを覚えて、クラリスが逃げるように宰相への取次ぎを頼む。衛兵が中にいる宰相の側近に許可を得るのを待っていると、アレクシスが上体をかがめてクラリスの耳元にささやいた。


「結婚したら、すべての悪意から君を守ってあげられるのに……」


 クラリスは、そのささやきを聞かなかったことにした。

 入室許可が出たのでもう一度アレクシスに礼を言って、さっさと部屋の中に入る。


(何を言うのかしら。守ってなんてくれなかったじゃない……)


 それどころか、二年先の未来でクラリスが殺されたのは、アレクシスのせいだ。

 ずきりと胸の奥が痛くなったが、クラリスはその胸の痛みに目を背ける。

 ぱたんと背後で扉が閉まる直前、アレクシスがどんな顔をしていたのかには気づかなかった。

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