三話

 僕は歩きながら周りを見渡す。大きな木が立ち並ぶ道、少し冷たい風が通り抜けて行く。頭の上ではたくさんの葉が揺れてガサガサと音を鳴らしてる。それが青空を隠して周りはちょっとだけ薄暗い。こ、怖いわけじゃないけど、何か、心細いな……。


 っていうのも、僕は今日初めて家からこんなに遠くまで歩いて来た。今までは父ちゃんに、外は危ない場所だから、絶対に遠くへ行っちゃ駄目だって言われて、だから僕は庭より外側へ出たことが一度もなかった。こんな薄暗い景色も、石や枝が転がる道も、すべてが初めて見るものだ。でも危ないって聞いてるから、いつどこで危ないことが起こるのか気が抜けない。


 そんな僕の前にいる女は、何かを警戒することもなく、真っすぐ前を向いて歩いてる。僕が後ろにいるっていうのに、気にする感じもない。やっぱり僕を馬鹿にしてるとしか思えない。力のない子供に殺されるなんて思ってもないんだろう。くそ……今なら腰の短剣を奪えるかな――


「そう言えば、自己紹介してなかったわね」


 急に女が振り返って僕は足を止めた。……びっくりした。


「私の名前はシルヴィナよ。よろしくね」


「……聞いてないし」


 こいつの名前なんか憶える気もないし、どうでもいい。


「人としての礼儀よ。初めて会う人には名乗るものなの。名前を知らないと困ることもあるから」


「僕は困らないよ。絶対に」


「ふーん……そう」


 つまらなさそうな顔をして女はまた歩き出す。その後を追いながら僕は聞いた。


「……ねえ、どこ行くんだよ」


 家を離れてから、もう一時間ぐらいは歩いてるけど、周りの景色はずっと木だけで変わってない。同じ場所を歩き続けてるみたいだ。


「山を下りた、ずーっと先よ」


「ずーっとって、どこなんだよ」


「ここから遠い場所」


「遠いって、どのくらい」


「思ってるよりも、もっと遠くよ」


「わかんないよ!」


「今はわらなくていいわ」


 何の説明にもなってない……。


「……そこに行って、何するんだよ」


「………」


 女は答えない――な、何で黙るんだ。教えられないような場所なのか? まさか、僕に付いて来いなんて言ったのは、騙して何かするためとかじゃ……。


「ぼ、僕を、殺すのか? 母ちゃんと父ちゃんみたいに!」


 女は今にも笑いそうな顔で僕を見てきた。


「何でそういう考えになるの。そういうつもりならとっくにそうしてるわよ」


 そ、そうだな。確かに……。


「じゃあ、何するんだよ。言え」


 強く聞くと、女は腰に手を置いて言った。


「助けるためよ」


「助ける? 誰を」


「あなたに決まってるでしょ、ジュリオ」


「僕はジュリオなんて名前じゃない。ヘクターだ!」


「いいえ。あなたの名前はジュリオよ。だからジュリオって呼ぶ」


「ち、違うったら違う! 呼ぶな!」


「本名で呼んで何が違うのよ。慣れなさい」


 ぐっ……勝手な名前で呼びやがって。むかつくけど、もう一つのほうを聞かなきゃ――


「僕を助けるって……何なんだよ」


「あなたはまだ幼いし、何も知らない。だから――」


「母ちゃんと父ちゃん殺して、何が助けるだ! 僕は助けてほしいなんて言ってない! 誰にも言ったことない!」


「ジュリオ……」


「呼ぶな! お前が来るまで僕は幸せだったのに……お前が全部壊したんじゃないか!」


 たくさんうるさいことは言われてたけど、それでも母ちゃんと父ちゃんと一緒に遊んだり、ご飯を食べたりする時間は幸せだったんだ。あのままいられればよかったのに――


