八話
ふと本屋を見つけた僕は、通り過ぎようとする女のマントを引いて止めた。
「ねえ、本買ってよ」
「え? ああ、あの本屋? まあいいけど……」
戻って本屋へ向かう女に付いて僕も行く。そしてたくさん並べられた本を見て行きながら、僕は一冊を選んで女に渡す。
「……これにする」
「ふうん、騎士の物語か。やっぱり男の子ね」
女は店員にお金を払うと、本を僕に渡した。
「はい。書く練習も忘れずにね」
受け取った本を僕は肩からかけたかばんの中にしまう。ずしっとさらに重みが増した。これで買ってもらった本は五冊目。子供も読める本だからあんまり厚みはないけど、それでも五冊だと大人が読む本の一冊分以上はある気がする。
「最近、勉強熱心なようね。よく本をねだるじゃない」
本屋を後にして街中を歩きながら、隣の女が聞いてきた。
「……悪い?」
「そんなこと言ってないでしょ。むしろいいことよ。学ぶことの楽しさに目覚めたの?」
「いろんなことを知るべきだって言ったのはお前だろ? だから本をたくさん読んで、知らないことを学んでるんだ」
「つまり、私の言葉に影響されてってこと?」
「きっかけはそうかもしれないけど、別に、お前の言うこと聞いて読んでるんじゃない。ただ本が面白いから、それで僕は……」
「読むだけじゃなく、書くほうも頑張りなさい。あなたの字はグニャグニャで、まだまだ下手だから。あれじゃ笑われちゃうわよ」
「教え方が上手ければ、もっと綺麗に書けるようになってたかもな」
「ちょっと、人の責任にするつもり? お手本をちゃんと見ないで適当に書くそっちが悪いんでしょうが」
「僕はお手本通りに書いてるし。そのお手本が下手なんじゃないの?」
「あなた、本を読むようになって減らず口を叩くことを覚えたようね。……本のおねだりを聞くのは、しばらくやめようかな」
女は横目で僕を見ながら溜息を吐いた。それを僕は鼻で笑ってやった。
こうして女と一緒にいて何十日経っただろう。ちゃんとはわかんないけど、とにかく長いこと歩き続けて、いくつもの街に立ち寄ってきた。そこに本屋があれば、そのたび僕は本を買ってもらってた。最初の本を読み終わったせいでもあるけど、他の本も読んでみたかったし、何より知らないことがいっぱい書かれてたから、知識を得るためにもいろんな本を読んでおきたいと思った。そのおかげで文字を読むことは大分慣れたし、本をしまうかばんも買ってもらえた。僕専用のかばんだ。お菓子とか武器が手に入ったらここにこっそり入れておくつもりだ。
本を読んで得られる知識はいろいろあるけど、僕が一番知りたいのは、敵との戦い方だ。冒険の話だと大抵主人公は悪い敵と戦う。武器を使って、時には仲間と力を合わせてバシッと倒す。それがすごくかっこいい。僕もこんなふうに戦えたらなと思うけど、切れ味抜群の剣や斧を持ってない。それどころか女に勝てるほどの力がない。身体を押さえ込まれたらもう終わりだ。戦い方を知る前に、それをどうにかしないといけない。
でも本はそれも教えてくれる。ある話の主人公は最初、すごく弱かった。ネズミを怖がるぐらい弱虫で、泣いてばっかりだった。そんな自分を変えたい主人公はある日、強い戦士に弟子入りして、修行することにした。くじけそうになりながらも毎日素振りしたり、重い石を持ち上げたりして自分を鍛えた。力が付くと、街を荒らす悪人や旅人を襲う怪物を倒して、主人公は皆から感謝される人になった。その噂を聞いた王様は、さらわれた姫を助けてほしいと頼んできた。すぐに引き受けた主人公は悪い魔法使いを倒して姫を助けると、その姫と結婚して幸せに暮らすことができた――っていう話。ここで注目したいのが主人公の最初の弱さだ。