第32話  最期の影





 翌日の朝、沢渡が都心にある私鉄のターミナル駅に着いたのは午前10時過ぎだった。

 その駅は関西の私鉄の中では最も乗降者数の多い駅だった。駅の周辺は近畿有数のオフィス街や繁華街が広がる「梅座」という界隈で、その地名がそのまま駅名となっている。

 普段は平日の朝の10時といえども、かなりの利用客で賑わう駅だった。しかしその日は利用客の数はまばらで、運行している電車もごく一部に限られていた。駅のプラットホームや改札にはところどころ制服警官や迷彩服を着た自衛隊員の姿が見える。

 一ヶ月ほど前に梅座で起きた一連の高層ビル倒壊事故のせいだった。

 梅座の惨状はテレビやラジオ、ウエブメディアやSNSなどを通じて世界中に発信されていた。大手メディアの報道では死傷者の数は七千人近くに及び、経済的損失は数十兆円にのぼると報道されたが、これは現時点で明らかになっている情報にもとづいたものだった。死傷者数や損失額はさらなる情報が集まることによってまだまだ増える可能性があった。

 梅座で何が起きたのか、あの災害の原因は何なのか、学者や専門家の誰一人として明確な根拠のある説明ができる者はいなかった。気象庁は梅座において大規模な地震が起きたことを示すような観測データは記録されていないという声明を発表し、近隣住民も地震のような揺れはまったく感じなかったと証言していた。

 しかしウエブメディアやSNSでは都市伝説まがいの流言蜚語が飛び交い、梅座の災害は皆戸区で起きた警察署庁舎崩壊事故とつながりのあるものだとみなされ、同じようなことがこれからも連続して起きるはずだと不安を煽る言説がまかり通った。そして皆戸区の警察署庁舎崩壊事故も梅座のビル連続倒壊事故も、その原因が判明しない不可思議な事故であることから、いつしかネットでは『謎災害』と呼ばれるようになった。

 その『謎災害』からすでに一ヶ月あまりが過ぎていた。

 災害が起きた当初は梅座とその周辺は厳重な立ち入り禁止区域となり、自衛隊による被災者救助活動が連日連夜おこなわれていたが、ここへきてその救助活動もようやく山場を越え、壊れたビルや商業施設などの復旧工事が始まろうとしていた。

 また、師走を迎えてからの年末商戦への影響を懸念した各種経済団体から、梅座において安全が確保されている場所への一般人の立ち入りを求める声が上がっていた。『謎災害』の影響をひきずって経済を停滞させることがあってはならないという「商都大阪」の声だった。そのため立入禁止の措置は12月10日をもって大幅に解除されることとなった。

 その一方で関係各省庁は新たな倒壊事故の発生を警戒し、災害対策と同時にテロの可能性も視野に入れた活動をおこなっていた。

 『謎災害』はテロだったのではないかと疑わせるような多数の目撃証言が、被災者たちの間から出ていたのである。黒い巨大な爆煙のようなものを見たとか、複数の警官が惨殺されるところを見たとかいったもので、どれも断片的で一貫性がなく、現実離れした不条理なものではあったが、いずれも人為的なテロを連想させるような内容だった。

 テロだと断定するには決め手にかける目撃情報ではあったものの、災害の原因が判明しない限り、その対策を打っておく必要がある。梅座駅を中心とした一帯に警官や自衛隊員が配置されているのは、災害復旧活動と治安維持活動を並行しておこなうためだった。





 沢渡は改札口に向かった。

 そばに自衛隊員と世間話をする駅員がいる。何やら会話に興奮している饒舌な駅員に対し、自衛隊員の方は言葉少なに応答していた。改札の機械に切符を通したとき2人ともこちらを見たが、話をしながら沢渡を一瞥しただけだった。

 そこにいた自衛隊員は銃器の類を所持していなかった。梅座駅では所持していないようだが、梅座界隈の主要な高層ビルには自動小銃を装備した自衛隊員が警戒にあたっているとのことだった。

 改札を出た沢渡は北西の方角に向かって歩き始めた。途中、何度か警官や自衛隊員に会ったが彼らの影を覗いた沢渡は、自分が皆戸区警察署の庁舎崩壊はもちろん梅座一帯で起きた高層ビル倒壊というの容疑者とみなされていることを知った。