「見せかけの幸せなんていらないでしょ?」


「……見せかけ?」


「実際はないのに、そう見せてることよ」


「そ、そんなんじゃない! 母ちゃんも、父ちゃんも――」


「二人はいずれ、あなたを見捨ててお金を手に入れるつもりだったのよ」


「嘘なんか聞か――」


「そのために誘拐したの。お金のために……あなたを育てて、来るべき時のために」


 この女、またでたらめばっかり言って……僕が信じると思ってるのか。


「もう嘘はいい! 母ちゃんと父ちゃんを悪く言ったら――」


「学校へ行ったことはある?」


 いきなり知らないことを言われて、僕は少し言葉に詰まった。


「……ガ、ガッコウ? 何だよ、それ」


「学校は子供達が通う場所よ。そこで読み書きや計算、社会のことを学んで、生きていくための知識を身に付けるのよ。知らないの?」


「だったら何だよ。し、知らないのが悪いっていうのか?」


「じゃあ、街へ行ったことは?」


「街は、母ちゃんがよく行ってたけど、僕は連れてってもらったことはない……それが何だっていうんだよ」


「あなたは学校にも通わせてもらえず、外出もさせてもらえなかった。それが何よりの証拠よ」


「な、何がだ」


「二人は親でありながら、あなたに学びの機会を与えず、家に縛り付けてた。それとも、二人はあなたに読み書きぐらいは教えてたの?」


「ぼ、僕は……」


 文字っていうものは知ってる。それが読んだり書いたりするものだってことも。だけど前に父ちゃんに、僕も文字が読めるようになりたいって頼んだら、お前には必要ないって言われて、仕方なく諦めた。そんなことがあって、僕は文字を見ても、妙な形の線にしか見えない。


「生きていくために必要なことを教えず、人々や社会の様子さえ見せてこなかった……そこにあなたの将来を想う気持ちがあったと思う? 子供であれば読み書きを教えるのは当然のことよ。でも二人はこんな山奥の森でひっそりと生活してた。あなたを他人の目から隠すようにね」


 女はじっと僕を見つめてくる。


「ジュリオ、あなたは幸せだと思い込まされていただけ。比べるものがないから、何も学べなくても、家から出られなくても、この生活こそが幸せだと、思うしかなかったのよ」


「それが、見せかけだっていうのか……?」


「そうよ。あなたは物じゃないわ。人間なの。自分の意思で行動して、知りたいことを知り、見たいものを見ることができる。誰かに縛られずに、自由に生きることが、本当の幸せへの入り口になるのよ」


 女は優しそうな笑顔で言ってくる。でも僕の頭には血を流した母ちゃん、父ちゃんの顔が思い浮かんだ――何を言われたって、こいつは人殺しでしかないんだ。こんなやつに何を助けてもらうっていうんだ。僕が幸せだったのは本当なんだ。それが見せかけだなんて、人殺しに決められたくない……!


「……騙されるもんか。助けるとか言って、本当はひどいことするんだろ!」


「またそれなの? 私はあなたを傷付けたりしない」


「嘘だ! 絶対何かする気だ。でもその前に僕がお前を殺してやるからな!」


 睨み付けると、女は大きな溜息を吐いた。


「まったく……どうして素直に聞いてくれないのよ。そんなに私を殺したいの?」


「当たり前だ! 殺したって許さない!」


 母ちゃん達の苦しみを、お前にも感じさせてやるんだ!


 何か考えるような素振りをしてから、女はマントの下の短剣を抜いた。や、やっぱり僕を殺すのか……と思ったら、女はその短剣を地面に放り投げてしまった。何を、してるんだ……?