ネズミにも勝てない弱さは今の僕よりも弱い。僕はネズミぐらい蹴り飛ばせる。そんな弱い主人公なのに、修行をしたら見る見る力が付いて強くなった。力だけじゃなく勇気も付いて堂々とするようになった。その姿はもう戦士だ。つまり僕がそうなるには、主人公と同じように修行をすればいいわけで、自分を鍛えれば力が付くってわけだ。できれば強い人に弟子入りしたいけど、女と一緒じゃそんなの無理だから、まずはすぐにできそうな重い石を持ち上げて力を付けようと思ってる。実はもう野宿の間に少しだけやってみてるけど、力が付いてるのかよくわかんない。でもまだ始めたばっかりだ。続けてればそのうち怪物も倒せる力が付くはずだ。そして女を殺して敵を討てる日が必ず来るはず……そのために必要な知識を、僕はできるだけ知りたい。だから本はこの先も読み続けるだろう。
「……今日は宿屋に泊まらないの?」
女が街の外を目指して歩いてるのに気付いて聞いた。
「ええ。まだ明るいから、次の街目指そうかと思って。そんなに遠くなさそうだから」
街に着くと大体はそこの宿屋に泊まるんだけど、時間に余裕があると、こうして先へ進もうと急ぐこともある。僕は柔らかいベッドでゆっくり休みたいところなんだけど、女は休むより歩き続けたいらしい。……そう言えば、女は一体どこへ向かってるんだろう。行き先なんて聞いたことなかったな。ただ殺す隙を見つけるためだけに一緒にいたけど、そう考えるとちょっと怖いな。この女、嘘つきだし……。
「……あのさ、僕達ってどこに行こうとしてるの?」
「ずーっと遠くよ。前にも言わなかった?」
僕の家がある山を下りる時に言ってたけど、その時ははっきり教えてくれなかった。
「遠くって言っても、どのぐらい遠くで、どういう場所なんだよ」
「海を越えた先の街よ」
「海? 海が見られるの?」
女の丸い目がこっちを見てきた。
「……あなた、まだ海を見たことないの?」
「だってずっと山にいたんだ。海のことは本の中でしか知らない」
母ちゃんと父ちゃんに海っていうものがあることは聞いてたけど、どういうものかは詳しく知らなかった。でも本を読んで、それが広くて青くてしょっぱい水みたいなものだってことを知った。自分の目で見てみないとよくわかんないけど。
「すごく広いんだろ? どれぐらい広いの?」
「両手じゃ表し切れないほどよ。目の前に海があるとして、地平線の、さらにその奥の、見えない彼方までずっと続いてるわ」
「ずっと、奥……?」
山に沈む太陽よりも、もっと奥まであるってことかな……。
「その上を渡って行くの。船でね」
船で、海を渡る――これに僕は一気に不安になった。
「船って沈んじゃうんだろ? 乗って平気?」
「私達が乗るのは大きな船だから大丈夫よ。簡単には沈まないわ」
「でも嵐が来れば、すぐバラバラになっちゃって、皆海に落ちちゃうんだろ?」
「嵐に遭わないように進むから、バラバラになんてならないわよ」
「海賊は? 海賊に遭ったらどうするんだよ。僕、お金持ってないし、まだ力もないから殺されちゃうよ」
「街に近い海に海賊なんて出ないから安心して。海賊がいるのはもっと遠くの海よ」
「じゃあ、騙されて奴隷船に乗せられたりしない? 人身売買で知らない国に――」
「待って待って。人身売買なんて言葉、どこで覚えたのよ」
「本の話でだけど?」
僕はかばんを軽く叩いて見せた。
「子供向けの本だと思ったのに、そんな重い話が出てくるの?」
「悪いやつに騙されて知らない国に連れて行かれた主人公だけど、知恵と勇気で長い旅をして、家族のいる家に戻るって話だよ。いろんな国に行くから、僕の知らないこともたくさんあって面白かった」
