十六話

「さあ、今回の体調はどうだ?」


 ベッドで横になる僕に、ベルグラーノさんが真剣な顔で聞いてきた。


「何も、問題なさそうかな」


「熱や湿疹が出ることもありませんでした」


 側の椅子に座るシルヴィナが付け加えて言った。


「そうか! いい結果になったようだな。どれ、金化の進行具合は……」


 ベルグラーノさんは僕の手を取ると、服の袖をまくって肌を確かめる。


「……特に変化はなさそうだな。素晴らしいぞ。金化は止まってる」


 僕とシルヴィナは顔を見合わせて笑った。やっと……やっと薬が完成したんだ! 治療法探しを手伝い始めて六年、正直僕は死ぬ覚悟もしてたけど、エルデバ病での平均寿命の十五歳を目前にして、目標だった薬ができるなんて、本当にすごい! ベルグラーノさんを信じて手伝ってきてよかった。


 ラウルとの出来事があったあれから、僕達は言われた通り死に物狂いになって治療法を探した。と言っても、実際に探せるのはベルグラーノさんだけだから、僕達二人は雑用や簡単な手伝いしかできなかったけど。それでも僕の存在はすごくありがたがられた。エルデバ病にかかった人間がいると、作った薬が病原体に効くかどうか、治験というのをできるから、僕の身体の反応ですぐに確かめることができて、治療薬作りに大いに役立てた。でもここまで来るのに時間もかかったし、なかなか辛いこともあった。治験薬の副作用で高熱が出たり、手足の指がしびれたり、身体にはいろんな症状が現れた。そんな辛そうな僕を見てシルヴィナは治験の頻度を減らそうと言ったけど、すぐに断った。回数が減れば薬の完成が遅れる。時間のない僕に休む暇はないんだ。憂鬱な気分になりながらも、こらえながら治験を繰り返すこと数十回、その我慢と努力がとうとう実ったんだ。諦めずに続けた信念に間違いはなかった。


「この薬を飲み続けて、金化が完全に止まるのを確認できれば、エルデバ病で死ぬ子供はいなくなるだろう」


「じゃあ、ジュリオの命も……?」


「このまま問題がなければ、大丈夫だ」


「すごい……すごいわ! ジュリオ、あなたは生きられる! 大人にもなれるわ!」


 感激するシルヴィナが僕を思いっきり抱き締めてきた。


「いっ、痛いってば。力抜いて……」


「あ、ごめんなさい。あんまり嬉しくて……」


 苦笑いしてシルヴィナは僕から手を離した。嬉しい気持ちはよくわかる。死ぬと思ってたのに、薬のおかげで生きられるんだ。僕だって飛び跳ねて喜びたい気分だ。


「……ねえベルグラーノさん、これで僕の病気は治るの?」


「正確に言えば、治るわけじゃない。症状の進行を抑止できただけで、まだ身体には病原体が潜んでるからな」


「その病原体をやっつけないと、治ったとは言えないってことか」


「そういうことだ。気を緩めた隙に、いつまた進行するかわからない状態でもあるからな」


 前にベルグラーノさんに聞いた話だと、病原体の正体は土の中にいるすごく珍しいカビで、それが畑の野菜とかにくっ付いて、よく洗わずに食べたりなんかすると、母親を通じてお腹の赤ちゃんが病気にかかっちゃうらしい。野菜以外にも原因はあるみたいだけど、学者さん達の調査だと病気にかかる子供は農村地でよく見られるらしい。僕の故郷……誘拐されてからまだ行ったことはないけど、シルヴィナが言うには僕の家にも畑があって野菜を育ててたって言うから、僕が病気になった理由もそういうことなんだろう。


「まずはこの薬で子供達の命を救えればいい。その後に病原体を殺す完全な治療薬を作りたい。そして最終的には、病気そのものにかからない抗体薬を作る……それが私の目標だ」


「まだまだ先があるんだね」


「そうだ。この成功で終わりじゃない。君達にも、そこまで手伝ってもらえればとても助かるんだが……」


 控え目な声で言ったベルグラーノさんを見て、シルヴィナは笑って言った。


「今さら水臭いこと言わないでください。六年も一緒に頑張ってきたんです。中途半端なまま立ち去るなんてこと、できるわけありません」


「そうだよ。それに、僕の病気はまだ治ってないんでしょ? 治療薬ができなきゃ故郷には帰れないし、手伝わせてよ。もっと役に立ってみせるからさ」


 僕達の顔を見つめるベルグラーノさんは、嬉しそうに笑顔を浮かべた。


「ありがとう……君達と出会えたことは、本当に幸運だ。昔のしょぼくれてた自分に、先は明るいと伝えてやりたいほどだよ。……だが、いつまでも喜びに浸ってる場合じゃないな。これから忙しくなる。では早速この薬の調合――」


