エピローグ  失われた影





 3月の下旬だった。

 三寒四温の言葉通り、ここ数日、気温の上がり下がりが激しい。今日は比較的気温が高く、午後の日差しは眩しいほどだった。

 沢渡は電車に乗っていた。前日まで身を潜めていたネットカフェを出た彼は、15分ほど歩いたところにある人目のつかない場所へ行くと、たまたまそのネカフェにいた客の男性の影型を使って影合わせをおこなった。その男になりすました沢渡はそこから最寄りの私鉄の電車に乗り、自宅のマンションの近くの駅で降りた。それから彼は約5ヶ月ぶりに帰宅することになるマンションへと徒歩で向かった。

 ネカフェで寝泊まりしていた時、沢渡はくたびれたスーツを着た初老のサラリーマンになりすましていた。そのあと影合わせによって顔貌と肉体をネカフェの客のものに変えたが、服装までは変えられない。その客はアフロヘアで顎髭が豊かな30代の男だったため、身に着けているものとの間に若干のギャップがあった。

 マンションは警察関係者によって監視されているにちがいない。沢渡和史の姿ではないものの、傍から見て違和感のある姿で近寄るのは危険だった。だが影合わせを繰り返したり衣服を手に入れて着替えたりするのが面倒だったので、沢渡はそのままの姿でいることにした。

 5ヶ月ぶり歩く見慣れた街並みが嬉しかった。暖かくて丸みを帯びた風が頬を転がっていく。自宅のマンションが近づくにつれ、沢渡は胸の高鳴りが激しくなるのを感じた。





 マンションの近くに警察車両らしきものは見かけなかった。マンションの前は片側一車線の国道に面している。長時間の駐車は無理であり、また目立ってしまう。

 警察の捜査員たちは、おそらくマンションの裏手にある住人用の駐車場に車を停めて張り込んでいるのだろう。

 沢渡は裏手に回ってみた。以前は見たこともなかった灰色のワゴン車が停まっている。自分が留守にしていた5ヶ月の間に新しい入居者が来て車を置いているとも考えられるが、たぶん警察車両だろう。運転席に目付きの鋭い中年男が二人居た。

 沢渡は大胆にもその車に近寄り、助手席側のドアをノックした。白髪頭の40代ぐらいの男と胸板の厚い格闘家風の男が乗っており、助手席側にいる格闘家風の男がパワーウインドウを下ろして顔を出した。

「何か?」

 そう言いながら男は着ていた茶色いレザージャケットの内側に何食わぬ顔で右手を滑り込ませた。白髪頭の方もハンドルから手を離してこちらを見る。

「沢渡志穂子さんに会わせてもらえませんか」

 沢渡の問いかけに男は無言で目を細めた。運転席にいた白髪頭が素早くスライドドアを開けて降りて来ると、沢渡の背後に回り込んだ。

 格闘家風の方もドアを開けるとゆっくりと降車し、ジャケットの内側から手を出した。手には何も握られていなかったが、ジャケットの手を入れていたあたりに不自然な膨らみが見て取れる。

 男が降りてくるのに合わせて沢渡は二、三歩うしろへさがった。何気なく後ろを振り返った沢渡はすぐそばに白髪頭がいることに気づいた。意外に背の高い男で、身長は180センチ以上ある。

「沢渡和史さんのお知り合いですか?」

 格闘家風は露骨な警戒心を顔に滲ませながら言った。目の前にいるアフロヘアの男が沢渡の仲間のテロリストだと疑っているようだった。

 回りくどい方法を沢渡は好まなかった。ヤモリの形に変わった彼の影は舌を伸ばして二人の男の影を掴んだ。傀儡で二人の体をと同時に彼らの脳内の血流を制御し、一時的な失神状態を引き起こした。

 初めての体験だったので、うまくやれたどうかわからない。もしかすると彼らの体に何らかの後遺症が残るかもしれないと心配になったが、今さら後悔しても仕方ないことだった。沢渡は意識を失った彼らを傀儡を使って地面にそっと横たえた。

 寝転がった二人の男の服のポケットをまさぐると警察手帳や手錠が入っていた。格闘家風の方はホルスターに収められた拳銃も所持している。そうやって沢渡が彼らの持ち物を調べていると、ワゴン車後部のスライドドアを開けて特殊警棒を持った機動隊員が三名現れた。後部座席で待機していたが、異変を察して降りて来たらしい。

 沢渡は自分を取り押さえようとした機動隊員たちも同じように。これで終わりだと沢渡は思っていたが、道路を隔てた向こう側の歩道を刑事らしき男が二人、こちらに向かって走って来る。どこか離れた位置から監視していて異変に気づいたか、もしくはワゴン車の後部にいた機動隊員から連絡を受けていたのだろう。二人は途中で立ち止まると道路を走る車の流れが途切れるのを待ってこちらに渡ってきた。

「警察だ!」

「そこで何をしている!」

 沢渡が白髪頭の男のポケットから鍵の束を見つけ出した時、二人の男の声と足音が間近で聞こえた。振り返った沢渡は即座に彼らを失神させると、見つけ出した鍵束を調べてみた。