「そ、そう。何か学べてるならいいんだけど……内容は買う前に、ざっと確認したほうがいいかもね。まあ、それはともかく、何も心配いらないわ。私は何度か船に乗ってるけど、こうして無事に生きてるんだから、危険なことなんてないわ。乗ってみたらきっと楽しいわよ」
僕は笑顔の女をじっと見つめた――簡単には信じないぞ。こいつは嘘つきだから、言うことすることには注意しとかなきゃ。
「……海を渡って、それからどこに行くんだよ」
「学者さんに会いに行くの。エルデバ病について詳しく聞けるかもしれないから」
「僕の病気のことなんか聞いて、どうするんだよ」
「もちろん治せるかどうか聞くのよ」
「まだ治す方法はないって前に……」
「ええ。だけど行ってみないとわからないでしょ? 私達が会いに行った時には、薬の一つでもできてるかもしれないし」
「それじゃあ海を渡るのは、僕の病気のためなの?」
「治せる可能性がちょっとでもあるなら、私はあなたの病気を治してあげたいから。健康な身体にして……本当の家族に会ってもらいたいの。そうすれば皆、喜ぶわ」
本当の家族はお前に殺された――そう言い返してやろうと思ったけど、僕を見る女の顔がどこか悲しそうで、寂しそうで……何となく言いそびれてしまった。笑っててもらわないと、こっちから強く言い返せないじゃないか。そんな顔、しないでほしい。悪いやつはずっと笑ってればいいんだ。そうすれば僕も変な気持ちにならなくて済むのに。
日が暮れかけた夕方、次の街に着いた僕達は、夕飯を食べて宿屋に泊まって休んだ。歩き疲れた僕はすぐに眠った。起きたのは鳥達が鳴いてる朝だった。窓から入る太陽の光に起こされて、眩しい目をこすりながら身体を起こすと、隣のベッドで寝てたはずの女がいなかった。どこに行ったんだと部屋を見回すと、隅にある壁にかけられた鏡の前に女は立ってた。
「……何、してんの……?」
僕が声をかけると女は振り向く。
「……まだ眠そうね。寝てていいわよ」
女は髪や服装を整えながら言った。どっかに出かけるような感じだ。
「どこ行くの?」
「ちょっと仕事探しに行ってくる」
「……仕事? 何で?」
「出費しすぎちゃったみたいでね……このままじゃ船に乗れないかもしれないから、お金を稼がないといけないのよ」
「船に乗るのにお金がいるの?」
「そうよ。食べるのだって、宿屋に泊まるのだって、全部お金を払うでしょ?」
確かに、そうだ。女はいつもお金を払ってる。僕の本を買う時も――
「お金は仕事をして、働いた分だけ貰えるの。だから足りない分を稼いでくるから、あなたはここで待っててくれる? あ、食事は買ってきてあげるから大丈夫よ」
身支度を終えた女は部屋を出て行こうとする――お金のことなんて全然考えてなかった。言えば食べたい物を注文してくれたし、本も買ってくれた。でもそれには全部お金を払ってたんだよな。当たり前だけど。その大事なお金が足りないっていうのは、もしかして僕のせいなのか? 料理のおかわりしたり、何冊も本を買わせたから、それでお金が足りなくなったんじゃ……。
「……待って」
僕は扉を開けようとした女を呼び止めた。
「ん? 何?」
「僕も、一緒に行く」
「え、どうして? 独りじゃ寂しいの?」
「そ、そんなわけあるか。僕も一緒に働くんだよ」
そう言うと女は驚きながらも笑った。
「本気で言ってるの?」
「何だよ。嫌だって言うのか?」
「嫌と言うか、その気持ちは嬉しいけど、まだ子供だからね。働きたくても無理なのよ」
「何でだ。何で子供じゃ働けないんだよ」
「仕事で必要な働き手は全部大人だし、たとえあなたが働いても、背も力もまだないから難しいと思うわよ」
「僕を馬鹿にするのか」
