婚約者が別れてくれません 3
ぱたん、と目の前で扉が閉まった瞬間、アレクシスは重たいため息をついた。
「どうした、浮かない顔だな」
宰相の部屋の扉を守っている衛兵がそんなアレクシスに不思議そうな顔をする。
「もしかして、愛しの婚約者と喧嘩したのか?」
「……そんなところです」
認めるのも癪だが、こんな顔をしているところを見られては否定できない。
この衛兵はアレクシスより三つ年上の男爵家出身の男で、気さくで人懐っこい性格をしているのだが、いかんせん色恋沙汰に興味を示しすぎるのが問題だった。特に酔っぱらうとその方面で絡んでくる。アレクシスもお年頃なので、その手の話題に興味がないわけではないが、今は勤務中だしそんな気分ではなかった。
「喧嘩なら、花束でも贈って誠心誠意謝れば許してくれるだろ。早く仲直りしないと、こじらせると面倒くさいぞー?」
(そんなんで機嫌が直りそうなら苦労はしないんだ……)
昨日から、クラリスの様子がどうもおかしい。
純粋でどこかふわふわした雰囲気を持っていたクラリスが、妙に大人びた表情を見せるようになった。
それはそれで愛らしいのだが、問題は突如としてアレクシスとの婚約を解消したいと言い出したことにある。
(俺が一体何をしたんだ……)
心当たりはまるでなかった。
アレクシスはクラリスを愛しているし、クラリスもそうであるはずだ。彼女は心の動きが表情に出やすいので、アレクシスへの好意は疑いようがない。相思相愛を確信していたアレクシスにとって、昨日の別れ話は寝耳に水だった。
何が悪かったのかも、見当もつかない。
しかも言うに事欠いて、アレクシスが将来浮気をするからと言い出したのだ。
(俺が将来浮気するなんて、どうしてクラリスにわかるんだ。というか、俺はそこまで信用されていなかったのか……)
絶望した。同時に、これほど愛しているのに、どうしてわかってくれないのだと腹が立った。
頑なに別れたいと言うクラリスに、心の奥からインクのようにどす黒い何かが溢れそうになり、いっそこのままどこかへ連れ去って閉じ込めてしまおうかという狂気めいた考えすら浮かんで、それがアレクシスをさらに戸惑わせた。
クラリスを泣かせたいわけではない。
でも、アレクシスから離れて行こうとするのならば、どこか遠くへ連れ去って、自分だけのクラリスにしてしまえばいいと、そんなほの暗い感情を覚えてしまったのだ。
「まあ、何にせよ、早く仲直りすることだな。がんばれよ」
ぽん、と肩を叩かれて、アレクシスは苦笑しつつ礼を言って歩き出す。
急がなければ、グラシアンが出席する会議がはじまってしまう。
(殿下も、どこか面白そうな顔をしていたし、まったく……)
昨日クラリスから別れ話をされたその足で、アレクシスはグラシアンの元へ向かった。クラリスが呼び出すのはよほどのことだろうと、仕事を途中で抜けてきたからだ。
戻ったアレクシスに、グラシアンは何があったのかと根掘り葉掘り聞いてきた。それだけアレクシスの顔色が悪かったのだろう。
アレクシスは自分の胸の中にとどめておけないほど動揺していたので、求められるままにクラリスから言われたことをグラシアンに説明した。
グラシアンは腕を組んで、難しい顔をし、そして最終的にこう結論付けた。
――あれだな、マリッジブルーとか言うやつだろう。マチルダも最近急に機嫌が悪くなったりすることがあるんだが、それと一緒だろう。
マリッジブルーで別れ話をされてはたまったものではないが、それ以外の仮説は立てられなかった。
そして、グラシアンは結婚に何かしらの不安を覚えているのだろうから、できる限りそばについていたやれと、アレクシスの仕事を調整してくれたのだ。
おかげで朝はいつもより遅く出勤し、夕方もいつもより早く帰宅できるようになった。クラリスの送り迎えが可能になったカラクリはこれだった。アレクシスは騎士ではあるがグラシアン付きなので、仕事の時間の調整はグラシアンの采配でどうにでもなるのだ。ありがたいことである。