「じゃあ、それを取って、殺してみなさい」


「え……?」


 僕は女と短剣を交互に見やった。こいつ、何考えてるんだ。


「それがあなたの今の目的なんでしょ? その絶好の機会をあげるわ」


「ほ、本当に、殺すぞ」


「ええ。どうぞ」


 女はこっちを見下ろしてくる。何だか怪しい感じだ。こんなこと言って僕を襲ってこないだろうな――女の視線に注意しながら僕はゆっくり歩み寄って、地面に落ちた短剣に手を伸ばした。その瞬間だった。急に女は上から短剣を踏み付けて、僕に取らせるのを邪魔してきた。


「わっ……何を……!」


 見上げると、女は腕を組んで僕を見てた。


「ただし、この場で私を殺せなかったら、私の言うことを聞いてもらうわよ」


「い、嫌だよ! 何でお前なんかの言うことを――」


「嫌ならこの短剣は渡せないわね」


「ずるいぞ! お前が殺してみろって言ったんじゃないか!」


「無条件で武器と機会を与えると思ったの? そんなわけないじゃない。こっちは殺されたら終わりなんだから。条件ぐらい付けさせてもらうわよ」


「嘘つき! やっぱりお前は嘘つきだ!」


 人殺しなんかちょっとでも信じるんじゃなかった。悪いやつだってわかってたのに。


「落ち着いて。よく考えなさい。条件は私を殺せなかった場合よ。つまり、私を殺せば言うことを聞く必要はないってこと。……もしかして、その自信がないから文句を言ってるの?」


 怪しむ目がじっと見てきて、僕はすぐに言い返した。


「お、お前なんか、すぐに殺せるし、殺してやる!」


 そう言うと女は笑顔になって言った。


「自信はあるのね。それなら、条件があろうとなかろうと関係ないでしょ。あなたは絶対、私に勝つんだから。違う?」


 僕は思わず考えた。こんなやつに負ける気なんてない。素手の時は押さえられたりしたけど、ちゃんとした武器があるなら反撃もできるんだ。僕は勝てる……確かに、条件なんか関係ないのかもしれない。だって武器さえあれば僕のほうが強くなるんだから。


「……わかった。もし殺せなかったら、言うこと、聞くよ」


「ありがとう。約束よ? 嘘つきにならないでね」


 笑った女は短剣から足をどけると、後ろへ数歩下がった。


「じゃあ、どうぞ」


 短剣を取れと手で示されて、僕はすぐに拾い上げた。父ちゃんのシャベルほどじゃないけど、この短剣も思ったより重い。でも振り回せないことはない。真っ赤な血は拭き取ったのか、暗い銀色の刃はかすかに光を反射させてきらきら光ってる――これを、女の身体に突き刺してやる!


「うりゃああああ!」


 構えた短剣で僕は切りかかった。シュッと音を鳴らして振り下ろす。でもそこに女はもういなかった。


「逃げるな!」


 離れた女に僕は向かう。


「逃げてないわ。避けただけよ」


「うるさい!」


 今度は短剣を突き出す。女の腹目がけて――でもまたしても女はいなかった。


「くっ、くそ!」


 こいつ、逃げ足が速すぎる。


「やっぱり子供にそれは扱いづらいみたいね」


「そんなこと、ない!」


 なぜか心配そうな顔で見てくる女に、僕はもう一度短剣を振り下ろす。が、刃は固い地面を切り付けるだけだった。その衝撃が伝わった手に軽いしびれを感じた。


「……今の、痛かったんじゃない? 大丈夫?」


「う、うるさいってば! 黙れ!」


 何で上手くいかないんだよ。僕のが強いはずなのに。はあ、ちょっと手が疲れてきた……でも休んだら捕まって武器も奪われる。それだけは絶対にさせない。攻撃を続けなきゃ……!