 その時、入り口の扉を激しくドンドン叩く音が響いた。


「ユアン・ベルグラーノ、いるか! いるなら開けろ!」


 男の大声が呼んでる。ベルグラーノさんを見ても、どうやら心当たりのない声みたいだ。


「盗品を売買した疑いで話を聞きに来た。早く出て来い」


 僕達は顔を見合わせた。


「盗品……? 一体何のことだ?」


「先生はもちろん、そんなことをした覚えはないんですよね……?」


 シルヴィナが聞くと、ベルグラーノさんは怒った声で言った。


「当然だ。買い物は決まった店でしかしてないし、怪しげな人間から物を買ったこともない」


「じゃあ何であんなことを言って……」


「出て来ないなら、この扉を壊して入るぞ! いいな!」


 脅すような大声が開けろと急かしてくる。本当に何なんだ?


「……おそらく、強硬手段に出てきたんだろう」


「私達が、研究をやめないからですか?」


「ああ。数年前から妨害行為がまた増えてきたのを見ると、向こうは我々の研究の進捗をある程度把握してる可能性がある。監視から逃げ回りながらも確実に進む研究に、危機感を覚えて強硬手段に出て来ても何らおかしくない。たとえ冤罪をでっち上げてでもな。それだけ向こうも必死なんだろう」


 言う通り、僕達はエルデバ病で儲けたいやつらから妨害を受けてた。ここへ来た頃はそうでもなかったのに、三、四年前ぐらいから急に回数が増えてきた。扉の鍵を壊されたり、窓に石を投げ付けられたり、街中でつけてきた知らない男に、耳元で殺してやると囁かれたり……。どれも恐怖を感じたけど、だからって研究をやめることはできない。僕達は何度も引っ越して場所を変えてきた。それでちょっとでも妨害が減ればと思ったけど、そう簡単なことじゃない。妨害に耳を塞ぎながら薬を作り上げたところまで来たっていうのに、それを強引に止めに来るなんて……。


「ベルグラーノさん、早く逃げないと。捕まったら研究ができなくなっちゃうよ」


「わかってる。それだけは絶対に避けよう……」


 そう言うと研究部屋へ向かったベルグラーノさんは、机に散らばる研究資料やたくさん作った薬を革のかばんに詰め込み始めた。入り口のほうでは、扉をガンガン蹴飛ばすような音が鳴ってた。本当に壊して入って来ようとしてるみたいだ。


「……さあ、これを持って奥の窓から逃げろ」


 研究に関する物をぎっしり入れたかばんを、ベルグラーノさんはシルヴィナに手渡した。


「は、はい。先生も早く――」


「いや、君達だけで逃げるんだ」


「なっ、何を言って……捕まってしまいます!」


「犯罪者にされた私が逃げれば、向こうは指名手配をして追って来るだろう。そうなれば年老いた私では逃げ切ることは無理だ」


「大丈夫だよ! 僕達が守るから、一緒に逃げなきゃ!」


 手を引こうとした僕の胸を、ベルグラーノさんは優しく押し離した。


「君達と逃げれば、必ず足を引っ張ることになる。私と一緒に捕まったら、君達も追われてる身だとばれて、村に戻されてしまう。そうなってはこの研究は誰にも託せない」


「私達だけじゃ、研究は進められません! ここで託されても……」


「代わりに研究をしろと言うんじゃない。私のこの成果を、同じ志を持つ学者に引き継いでもらいたいだけだ。中に手紙が入ってる。そこに弟子とも呼べる者の住所が書かれてる。現在もその場所にいるかわからないが、その男を訪ね――」