「そうじゃなくて、事実を言ってるの。まあ、いろいろ聞き込めば、小間使いぐらい頼めるところはあるかもしれないけど」
「あるんじゃないか。なら僕も働く」
僕は毛布を剥いでベッドから下りると、急いで靴を履いた。
「……ねえ、どうしてそんなに働きたいの? 仕事って大変なのよ?」
「そ、それは……」
お金を使わせた責任を感じてるからなんて、そんなこと言えないし言いたくない。こいつに借りがあるとは絶対に思わせたくない……。
「……お前を一人にしたら、逃げるかもしれないじゃないか」
「私が逃げる? どうして? どっちかって言えば、逃げたいのはそっちじゃないの? 現に一度逃げてるし」
「あ、あれは、逃げたわけじゃない。いろいろ理由があったんだ。だけどお前は僕に狙われて、いつ死んでもおかしくないんだ。殺されないように逃げるかもしれないだろ」
「だから、一緒に働きたいの?」
「そうだ。働きながら、僕はお前を見張るんだ」
よし、なかなかいい理由を言えた。見張るために僕は一緒に行くんだ。
「あなたに殺される恐怖は今のところ感じたことはないけど……そんな理由をこじつけてまで働きたいなら、仕方ないわね」
「こ、こじつけじゃない!」
「はいはい。わかりました。でも、子供の仕事探しなんてさすがにしたことないから、何もできず、ただ待ってるだけになるかもしれないけど、そこはわがまま言わないでよ」
「そんなこと言わないよ。仕事が見つからなかったら本読んでる」
女はにこりと笑うと僕のほうへ近付いてきた。
「街中へ行くんだから、顔ぐらい洗ってきなさい。ほら、寝ぐせも直して」
僕の髪を女は撫で付けるように触る。
「それと、スカーフも巻き直して。絶対にずれたり外れたりしないように」
言われて僕は首のスカーフをすぐに巻き直した。これが大事だってことを今はよくわかってる。アザを見られれば、誰がお金に目がくらむかわかんないんだ。それだけはずっと注意しとかないと。
身支度を終えた僕は女と一緒に朝の街中へ出て行った。いい天気の下で、もうたくさんの人が道を行き交ってる。早足で歩いてる人とか、大きな荷物を運んでる人……皆、仕事に向かってるのかな。
「ねえ、僕達はどこで働くの?」
「それはこれから探すのよ」
「どうやって」
「仕事の斡旋所があるから、そこで聞くの」
「あっせんじょ?」
「いろんな仕事を紹介してくれるところよ。その中からやりたい仕事を決めて働くの」
「へえ、そんなところがあるんだ」
「日によって変わるから、やれそうな仕事があるかは運次第だけどね。いい条件の仕事が見つかればいいけど」
人に聞きながら道を進んで斡旋所に着くと、女はカウンターにいた男の人に話しかけて仕事を探し始めた。聞いててもよくわかんない僕は、建物の隅の椅子に座って二人の様子を眺めてた。それから三十分後――何度もあくびをしながら待ってると、女がやっと話を終えてこっちに来た。
「お待たせ。いい仕事、見つかったわよ」
「どんな仕事?」
「大きなお屋敷での雑用仕事。掃除とか、買い出しとかね。面接に行って採用になれば、もう今日から働けるらしいわ」
「僕は? 僕も働けるの?」
「あなたは無理よ。面接は私だけ。でも一応頼むだけ頼んではみるけど、期待しないでね」
僕も働けるかもしれない……な、何か、ドキドキしてきた。どんなところだろう。楽しみだ。
僕達は早速、仕事がある大きなお屋敷へ向かった。これまでいろんな街に立ち寄って、いろんな建物を見てきたけど、ここまで大きい家を見るのは初めてだ。僕の家の五個分……もっとあるかな。窓はたくさんあるし、庭は広い。入り口の扉もすごく大きいな……。
「……こんにちは。どなたかいらっしゃいますか?」