「体力持ちそう? 恥ずかしいことじゃないから、降参したって――」


「絶対に、殺してやる!」


 僕は走りながら、女に向かって短剣を横薙ぎにした。マントから出た腕に当たる、かと思ったら、そこをかすめて短剣は僕の手からすっぽ抜けて草むらの中へ飛んで行ってしまった。


「はっ……!」


 僕は女の顔をうかがう。女も驚いたようで、草むらに消えた短剣のほうを見てた。や、やばい。武器が奪われる! 先に取らないと――すぐに走って向かおうとした時だった。


「おっと、捕まえた」


 後ろから女が僕の襟をつかんできた。


「う、放せ! 放せよ!」


 つかんでる手を引き離そうとしたけど、女は僕の足を払うと、地面にうつ伏せに押さえ付けた。


「こうなったらもう抵抗はできない……あなたの負けよ」


「まだっ、負けてなんか……」


 女は僕の首筋を手で切り付けるように、トンと触れた。


「私がその気になれば、この瞬間にあなたは死んでる。素直に負けを認めなさい」


「嫌だ! 僕はお前を殺すんだ!」


 叫んだ僕の頭を、女は無理矢理横に向けてのぞき込んできた。


「さっきの約束を破るつもり? 人のことを嘘つき呼ばわりしておいて、自分は嘘をついてもいいっていうの? 呆れた態度ね」


 冷たい目が僕を見つめてくる――うう、嫌なやつめ……。


「嘘なんか、ついてない……」


「じゃあ負けを認めるのね?」


「………」


 すごく、悔しい……!


「これからはあなたのこと、嘘つきって呼ばせて――」


「負けでいい! 僕の、負けだ……」


 女は笑うと、押さえてた手を離して僕を立たせた。


「さっき言った通り、あなたには言うことを聞いてもらうわよ」


「……言うことって、何だよ」


 きっとひどいことだ。人殺しが言ってくることなんて普通じゃないはずだ。怖かったり、苦しかったり――


「まずは、読み書きから覚えなさい」


「……読み書き?」


 予想になかったことを言われて、僕は女の顔を見つめた。


「ええ。文字を読んだり書いたりできるようにするのよ。……何? また嫌だとか言う気?」


「だって、そんなこと僕のためにしか――」


「私はあなたを助けに来たって言ったでしょ。意地悪しに来たんじゃない」


 さっきそう言ってたけど、こいつは母ちゃんと父ちゃんを殺した悪いやつでもあるはずで、それが何で僕がしたかったことをやらせるんだ? ……思えば、この女って誰なんだ? 一体どこから来て、僕とどんな関係があるんだ?


「……誰なんだよ、お前は。何で僕を助けるとか言うんだよ」


「それは……」


 考える顔でしばらくうつむいた女は、また僕を見ると言った。


「あなたには、本当の両親がいるの。私はその、両親に頼まれて、助けに来たのよ」


「僕が、誘拐されたから?」


「そういうこと」


「じゃあその本当の両親ってどこにいるんだよ。僕に会わせてよ」


「いずれ会えるわ。だから遠い場所に向かってるの。あなたが普通に暮らせるようにね……そのために、まずは読み書きを覚えないと。文字を読めれば、たくさんの知識を得られるわ」


「でも、覚えろったって、どうやって覚えたら……」


「大丈夫。私が教えてあげるから」


 こ、こいつから、教われっていうのか?


「お前なんかに教わりたくない!」


「そう思うのもわかるけど、じゃあどうやって覚えるの? 手本もないのに一人で覚えられるとは思えないけど」


「う……」


 一人じゃ絶対無理だろう。でも人殺しに教わるなんて……。


「我慢は最初だけよ。わからないことだけ私が教える。その後は自分で覚えて練習すればいい。それでいいでしょ?」


 嫌だけど、覚えるにはそうするしかなくて、僕は仕方なく頷くしかなかった。


「決まりね。それじゃあ行きましょ。もたもたしてると夜になっちゃうわ」


 女は僕に笑いかけると、短剣を拾ってまた歩き始めた。こいつは母ちゃんと父ちゃんを殺した人殺しで、悪いやつで、嫌なやつなのに、笑った顔はすごく優しい。読み書きを教えて、僕を助けるとか言ってるし、よくわかんないやつだ。この女を僕はどう思えばいいんだろう――感情がごちゃごちゃしてるのを感じながら、女の後に付いて僕は歩くしかなかった。

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