 ガタンッバタンッとものすごい音が鳴ったと思うと、複数の人が踏み込んでくる足音がした。それを聞いてベルグラーノさんは慌てて研究部屋の扉を閉めて鍵をかけた。


「早く奥の窓から逃げろ! そこなら通りから死角だから、すぐに見つからないはずだ」


「……鍵がかかってる。ここだ、ここにいる!」


 扉の向こうで数人の男達が話し、扉を叩いたり、取っ手をガチャガチャいじり始めてる。


「先生を、置いて行くなんて……」


「君達にとって大事なのは私じゃない。そのかばんの中身なんだ。研究を、止めてはいけない。老いぼれの身を案じるより、未来の子供達の命を救うんだ!」


「これで鍵を壊せ!」


 ゴンッと鈍い音が鳴って、扉の鍵の部分が少しだけ歪んだ。


「頼む……ここを破られる前に、早く行くんだ!」


 ベルグラーノさんはもう何か覚悟したように真剣な顔でこっちを見てくる。こんなお別れなんてしたくない。この人に、どれだけ感謝の言葉を言っても足りないぐらい、僕は救われたっていうのに……でも、ベルグラーノさんは自分より、病気にかかった子供達が救われるのを望んでるんだ。僕達まで捕まったら、それはまた遠のく……。


「……先生、これまで、ありがとうございました。心から感謝してます!」


 辛そうな顔でお礼を言ったシルヴィナは、僕の手をつかむと奥にある窓へ走って行った。


「こちらこそ、ありがとう」


 後ろから優しい声の返事が返ってきた。でも僕達には振り向く余裕もない。大人一人がどうにか通れる小さい窓を全開にして、まずは僕がそこから外へ出た。


「かばんをお願い」


 僕にかばんを渡してからシルヴィナも外へ出る。ここは隣の建物の壁がすぐ間近にあって、道とも路地とも呼べない細い空間があるだけで、表の通りからは見えない場所になってる。家を引っ越すたびにベルグラーノさんは、いざという時のために逃げ道のある家を探して選んでたけど、まさか本当に使う日が来るなんて……。


「……どこに逃げるんだ?」


 かばんを渡して僕は聞いた。


「わかんない、けど、今回の妨害はいつもと明らかに違う。しばらく街を離れることも考えたほうがいいかもしれないわね」


 僕達は壁に沿って歩いて、とりあえず道に出ることにした。


「……追って来る人は、いない、わね?」


 昼間の通り。民家の多い場所だから人通りは少なめだけど、行き交う人影はある。そんな辺りの様子を見ながら慎重に出た時だった。


「こっちにいるぞ!」


 突然の大声に振り向けば、通りの先に僕達を見て走って来る二人の男が見えた。


「見張られてたっ……ジュリオ、走って!」


 シルヴィナに背中を押されて、僕は走り出す。こんなところで捕まるわけには!


「こっちよ!」


 シルヴィナが曲がったほうへ僕も曲がる。そこは細い路地だった。


「ここで追っ手をまくわ」


 六年もいれば街の道ぐらいは大体憶えてて、この近所の路地のこともわかってた。何箇所か分かれ道があるから、そこを使ってまく考えなんだろう。


「待て!」


 後ろを見ると、追っ手の男が路地の入り口まで来てた。もう追い付かれた。足が速いな。僕達は急いで奥へ駆けた。そして最初の分かれ道に差しかかる。左と真っすぐ……真っすぐ行けばまた分かれ道に当たるから、シルヴィナは迷わず真っすぐ向かおうとした。


「ここまでだ!」


 左の路地から人影が現れたと思うと、シルヴィナに勢いよく飛びかかった。不意を突かれたシルヴィナは地面に倒され、身体を押さえ込まれた。


「うっ……や、め……」


「言うことを聞かないから、こうなるんだよ!」


 男はシルヴィナにまたがって上から首を絞め始めた。こ、殺されちゃう……!


「どけ!」


 僕は男に蹴りを食らわせた。が、気付いた男は右腕でそれを防いだ。……ぐ、くそっ。


「お前もやってやるから待ってろ」


「待つわけ、ないでしょ!」


 男が手を離した隙に、シルヴィナは男の胸ぐらをつかむと、そのままグルンと横に転がり、今度は男が押さえ込まれる形にした。そして驚く男の顔に振り上げた手でバチンとビンタを食らわせた。


「あんた達の言うことなんか、誰が聞くもんですか!」


「うぐう……!」


 シルヴィナは男の首を絞める腕に全体重を乗せるように力を込める。苦しさに両手をバタバタ暴れさせる男だったが、やがて静かになって動かなくなった。それを確かめるとシルヴィナはゆっくり男から離れた。