(はあ……浮気なんてしないのに……)
アレクシスには一生クラリスだけだ。根拠はないが、彼女しか愛さないだろうという自信がアレクシスにはある。それだけクラリスが好きなのだ。
心はどんよりしつつも表情を取り繕って会議室へ急いでいると、「あら」と華やかな声が聞こえてきた。会議室の前で足を止めてこちらを見ているのはウィージェニー王女だった。
ピンクベージュ色の髪に茶色の瞳の、少し気の強そうな美人である。グラシアンとは三歳差で、今年十六歳だ。
「王女殿下も会議に参加なさるのですね」
現王には、グラシアンとウィージェニーの二人の子しかいない。王女は本来であれば政には参加しないものだが、王子がグラシアン一人しかいないのを理由に、ウィージェニー自身が王に仕事をしたいと進言したらしい。建前上は「お兄様をお手伝いしたいので」と言っていたらしいが、さて、本心はどこにあるのだろう。本当にグラシアンを手伝いたいと思っているのか、あるいはほかの思惑があるのか――今のところその目的は定かになっていないから、どうしても警戒してしまう。ロベリウス国では、王女にも王位継承権が与えられるからだ。隙あらば王妃を蹴落とそうとしているジョアンヌの娘であるウィージェニーが、王太子を蹴落とそうと考えていないとどうして言えようか。
ウィージェニーは「ふふ」と華やかな笑みを浮かべた。
「そうなの。今日の議題は地方の医療問題でしょう? 王都と地方での医療技術の格差問題にはわたくしも興味があるから、参加させてもらうの」
この王女の思惑がどうであれ、彼女の頭の回転が速いことは確かだ。医療技術の格差問題の提言は、一年前、ウィージェニーが議題に上げた。各地に総合医療が行える機関を建てる、国で医師を雇って技術を磨かせ各地に派遣する、など彼女が出した案は多岐にわたり、すぐに行動に移せるものではなかったが、こうして少しずつ前進している。その責任者にはグラシアンが任ぜられたが、内心でそれを面白く思っていないのか、それとも自身の出した案がどこに着地するのかを見届けたいのか、この議題の会議には、ウィージェニーは頻繁に顔を出していた。
王女を差し置いて入室するわけにはいかないので、アレクシスがウィージェニーが会議室へ入るのを待っていると、彼女はなぜかこちらに向かって歩いて来た。
「顔色が悪いわ。目の下に隈がある。昨日、眠れなかったのかしら?」
そう言って、ウィージェニーがアレクシスの頬に手を伸ばす。
急に頬に触れられて、アレクシスは瞠目した。クラリスと手をつないだり彼女を抱きしめたりすることは大好きだが、他の女性と触れあうのはどうも苦手で慣れないのだ。
パーティーでも、クラリス以外の女性とは、誘われても踊らない徹底ぶりなのである。
「王女殿下――」
困惑して離れようとしたとき、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。ウィージェニーの香水だろうか。その香りを嗅いだ瞬間、軽い眩暈を覚えてよろめいてしまう。
「あら、本当に大丈夫?」
ウィージェニーの方へよろめいたアレクシスを抱きしめるような体勢になったウィージェニーが、微笑みながら訊ねて来る。
どうしてだろう、これ以上彼女の側にいるのは危険な気がした。
アレクシスはくらくらする頭を片手で押さえながら、一歩退く。
「ご心配をおかけいたしました。そろそろ会議がはじまる時間です。急ぎましょう」
「そうね……」
ウィージェニーは十六歳と言いう年齢に不似合いなほど艶然とした笑みを浮かべて、くるりと踵を返す。
彼女が去って行っても甘い香りはなかなか離れてくれず、アレクシスは確かに昨日は眠れなかったから、疲れが出たのかもしれないなと、眉間をもみほぐしたのだった。
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