女は扉を叩いて声をかけた。するとすぐに中から丸い顔のおばさんが出てきた。
「はい……どのようなご用でしょうか」
「あの、こちらでの仕事を希望して、面接に来たんですが」
「ああ、募集してた仕事ね。なかなか集まらなくて困っていたのよ。じゃあ入って」
「わかりました。……あなたは門の外で待っててくれる? 一人でどっか行っちゃ駄目よ」
何だ、僕は中に入れないのか。つまんないな……。
「その子は?」
おばさんは僕を見て女に聞いた。
「訳あって連れてる子で……迷惑はかけませんので、外で待たせてもいいですか?」
「それは構わないけど……まだ小さい子だし、独りで待たせるのは心配ね」
するとおばさんは僕に近付いてきて、笑顔で言った。
「外で待つより、お庭で待つほうが安全だわ。今日は天気もいいし、案内しましょう」
「いいんですか? お気遣い、ありがとうございます」
どうやら僕も中に入れることになった。おばさんの案内で家に入ると、部屋の中もすごく広くて大きかった。泊まってる宿屋よりも広いし、置いてある椅子とか机も立派でかっこいいものばかりだ。すごいな。こんなに広い場所だと、一体何人の人が住んでるんだろう。
「面接はこちらの部屋で行います。……さあ、お庭へ行きましょう」
おばさんは部屋に女を案内すると、次は僕の案内を始める。
「ジュリオ、礼儀正しくするのよ」
後ろから女が言った。礼儀正しくって言われても、他人の家に来るなんて初めてだからよくわかんないけど……静かにしてればいいのかな。
「お名前はジュリオというの?」
おばさんに聞かれて、僕は困った。
「あいつはそう呼ぶけど、僕はそんな名前じゃない。ヘクターっていうんだ」
「ヘクターだけど、ジュリオと呼ばれているの? 何だかおかしいわね」
「うん、おかしいんだ、あいつ」
するとおばさんは、眉をひそめた顔で僕を見ると言った。
「あなたとあの女性の関係を聞くつもりはないけど、目上の人間をあいつと呼ぶのは、あまりいいことではないわね。あなたが世話になっているなら尚更。名前で呼ぶなり、もっと敬意のある呼び方をするべきよ。いい?」
「え……あ、う、うん……」
思わぬ注意に僕は反論できなかった。何も知らないおばさんからしてみれば、僕は失礼な呼び方をしてるって思ったようだ。でも僕は何も失礼じゃない。人殺しの名前なんか呼びたくもないし、あいつはあいつで十分なんだ。確かに世話にはなってるけど、それはお金目当てだからで、あいつは嘘つきなんだ。まともな呼び方なんかしなくたっていい。
長い廊下を歩いて行くと、その先に庭が見えた。手すりを伝って短い階段を下りると、目の前には綺麗な庭が一面に広がってた。木や花の咲いた植木があちこちにあって、そのせいかちょっと甘い香りがした。僕の家の周りにも花は咲いてたけど、ここまで色とりどりの花が集まって咲いてる景色は見たことない。本当に綺麗だな。ずっと見てられそうだ。
「時間はかからないと思うから、そこのベンチに座って待っていてね。終わったらまた来るわ」
僕の頭を一撫ですると、おばさんは来た廊下を戻って行った。僕はそれを見送ってから、言われたベンチに座った。庭に向かって置かれたベンチからは、綺麗に並ぶ植木が全部見渡せた。わあ、何か、現実じゃないような景色――咲き乱れる花にしばらく心を奪われて眺めてた時だった。
「そこの坊主」
「ひゃあっ!」
突然どこからともなく低い声に呼ばれて、僕は跳ねるように驚いてしまった。声のしたほうへ目を向ければ、そこには大きな身体の白髪頭のおじいさんが、これまた大きなハサミを手にして立ってて、その姿に僕はもう一度驚いた。な、何、この人、何でそんな大きなハサミなんか持ってるの……?