「……まさか、殺しちゃったの?」


「大丈夫よ。失神してるだけだから。それよりありがとう。またジュリオに助けられ――」


 そう言いながら僕を見たシルヴィナの顔が瞬時に強張った。


「ジュリオ! 危ない!」


 え、と不意に感じた気配に振り返ってみると、目の前には追っ手の男がいて、ちょうど僕に手を伸ばしてくるところだった。驚きすぎて身体が動かなかった僕は、見下ろしてくる男の悪そうな顔を見つめるだけだった。捕まる――


「ぶふぉっ――」


 男の頭に何かが当たって、グラッと身体が揺れたかと思うと、男は白目になって地面に倒れてしまった。……な、何が起きたんだ?


「……ラウル!」


 シルヴィナが呼んだ名前に顔を上げれば、倒れた男の後ろには、六年ぶりに会うラウルがいた。


「何で、いるの……?」


 僕は思わず聞いた。連れて行かれそうになった日から大分時間が経ってるけど、あれからラウルとは一度も会ってなかった。前と印象は変わってないけど、黒く染めた髪はさらに伸びて一つに結われてる。口元のしわも深くなって、少しおじさんっぽくなった感じだ。


「俺がいるのが不思議か? 言っただろう。お前達のことはずっと見てると」


「ジュリオを連れ戻しに来たの? だったら早いわ。見ての通り、この子はまだ元気に――」


「そんなつもりで来たんじゃない。見てたら、お前達を狙う集団が何やら騒がしくしてたから様子を見に来たんだ」


「つまり……私達を助けに来てくれたの?」


「お前達が捕まったら、村へ連れ帰れない可能性もあるし、そうなれば家族全員、罪人のままにされる。それだけは絶対にごめんだ。だからやつらに手出しさせるわけにはいかない」


 自分にとって追って来る男達は迷惑だから、それで助けに来たってことかな……優しいのか自分勝手なのか、この人は相変わらずよくわかんない人だ。


「さっき、お前達と一緒にいた学者が連行されて行くのを見た。……あいつは一体何をしたんだ?」


「何もしてないわ。ただ研究をして、ようやく効果のある薬を作っただけよ。それを知られたかはわからないけど、でも研究に関して何かしら不都合を感じて先生を捕まえに来たことは間違いないと思う」


「病気を治せる薬ができたのか?」


「ううん。治すっていうより、止めるっていう薬。ほら、皮膚の金化がちょっとだけで止まってるんだ」


 僕は袖をまくって腕を見せた。金化する症状は手足の末端から始まるらしくて、僕も一年前ぐらいからそれが始まった。手を光に当てると、皮膚の表面がきらきら輝くことがあって、ベルグラーノさんにはそれが金化してる部分だと言われた。目じゃ見えないほどの砂粒ぐらいの金化から始まって、やがてそれが皮膚全体に広がり、全身を金に変える。金化が始まる年齢は十三、四歳が多いようで、僕も十三の頃に始まった。そうなると普通は金化を避けられず、十五になる間に一気に症状が進むらしいけど、僕は本当に幸運で恵まれてた。シルヴィナに連れられてベルグラーノさんに会わなきゃ、薬を飲むことはなかったんだから。おかげで症状が進むはずだった今も、僕の皮膚はほとんど普通で柔らかいままだ。


「お前は確か今、十四歳だったよな……それでこの状態を保ってるとは、信じられない奇跡だな……」


「ええ。先生はこの子に奇跡を起こしてくれたの。でもこれはまだ小さな奇跡……先生なら完全な治療薬を作ることもできるはずよ。それを、この男達は目先のお金と引き換えに潰そうとしてるのよ」


 シルヴィナは地面で気を失ってる男達を腹立たしそうに見下ろした。


「だが、その先生は捕まったんだ。治療薬を作る希望はもう――」


「希望は残ってる」


 そう言ってシルヴィナは革のかばんを持ち上げて見せた。


「これは先生に託されたもの。中には研究資料が詰まってるわ」


「ベルグラーノさんみたいに、病気を治そうと頑張ってる学者さんは他にもいるんだ。この資料を持って行けば、きっとまた研究は進むはずだよ」


 ラウルは僕達とかばんをじっと見て言った。


「……なるほどな。それでお前達だけ、逃げ出して来たってわけか。そのかばんは、見た目以上に重いものみたいだな」


「そうよ。何せこれから生まれてくる子供達の運命もかかってるんだから。……ラウル、私達はまだあなたを、家族を救うことはできない。だけど研究が途切れなければいつか必ず救えるわ。そのためにも私達は捕まるわけにはいかないの。この街から逃げられる手助けを――」


「おい、いたぞ! こっちだ!」


 その時、後ろの路地の先に人影が現れて叫んだ。新たな追っ手だ……!