 もっとも、依然として彼の実名は公にはされていないらしい。沢渡和史の名前は警察や自衛隊の間でのみ共有されている情報でマスメディアには伝えられてはいない。警察は沢渡和史を容疑者と断定したものの、警察署の庁舎崩壊や高層ビルの連続倒壊事故に一介の金属加工業者が関わっているという見立てには慎重になっていた。沢渡にそのような大それたことをしでかす思想的背景やその手の集団や人物との接点が見当たらなかったのである。

 そのため、未だに沢渡の扱いは重要参考人に近いような中途半端な状態のままだとのことだった。

 いずれにせよ、彼に注意を払う者はいなかった。沢渡は「楠川由美香」という若い女性の肉体を得て生まれ変わった。その女が以前は頭髪が薄くなった貧相な中年男だったということなど想像もつかないだろう。

 大災害のあとだったが私鉄の梅座駅の北側はまったく被害を被っていないこともあり、人や車の行き来が比較的多かった。近くには大手家電量販店のビルや3年前にオープンした複合商業施設があり、そこを訪れる客の姿が散見された。

 沢渡はそれらから少し離れた位置にある超高層ビルの方へ向かっていた。大手不動産会社や医薬品メーカー、映画館に外国の領事館と、さまざまなテナントが入居している45階建ての超高層ビルである。

 そのビルは巨大な門の形をした建造物だった。左右に建つ2棟の高層ビルの最上部が橋桁のような建造物で繋がっており、その部分の真ん中に円形の展望台がある。展望台は周囲の景色を見渡すことができるのはもちろんだが、その中央部には緑豊かな公園が設置されており、そこからその展望台は通称「空中公園」と呼ばれていた。

 その超高層ビルの1階玄関から中に入った沢渡はエレベーターを使って展望台のひとつ下の階まで上がった。そこで展望台への入場券を購入して、展望台へ繋がるシースルーのエスカレーターに乗り込む。

 展望台は平日だということもあり、観覧客の姿はまばらだった。室内は空調が効いて暖かい。展望台は屋上にも上がれるようになっていて、そこでは報道関係者がテレビカメラクルーに梅座の街を撮影させている。梅座の復旧活動の進捗度合いを俯瞰映像とともに報道するためだった。

 屋上への出入り口付近には警戒中の自衛隊員が2人いた。一人は丸腰だったが、もう一人は自動小銃を携えている。

 石黒綾美は展望台のベンチに腰掛け、強化ガラスの窓から外の景色を見物しながら沢渡を待っていた。

 彼女は箕雄市の「シャンブロウ」で会ったときと同じ灰色のカーディガンと黒い丸首セーターにジーンズ地のキュロットスカートという出で立ちだった。沢渡の方は青いシャツブラウスの上にカーキ色のレザージャケットというスタイルだった。スカートを穿こうかと思ったが、慣れないことはやめようと思い直し、黒のスラックスにした。

 あらかじめ電話で自分の容姿や身なりを目印として伝えておいたので、沢渡の姿を目にすると石黒綾美は艶やかに笑いながら言った。

「あら、ずいぶんとお綺麗なお嬢さんね」

 沢渡は石黒綾美の前で立ち止まると黙って彼女を見下ろした。

 女性の言葉遣いにするかそれとも今まで通り沢渡和史として喋るか迷ったが、周囲の目もあるので新しい『影添』に似合った喋り方をすることにした。

「楠川由美香よ。どうぞよろしく」

 沢渡は若い女性の透き通った声でそう言うと、石黒綾美の横に腰を下ろした。女性の体になってしまったので股間が妙に落ち着かない。楠川由美香はそれほど胸が豊かな方ではなかったのでその点、あまり違和感がなかったが、股間の妙な感じだけは慣れるのにかなりの時間がかかりそうだった。

「かわいいわね。なんだか抱いてみたくなったわ」

 石黒綾美が沢渡の頬に手を当てると、ゆっくり愛撫した。傍を通る老夫婦が慌てて2人から目をそらした。





「見れば見るほど本当に可愛い女の子ねぇ」

 ひとしきり沢渡を愛撫した石黒綾美は、頬から手を離すと微笑みながら問いかけた。

「で、どうなの? 新しい影添のは?」

「まぁまぁだわ。思ったよりも快適ね」

 沢渡は慣れない女性語を使って答えた。

「ここへ来る途中、警官や自衛隊員があちこちにいたでしょう? 警察と自衛隊はあなたのことを梅座で大暴れしたテロリストとして追ってるみたいだわ。でもその顔じゃ誰もあなたがの沢渡和史だなんて思わないわよね。でも、なんでまたわざわざ『添変え』なんかしちゃったのよ? 『影合わせ』を使えば他人になりすますことなんて簡単でしょ?」