「ベンチに座って庭なんぞ眺めて……客人か?」
怪しむような目がこっちを見てくる。
「ぼ、僕は、ここで働くって、面接に来て……ま、待ってるだけで……」
「うん? 面接? ……ああ、募集で来た人間の子供か」
「僕はあいつの子供じゃない! ……ここで、待ってろって言われたんだ」
「そういうことか。さっきまでいなかった子供が急にいたから、どなたかの客人の連れかと思ったわ」
「……おじいさん、何してるの? その、ハサミって……」
「わしゃ庭師でな、ここの庭の手入れを任されておる。この剪定ばさみで余計な枝なんかを切るんだよ」
庭師……そんな仕事があるんだ。
「じゃあ、この綺麗な庭を作ったのって、おじいさんなの?」
「いや、作ったのは先々代のご主人様だ。わしはこの景観を維持するために世話をし続けているだけだ。……この庭は、綺麗か?」
「うん。すごく綺麗。いつまでも見てられるよ」
そう言うと、おじいさんは嬉しそうに笑った。
「この庭を見た者全員にそう言ってもらえることを目標に、毎日手入れをしておる。その言葉は何よりだ。……お、ここにもいたか」
おじいさんはすぐ側の植木に目をやると、葉っぱの隙間に手を突っ込んで何かをつまみ上げた。
「……何取ったの?」
「これか? これはクロトゲマダラムシって言ってな。害虫だ」
「がいちゅう?」
「木や花を枯らす悪い虫のことだ。春になるとよく出て来てな。困っておる」
畑の野菜を食べちゃう虫は知ってたけど、美味しくもない木と花を枯らす虫もいるんだ。
「じゃあ捕まえないと駄目だね」
「そうなんだが……今相棒の庭師が腰を痛めて休養中でな。だからこの広い庭の世話はわし一人でやっておるんだが、さすがに一人では手が回らない。しかも老眼では、こんな小さな虫は見つけづらくてな」
「目、悪いの?」
「歳をとると皆、物が見えづらくなるんだ。坊主もいずれわかる時が来るぞ」
歳をとったらか……じゃあ僕にはずっとわかりそうにないな。
「……僕が代わりに取ってあげようか?」
「取り切れる数ではないし、わし一人でどうにかする」
「でも、ちょっとでも取ったほうがいいんでしょ? 僕、待ってるだけでどうせ暇だし」
「暇か……焼け石に水だろうが、一匹も取らないよりはましか……。坊主、虫捕りはできるのか?」
「できるよ。畑とか山の虫はよく捕まえてた」
「ほう、得意そうな口振りだな。じゃあ頼もうか。この黒い虫を捕まえてくれ」
僕はおじいさんに近付いて、その手につままれた虫を見た。黒光りした身体には黄色い点々模様があって、口は針やトゲみたいに細長く尖ってる。
「これ、刺してくる?」
「大丈夫だ。滅多なことで刺してくることはない。そっとつまめば大人しくしておるから、捕まえたらこのかごに入れてくれ」
そう言っておじいさんは腰にぶら下がった小さなかごを取って、その中に虫を入れた。
「こいつは太い枝か幹におることが多いから、そういう場所を探してみるといい」
「わかった。そうしてみる」
僕はかごを受け取って広い庭へ向かった。甘い匂いが漂う中を歩き回って僕は虫を探した。それにしても本当に綺麗な庭だな。石や枯れ葉が一つも落ちてない。それに歩くのに邪魔な枝も飛び出てない。おかげで虫探しは楽にできた。高いところは見えなかったけど、手が届く低いところにいた虫は全部捕まえることができた。数は二十匹ぐらいかな。かごの中もいっぱいだ。おじいさんも喜んでくれるだろう。
「こんなに捕まえられたよ。ほら……」