「走れ!」


 ラウルの声で僕達はすぐに走り出した。


「街を、出たいんだな?」


 走りながらラウルが聞いた。


「……手助け、してくれるの?」


「希望は、失われてないんだ……そうするしかなさそうだ」


 ラウルが追っ手を見たのにつられて、僕も後ろを見てみた。三、四、五……さっきより人数が増えてる。捕まったら逃げられないかもしれない。


「……やつら、足が速いな」


 そう呟いたラウルは、急に足を止めて振り返った。


「ラウル! 何して――」


「俺が足留めしてやるから、早く行け」


「足留めって、一人であの数じゃ――」


「いいから! 行け!」


 そう言ってラウルは腰にぶら下がる手斧を取った。まさか、一人で戦うのか? そんなの無理だ――僕は隣のシルヴィナにすぐ言った。


「一緒に戦おう! ラウルだけじゃ危ないよ!」


「子供が余計な心配するな」


 ラウルが背中越しに言ってきた。


「向こうは五人だぞ! 剣士でもないのに勝てるかよ!」


「勝つ必要はない。足留めできればいいんだ」


「それで捕まったらどう――」


 話してる途中で、シルヴィナはいきなり僕にかばんを押し付けるように渡してきた。


「なっ、何だよ急に」


「それ持って、あなたは街を出なさい」


「はあ? お前も一緒に街を――」


「私もラウルと足留めするわ」


「兄妹だからって、変な気を遣うな」


 ラウルがこっちをちらっと見て言う。


「そんなんじゃないわよ。これはジュリオのためで、研究を次に進めるため……私が決めたの。邪魔だって言われてもやるわ」


「……勝手にしろ。俺は知らないぞ」


「二人が戦うなら、僕だって――」


「それは駄目。あなたには大事な役目を任せたんだから」


 役目――僕は渡されたかばんを見た。ずっしりと重みのある、資料と薬が詰まったかばん。


「街の外、街道の外れの野原にある大きな赤杉で合流しましょう。前に見たことあるでしょ?」


「あるけど、一人で逃げるなんて――」


「逃げるんじゃない。進むの。大丈夫よ。必ず行くから心配しないで」


「誰も逃すな! やれ!」


 追っ手の男達がラウルに襲いかかろうとしてた。


「早く行って! さあ!」


 シルヴィナに背中を押された僕は、そのまま走り出すしかなかった。後ろを見てみれば、手斧を振り回すラウルと、僕に気付いた男をつかんで必死に止めるシルヴィナが見えた。引き返したい気持ちを押し殺して、僕は前だけを見て街の外を目指した。


 喧騒に包まれた通りを、行き交う人達の間を縫って走り抜ける。走る子供に気付いても、皆ただそれだけのこととしか思ってない。お金目当てのやつらに追われてるとも、このかばんにエルデバ病を治すための資料が入ってるなんて誰も思ってないだろう。たとえそれを知ったとしても、大半の人は何も感じないかもしれない。それだけエルデバ病っていうのは珍しいし、馴染みがない。治療できようとできまいと、お金抜きで興味を持つ人は少ないと思う。でも当事者は違うんだ。かかった子供も、その家族も、数は少なくても毎日苦しんでるんだ。病気の恐怖に怯えてるんだ。そんな彼らをお金儲けの道具になんかさせない。当たり前に夢や希望を持てるようにしないと。それができるんだっていう証明は……この僕なんだ。エルデバ病は、もう不治の病じゃなくなる。研究はそこまで来てる。ベルグラーノさんの意志を伝えなきゃ。僕が希望になって皆に伝えて、この大きな役目を必ず果たすんだ。足留めしてくれたラウルとシルヴィナのためにも……だから、走ることは絶対にやめない。あいつらに資料は奪わせない。届けるんだ。それが皆を、その次の皆も救うことになるから。シルヴィナが導いてくれた希望を、僕は諦めない。

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ゴールデンボーイ 柏木椎菜 @shiina_kswg

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