「ちょっといろいろあってね」

「何よ、『いろいろ』だなんて勿体つけちゃって」

 石黒綾美は笑みを浮かべながら沢渡を軽く睨むと声をひそめて言った。

「わたしも梅座でけっこう派手にやらかしちゃったんで、ここへ来るまでのあいだ顔を変えていたわ。若い女の子の影型を借りたの。その子には車も貸してもらったわ。わたしがいつも乗ってる車と同じ車種だったから」

「その女の子ってあなたの知り合いなの?」

「ううん」

 石黒綾美は首を振った。

「影型と車を借りただけよ」

 石黒綾美は冷たい薄笑いを顔に浮かべた。

「あなたもけっこうな有名人になっちゃったわよね。『黙示録の魔女』だなんて、仰々しい名前を付けられて」

 沢渡は口に手を当てて笑った。上品な若い女の子がよくやる仕草だった。

「警察に通報しちゃおうかしら。『おまわりさん、この人です。あの大災害を引き起こした張本人は』ってね」

 沢渡の挑発するような物言いなど石黒綾美は意に介さなかった。

「無駄よ。警察も自衛隊も完全に都市伝説扱いしてるわ。混乱やパニックが広がるのを恐れてるのかもしれないわね。でもあの大災害がテロだという見立てには本気を出してるみたいよ」

 石黒綾美は鼻で笑いながら沢渡の言葉にやんわりと反撃すると、ベンチから立ち上がった。

「無駄話はこれくらいにして、わたしといっしょに川石市の家まで来て頂戴。今からさっそく影合わせをやってもらうわよ」

 自宅にある楕円形の地下広間でガーレンの影合わせを沢渡にさせるつもりなのだ。

「その前に志穂子に会わせてくれ。志穂子は無事なんだろう?」

 沢渡の口調がガラリと変わった。楠川由美香ではなく沢渡和史の言葉使いだった。

「会えるかどうかはあなたの心がけ次第よ。下の駐車場にあたしの車が置いてあるから、それに乗って頂戴。運転はわたしがするわ」

 沢渡は先に立って歩き始めた石黒綾美のあとを追おうとはせず、その場に立ち止まっていた。

 不意に、彼の影がヤモリの輪郭を結んだ。

 ヤモリは舌を伸ばすと石黒綾美の影に触れた。影の表層からは彼女の真意を探ることは出来なかった。沢渡は『黒増し』を使って石黒綾美の影の深奥、闇黒部分を覗こうとした。志穂子が無事かどうか確認するためだった。

 だが、石黒綾美の闇黒部分は強い力によって沢渡の影の挿入を阻んでいる。


―― 何か隠してるだろう。志穂子は本当に無事なのか? ――


 沢渡は影を通して石黒綾美に問いかけた。


―― わたしは無事だなんて一言も言ってないわよ ――


 石黒綾美はゆっくりと振り返った。沢渡の影の表層で石黒綾美の笑い声が聞こえた。


―― だましたな ――


 石黒綾美への怒りと志穂子を喪ったという恐怖が同時に込み上げてきた。その二つの感情は必然的に一つの意志に収束した。それは志穂子の身に何かあったときに備えて沢渡がひそかに決心していたものに合流した。

 殺意だ。


―― そっちが勝手に無事だと思い込んだだけよ。あなたってどうしてこんなに早とちりなの? ほんと、おバカさんね ――


―― 殺してやる! ――


―― やれるものならやってみなさいよ ――


 石黒綾美の影は蜘蛛の形に姿を変えると沢渡の影を強引に押し戻した。そして彼の影の輪郭を瞬時に自分の影で包むと、回帰していた彼の影をむりやり回帰前の輪郭に戻した。


―― 言っとくけど、あれからまた川石市のダムへ行って何回か『採掘』をやったわ。今、わたしの影にはあのときの数倍、いいえ、数十倍の『影炎』が蓄えてあるのよ。影の分身化を使って逃げようなんて無駄なことはおやめなさい。今のあなたは回帰することさえ不可能だから ――


 石黒綾美は沢渡を睨みつけながら威圧すると、今度は諭すように言った。


 ――でも、わたしが『採掘』をしたのはそんなことのためじゃない。きっとあなたはわたしのところに戻って来てくれる。そして影合わせをしてくれる――わたしはその時に備えて『採掘』をしてたのよ。だから昨日あなたが電話をしてきたときはすごく嬉しかった ――


