婚約者が別れてくれません 1

 ロベリウス国の国花アーモンドのピンク色の花が咲き乱れる春。

 春爛漫という言葉の通りのキラキラとした陽光が降り注ぐうららかな朝とは対照的に、クラリスの表情は暗かった。


(結局、婚約が解消できなかったわ……)


 予定では、昨日アレクシスと別れて、殺される未来とは違う人生を歩みはじめているはずだった。

 それなのに、別れるどころか「俺から逃げるなら、地獄の果てまで追いかけてやる‼」という、まるで捨て台詞のような言葉まで吐かれる始末。

 やり方を間違えた、と後悔するもやり直しはきかない。頑なに別れないと言うアレクシスは、そう簡単には折れてくれないだろう。


(でもまだ大丈夫よ。結婚は十八歳の春……つまり、あと一年あるもの。この一年の間に別れることができれば安泰だわ)


 しかし問題は、どうやって別れるかである。

 悔しいかな、アレクシスはおよそ欠点の見当たらない好青年だ。昨日堂々と宣言した通り、クラリス以外との女性の交流なんて、それこそ社交辞令のようなものしかないのだろう。


(手もつないだことがないって言ってたし……、もちろんわたしはあるけど)


 ふわわ、と喜びそうになって、クラリスは慌てて首を横に振る。喜んでどうする。恋心は封印して、氷のような冷たい心でアレクシスとの関係を清算するのだ。

 クラリスは必死に二年後の記憶をたどり、裏切られたと知ったときの怒りと絶望を思い出す。

 そう、今がどんなに好青年でも、二年後の彼はそうではない。裏切られ傷つけられた女の恨みは根深いのだ。

 現在のアレクシスに女の影がないのならば、不貞を理由に別れることはできないだろう。

 そもそもここロベリウス国では、貴族の結婚は国王の承認がいる。婚約をかわした時点で、クラリスとアレクシス――もとい、ブラントーム伯爵家とルヴェリエ侯爵家の婚姻を国王が認めているのだ。婚約を破棄する場合、国王に対して理由を説明し許可を得なければならない。昨日はつい先走ってしまったが「未来で裏切るから」なんて理由にもならなかった。


「はあ……」


 重たいため息がこぼれる。

 そんなクラリスに、侍女のエレンが控えめに声をかけた。


「お嬢様、そろそろお支度をしませんと」

「あら、もうそんな時間ね」


 家族そろって朝食を取ったあと、自室でぼんやりしていたら、いつも登城する時間まであと一時間になっていた。

 クラリスは行儀見習いもかねて、ロベリウス国の王妃フェリシテの侍女を勤めている。

 ロベリウス国の国王にはフェリシテのほかに側妃が一人いるが、王子はフェリシテが産んだ王太子グラシアンのみである。

 グラシアンはアレクシスと同じ十九歳で、主従の関係を超えた友人同士でもある。

 エレンに手伝ってもらい支度が終わったとき、執事がクラリスを呼びに来た。


「お嬢様、アレクシス様がお迎えにいらっしゃっています」


 この執事はまだ三十二歳と若い。先代執事が彼の父親で、昨年執事補佐から執事に昇格したのである。ちなみに先代も健在で、今は主にクラリスの父ブラントーム伯爵の補佐をしていた。

 ちょうど部屋から出ようとしていたクラリスは、アレクシスという名前にドキリとした後で怪訝がった。


「……アレクシス様が、迎え?」

「ええ。今日は出仕がいつもより遅いから迎えに来てくださったそうです」


 グラシアンの側近で、騎士でもあるアレクシスは、普段はクラリスよりも早く登城する。仕事で城に泊りこむこともあるので城にも部屋を用意されていて、家に帰るのが面倒だからと言って一年の半分は城の部屋ですごしているはずだ。


(わざわざ迎えに来たことなんてあったかしら?)


 過去にも未来にも、アレクシスが迎えに来た試しはなかったはずだ。

 正直、アレクシスにはあまり会いたくないが、ここで無視するわけにもいかない。両親たちは当然クラリスに未来の記憶があることを知らないし、もっと言えばアレクシスに別れを告げたことも知らないからだ。不審がられるといろいろ面倒くさいことになる。少なくともアレクシスと別れ話が成立するまでは、昨日のことは秘密にしておかなくては。


「わかったわ」


 そろそろ家を出る時間だ。ここで無駄に時間を使って遅刻するのは避けたい。

 諦めたクラリスが階下へ降りると、玄関でアレクシスが待っていた。

 詰襟の騎士服に身を包んだアレクシスは、すらりと高い身長も相まってすごく様になっている。


(く……かっこいい……)


 クラリスはつい心の中でうめいてしまった。

 頭の中では、裏切られたときの恨みと恋心が大喧嘩である。二年後の未来で裏切られた時の恨みが「ときめいてどうする!」と怒れば、恋心が「だってかっこいいんだもの!」と反論するのだ。

 クラリスは脳内の大喧嘩をぺいっと外に追い出して、使用人に不審がられないように顔に笑みを貼り付けた。


「おはようございます、アレクシス様」

「おはよう、クラリス。気持ちのいい朝だね」


 アレクシスは春の日差しも霞みそうなさわやかな笑顔を浮かべた。

 頭の中で恋心が暴走しそうになるのを必死に封印して、「ええ、本当に」と頷く。

 見送りに出たエレンに「いってくるわ」と告げて、クラリスはアレクシスとともにルヴェリエ侯爵家の馬車に乗り込んだ。アレクシスが当然のようにクラリスの隣に座る。

 そして、ぱたんと扉が閉まり、動き出したところで張り付けていた笑みを消す。


「……どういうつもりですか?」


 つい恨み節のような声が出てしまった。

 するとアレクシスも笑顔を消し、怒ったような顔をする。


「言っただろう。絶対に逃がしたりしない。君がまたふざけたことを考え出さないように、できるだけ君に張り付いておくことにしたんだ」

「そんな――」

「俺は君以外と結婚するつもりはない。諦めてくれ」


 クラリスがむっと口を曲げると、アレクシスが一転して微笑みを浮かべる。


「あんまり聞き分けの悪いことを言うと、伯爵に言って結婚を早めてもらうけど? 俺はそれでも全然かまわないよ。急いで結婚して、君を邸に閉じ込めておくと安心できそうだ」

「な……!」


 言葉を失うクラリスの手を取って、アレクシスはその甲にちゅっとキスを落とす。


「可愛いクラリス。君が俺から離れていくのなんて、絶対に許さない。一生閉じ込められたくないのなら、馬鹿な考えは早く捨てることだね」


 この人はいったい誰だろう。

 微笑んでいるのにどこかほの暗い色を瞳に宿すアレクシスに、クラリスはふと、そんな妙な疑問を抱いてしまった。


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