 鍵束の中に見慣れた形の鍵があった。沢渡の自宅マンションの鍵だった。警察はマンションの管理人に頼んで合鍵を手に入れたのだろう。鍵は玄関のオートロックの鍵と沢渡の部屋の鍵と共通になっている。これで玄関も自分の部屋も開けることが可能だった。

 




 鍵を使い、沢渡はマンションの中に入った。

 エレベーターは最上階で停まっていたので階段を使って3階まで上がることにした。階段の方へ向かうと、その横にある管理人室から拳銃を持った若い男が飛び出してきて「止まれ!」と声をかけてきた。

 男の足元の影に沢渡の足元に這っているヤモリの影が食い付き、脳内の血液を制御された男は失神した。沢渡がそのまま3階に上がると、沢渡の部屋のドアの前で臙脂色のスーツを着た30代ぐらいの女が立っており、張り詰めた表情でスマホに何か話しかけている。

 仲間の刑事と連絡が取れなくなったことに狼狽しているようだったが、沢渡の姿に気づくと「止まりなさい!」と言いながら腰に差していた特殊警棒を抜いた。

 その女を管理人室にいた刑事と同様に眠らせると、沢渡は持っていた鍵で自宅のドアを開けた。

 玄関で靴を脱いだ。シューズボックスを開けてみると、志穂子がいつも履いているパンプスが入っていた。彼女は帰って来ているのだ。電子掲示板に書かれていたことは本当だったらしい。

 沢渡は影型を元に戻した。56歳の沢渡和史という本来の姿に戻った。志穂子が自分を見た時、すぐわかるようにするためだった。

 家の奥へ向かった。5ヶ月ぶりに戻って来た我が家だった。その感慨は志穂子の姿を見たいという思いで塗りつぶされた。

 いつも食事をしていた六畳のダイニングキッチンが見えた。窓は開け放されていて、晴れ渡った午後の空が見えた。

 なぜかその空に見とれて沢渡は立ち尽くした。背後から声が聞こえた。

「外が騒がしいようですけど、何かあったんですか?」

 志穂子の声だった。沢渡は振り返った。

 志穂子はパーカーのような上着とゆったりとしたズボンを身にまとっていた。上下一揃いの部屋着らしく、両方とも同じ色調の灰色だった。

「志穂子、僕だ」

 何のためらいもなく沢渡はほほえみながらそう言った。以前、この家で暮らしていたときのいつもどおりの日常が戻って来たと思った。

 志穂子は沢渡の顔から視線を壁の掛け時計の方に向けた。時刻は2時半を示している。それからキッチンの方へ向かいながら志穂子は言った。

「ちょっと早いんですけど、お茶にします?」

「すまなかった。いろいろと怖い思いをしただろう」

「ええ。でも助かったときはホッとしました。やっぱり日本の警察は優秀なんだなって」

 志穂子は笛吹ケトルに水を入れるとガスレンジの火で温め始めた。それから沢渡に向かってお辞儀をした。

「あのときは本当にありがとうございました」

 何か変だった。どこかちぐはぐだった。志穂子は驚き、怖がっているような素振りは少しも見せない。目の前にいるのが自分の夫だから当たり前なのかもしれないが、それがかえって不自然だった。

「ところでさっきも訊いたんですけど、外で何かあったんですか?」

 微かな違和感が立ち込め始め、沢渡は胸騒ぎを覚えた。志穂子の表情には自分が三行半を突きつけた夫への透明なトゲのようなものは少しも感じられなかった。わざとよそよそしい態度をとっていると言うよりも、赤の他人の前でごく自然にふるまっているという感じだった。

「どうしたんだ、志穂子.....怒ってるのか?」

 すがりつくような声が沢渡の口から漏れた。その声を聞いて志穂子は心底ふしぎそうな顔をした。

「え?」

「僕が夫として至らなかったことは認める。君に嫌な思いをさせ、つらい目にあわせたことがこれまでいくつもあったと思う。なんでもいい。頼むから今ここで、それを全部ぶちまけてくれ」

 腰から下の力が抜け、今にもしゃがみ込みそうだったが、沢渡は必死に耐えながらまくし立てた。しかし、とどめを刺すように志穂子は言った。

「何度も言いましたけど、わたしに夫はいません。ずっとひとりなんですよ、刑事さん」

 けげんそうな顔をしながら志穂子は食器棚からコーヒーカップをいくつも取り出した。張り込んでいる刑事たちにコーヒーを振る舞うつもりなのだろう。その様子を見て志穂子に『消し染め』が使われていることを沢渡は確信した。

 石黒綾美の勝ち誇る笑い声が聞こえたような気がした。『消し染め』が使われた影を元に戻すことはできない。志穂子の中で沢渡和史という存在は永遠に消え去ってしまったのである。

 沢渡は自分が志穂子の中で石黒綾美によって殺されたのだと知った。

「いつもどおり皆さんのコーヒーはブラックでいいですか?」

 志穂子の声が聞こえた。その声は開け放した窓の向こうの空へ舞い上がっていった。






(了)

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逃影者 木田里准斎 @sunset-amusement

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