 そんな柔らかい言葉とは裏腹に石黒綾美は沢渡の影を操り、彼の全身を内側に向かって縮むように圧力を加えた。石黒綾美の家から逃げ出そうとして囚われ、ベッドの上で目を覚ました沢渡を脅しつけたときのように彼の体を痛めつけて屈服させるつもりだった。

 その影が突然、物理的な感触を伴った衝撃を受けた。

 押し戻すというレベルではなかった。ものすごい力で石黒綾美の影を跳ね返しながら沢渡の影は再び回帰して石黒綾美の影に襲いかかった。ヤモリの舌と尾が石黒綾美の蜘蛛に巻き付き、彼女の影の輪郭を囲うと、石黒綾美がやったように回帰を強制的に終了させようとする。


 ―― あら、あなたもどこかで採掘をしてきたようね ――


 沢渡の思わぬ反撃に面食らったものの、石黒綾美の余裕が翳ることはなかった。自分が蓄えている『影炎』と沢渡の蓄えている『影炎』には量も規模も圧倒的な差がある。またこの前と同じことの繰り返しになるだけだ。

 しかし今度は勝手が違うようだった。信じられないほどの強大な力で沢渡の影は石黒綾美の影を抑え込もうとしていた。





 自分の影の輪郭が回帰前の状態に戻ろうとしている。うろたえながらも石黒綾美は沢渡の攻撃に対して抗ったが、とても余裕のある状態ではなかった。影炎を限界まで活性化しなければ、回帰状態が無効化されてしまいそうだ。

 これだけの力を有しているのなら影の分身化を使ってこの場から逃げ出すことも可能だろう。だが沢渡は逃げようとしなかった。石黒綾美が持ち合わせている影炎に引けを取らないほどの量と規模をはらんだ影炎を使って石黒綾美の回帰を終了させようとしている。

 石黒綾美が何発も銃弾を浴びながらも蘇生したのは、影が回帰状態にあったからだった。影を非回帰の状態へ強制的に戻され、そのまま何らかの形で致命傷を受ければ、いかに回帰者といえども生き返ることはできない。「殺してやる」というさっきの沢渡の言葉が現実味を帯びた。

 沢渡が本気だと察した石黒綾美は恐怖を覚えた。だが恐怖とともに彼女は梅座で沢渡を捕らえようとしたときに生じた螺旋状のうねりが心の中に湧き出し、自分の影の表層を埋め尽くすのを感じた。

 この男はどうしても志穂子のことが忘れられないのだ。志穂子が生きていれば重い枷となり、死んでしまえば鋭い刃となる。なぜそこまであの女にこだわるのか。

 沢渡と志穂子に対する嫉妬は殺意に変わった。


 ―― こっちこそおまえを殺してやる! ――


 石黒綾美は猛然と反撃に出た。回帰して影炎を最大限まで活性化し、沢渡の影に攻撃を仕掛けた。彼の回帰を無効化し、採掘を使って影炎を奪い取る。そして傀儡で沢渡の体を捻り潰すのだ。影の表層を埋め尽くした螺旋状のうねりが強烈な痛みとなって石黒綾美の意志を鼓舞した。

 しかしどうしたことか、石黒綾美の頑強な意志も虚しく、反撃には及ばない。回帰状態を維持するので精一杯だった。しかも沢渡の影炎はいっこうに衰えを見せなかった。無限にエネルギーが湧き出ているかのように、石黒綾美の攻撃を跳ね返し、なおも攻撃を加えてくる。

 焦った彼女は、影の中に生じた螺旋状のうねりを自ら焚き付け、梅座を壊滅させた巨大な黒蜘蛛を現出させようとした。もしそうすれば沢渡はもちろん、自分自身も今ここにいる高層ビルの崩壊に巻き込まれてしまう。しかし状況の変化には役立つだろうし、起死回生の一手につながるかもしれない。

 だがそれも徒労に終わった。沢渡の影炎はそれさえも抑えつけ、黒い大蜘蛛の現出を阻むほど膨大で無尽蔵なものだった。


―― 悪あがきはやめろ ――


 沢渡は憎悪に狂った嘲笑を発した。


―― 何をしたの!? どこでどうやってこんなに大きなエネルギーを採掘したの? ――


―― 楠川由美香は電力会社の社員だ。それも原発を稼働させるような大手の電力会社に勤めている社員だよ ――


 勝ち誇った沢渡の声が石黒綾美の影の中で鳴り響いていた。


―― 原発に近づくのは一般の人間よりもたやすい。もちろん電力会社の人間だからといって安々と原発施設に立ち入ることはできない。だが僕やおまえのような回帰者なら可能だ ――