走って戻ると、そこにはおじいさんだけじゃなく、丸い顔のおばさん、そして女がいた。
「おお、すごいな。かごいっぱいに捕ってくるとは」
僕に気付いたおじいさんは、かごの虫を見て驚いたように笑った。
「……どうでしょうか。早速お役に立てたようですし」
女はおばさんに言った。
「そうみたいね……わかったわ。まだ幼いから多くは出せないけど、ユストの助手として採用しましょう」
「ありがとうございます! ……ジュリオ、あなたも仕事ができるわよ!」
女が嬉しがってるのを見て、僕は首をかしげた。虫捕りに行ってる間に一体何があったのか――後で聞いたところによると、おじいさんは庭の世話をするために人手を欲しがってたけど、なかなか見つからなくて、一方で女は僕でもできる仕事はないかっておばさんに聞いたらしい。庭に僕を迎えに来た二人は、ここでおじいさんの希望を知って、僕が虫捕りをできたのを見て、おばさんは僕を働かせることを決めたってわけだ。何にも考えずやったことだったけど、何か上手くいってよかった。ちなみに女も仕事をすることになって、僕達は揃ってこのお屋敷で働くことになった。
嬉しいことに、僕達は部屋が貰えた。と言っても他の働く人達もいる部屋だけど。お屋敷の地下で僕達はおじさん、おばさん、お兄さん、お姉さん達と一緒に過ごしながら働いた。女は部屋の掃除とか、時々料理の準備なんかもしてた。僕は庭師のおじいさん――ユストさんと一緒に庭の世話をした。落ち葉を片付けたり水を汲んで植木にあげたり。広い庭全部をやるのはすごく大変で上手くできないこともあったけど、虫捕りだけはよく褒められた。こうやって植物に触れてると、家の畑のことを思い出したりする。ベッドに入ると、あの頃が懐かしくも思えた。でも寂しくはならなかった。
同じ部屋で寝てるおじさん、お兄さん達は僕に優しくしてくれた。わからないことは何でも教えてくれたし、夕食のリンゴをくれたりもした。休憩時間に僕が重い麻袋を持ち上げて力を鍛えてるのを見て、あるお兄さんも一緒に始めた。聞けば一時期、剣士を目指してたけど、足に大怪我を負って諦めちゃったらしい。でも強い男にはなりたいから身体は鍛えたいらしい。それを聞いて僕は、お兄さんに剣の練習をお願いした。僕も強くなりたいって言うと、お兄さんは喜んで引き受けてくれた。台所の片隅にあった木の棒を剣の代わりにして、僕はお兄さんに教えられながら毎日の素振りを始めた。疲れるけど、自分が強くなってくのは嬉しいし、何だか楽しくもあった。
ある日の夕食の後、僕は女に腕相撲を申し込んだ。おじさんやお兄さんが時々やってるのを真似してみた。手を組み合って目一杯力を込めて押した。女の腕がぐぐぐと傾いたけど、最後は力が続かなくなって僕が負けた。でも女はそんな僕に、力が強くなったわねって言った。鍛えてる成果が出たんだと思う。僕は確実に強くなってる。だからそれからも毎日素振りをして鍛えた。周りの人達はそれを応援してくれたり、他にも仕事の合間に読み書きを教えてくれたりもした。そんな時間が僕はすごく楽しかった。このまま、皆と働きながら過ごせたらどんなに幸せだろうと思った。だけど続かないことはわかってた。僕は女を殺さなきゃいけないし、女には行きたい場所がある。そのために仕事をしてたんだから、ずっとここにいることはできないんだ。絶対に、お別れしないといけないんだ……。
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