 石黒綾美は絶句した。楠川由美香という影添を得た沢渡は大手電力会社の社員という身分を利用して原子力発電所に近づき、その建屋もしくは原子炉そのものの影から核エネルギーを『採掘』したのだ。沢渡がどうやって原発に近づいたのかはわからないが、恐らく『傀儡』と『消し染め』を使って原発の職員や警備員を操ったのだろう。


―― おまえのように邪悪な女は生かしておくわけにはいかない ――


 ヤモリの舌と尾で緊縛された蜘蛛は、とうとう耐えきれなくなってその輪郭を崩し始めた。崩れた輪郭はやがてなんでもない一人の中年女性の影に変わった。


―― あの世で志穂子に僕の分も含めて詫びておいてくれ ――


―― 待って!  わたしの話を聞いて! ――


 石黒綾美の声を無視し、沢渡は怒りに任せて彼女の息の根を止めた。





 楠川由美香の姿をした沢渡が警察の事情聴取から解放されたのは日付が変わってからだった。

 梅座の北側にある「梅座スカイゲート」という高層ビルの展望台――通称「空中公園」で石黒綾美という中年女性が急性心不全で亡くなった。展望台で警戒中だった自衛隊員が突然その女性が倒れるのを目撃し、AEDを使った心肺蘇生をおこなったが、その甲斐もなく女性は絶命した。

 石黒綾美が病院に搬送され、死亡が確認されたあと、そばにいた楠川由美香は警察から事情を聴かれた。楠川由美香は自分はある宗教団体の信者で、石黒綾美とは入信を勧めるために街で偶然声をかけたことがきっかけで知り合った。その後、電話でやりとりをして梅座スカイゲートで会い、場所を変えてゆっくり話そうということになり、空中公園から出ようとしたら急に石黒綾美が苦しみだした――そういった話をした。

 警察は石黒綾美の死に方に不審なものを感じ、楠川由美香がカルト信者だったために何らかの事件性を疑っていた。そのため事情聴取は長時間に渡ったが結局、中年女性に対して楠川由美香が暴行を加えたり薬物を使用したりした形跡など見つからなかったため、彼女は帰宅を許された。

 警察での事情聴取を終え、帰宅して玄関のドアを閉めた楠川由美香はようやく沢渡和史としての思考や行動に専念することができるようになったと思い、安堵した。

 小さなベッドに寝転がると目を閉じた。回帰できないように石黒綾美の影を抑え込み、そのまま彼女の心臓の動きをコントロールして殺した。断末魔に醜く歪んだ石黒綾美の顔が網膜に焼き付いてしまったが、後悔は無かった。

 油断して手心を加えれば、あの女はまた暴れ狂うだろう。街が破壊され、大勢の人間が犠牲になる。心に軋みを感じながら、沢渡は自分の取った行動に誤りが無いことを繰り返し自分に言い聞かせた。

 たった一つ悔いが残るとすれば、志穂子を救えなかったということだ。

 楠川由美香に生まれ変わってからは彼女が信仰するカルトの信者としての務めを果たすと同時に、梅座で命を落とし、体や心に傷を負った人々に対する贖罪に専念するつもりだった。それだけ自分は重い罪を背負い、その罪の重さは志穂子の命とは天秤にかけられないほど大きなものだと思っていた。

 だが自分はそんな自分自身の決意を裏切った。とどのつまり、最も大切なものは自分にとって身近なたった一人の人間だった。その人間を救おうとして石黒綾美に会った。しかし結局は救えなかった。

 自分の罪深さを思い知った。やはり自分には贖罪しか無い。名も知らぬ大勢の人間と自分にとって大切なたった一人の人間に対する贖罪に人生を捧げるのだ。

 沢渡――いや、楠川由美香は決意を新たにした。今度はその決意を何としても全うしよう。そして贖罪にとどまらず、大勢の人々の魂を救うのだ。そのために自分の回帰者としての力は大いに役立つだろう。

 そう思うと楠川由美香は身も心も軽くなるような気がした。人を殺したという自覚も、志穂子を救えなかったという自責も、憑き物が落ちたように消え去っていた。

 眠気を覚え、パジャマに着替えずにそのまま寝落ちした。その直前、石黒綾美の最後の言葉が耳元をよぎった。


―― 待って!  わたしの話を聞いて! ――


 何か伝えたいことがあったのだろうか。どうせ単なる命乞いだろう。耳を傾けるに値しない。

 楠川由美香は深い眠りの奥へ沈んでいった。





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