第30話  影の虜囚





 11月3日、午後4時。梅座は戦場のような様相を呈していた。

 百棟以上の建物が倒壊し、瓦礫の山と化していた。人間や自動車が倒壊に巻き込まれ、大勢の人々が建物の中で圧死し、瓦礫の下敷きとなって命を落とした。悲鳴や呻き声が飛び交い、あちこちで火の手が上がった。

 そんな地獄のような街を石黒綾美は悠々と歩いていた。

 彼女の行く手には巨大な黒蜘蛛がいた。異世界から降臨した大怪獣のような禍々しい黒蜘蛛は石黒綾美の足元と繋がっていて、カタツムリなみのゆっくりとした動きで前進する。そして前進する黒蜘蛛が触れた建物は脆く崩れていく。

 だが建物が崩れるのは黒蜘蛛が建物そのものに触れるからではない。その建物の影に触れるからだった。黒蜘蛛が建物の影に触れるたびに垂直にドミノ倒しが起きたかのごとく、その建物は崩れていくのだ。

 石黒綾美は無表情だった。だが、その影の表層には沢渡が恐怖したあの螺旋状のゆらぎが満ちており、その爛れた痛みが彼女を荒ぶる禍津神へと変えてしまっていた。

 影の分身化によって逃げようとする沢渡を捕らえるため、石黒綾美は沢渡志穂子を餌にした。沢渡に志穂子の身を案じるように仕向けて彼の動きを封じようとしたのだ。それは石黒綾美にとっては「奥の手」だった。これなら確実に沢渡の動きを封じることができるという自信があったからこそ「奥の手」なのだ。だからその奥の手に沢渡が屈することは予期できたことであり、そうでなければ石黒綾美にとっては困るのだった。

 沢渡は予期した通り、彼女の奥の手に屈した。

 だが、石黒綾美はそれが気に食わなかった。沢渡が志穂子のために奥の手に屈したことが許せなかった。志穂子のために屈したことが。

 自分が影合わせを使って肉体の修復をおこなったときも沢渡は逃げようとしなかった。逃げようと思えば逃げることができたはずだ。それなのにあの男は逃げようともせずにこう言った。


「頼む。教えてくれ。志穂子はどこにいるんだ? 彼女は無事なんだろう?」


 そのとき、石黒綾美の影の表層を螺旋状に揺るがし、蝕んでいたものが爆発した。破壊衝動が止めどもなく溢れ出し、歯止めが効かなくなった。

 石黒綾美の影は破壊衝動の塊となった。巨大な黒蜘蛛の姿となったその衝動は影に触れることによってその影添を破壊し尽くしていった。

 沢渡にこの世の終わりを見せつけてやろうと思った。街が破壊され、人々が死ぬのはあなたの責任だと知らしめるつもりだった。

 黒蜘蛛は沢渡が逃げ去った方角へ向かって進んだが、石黒綾美はもはや沢渡のことなどどうでもよくなっていた。気の済むまで破壊の限りを尽くすつもりで黒蜘蛛を従えながら前進した。

 前方に地上30階建ての超高層ビルが見えてきた。その手前には船をモチーフにしたデザインのビルがあり、その2つのビルの間にあるのは日曜祝日ともなると人通りで混雑するスクランブル交差点だった。

 地面を這っていた黒蜘蛛は後ろの6本の肢で体を支えながら立ち上がり、前の2本の肢を超高層ビルに向けて伸ばした。

 蛇腹のような外観のそのビルには壁面の凹凸に沿って無数の影が宿っていた。2本の黒蜘蛛の肢は数十本に枝分かれしてビルの壁面の影と交わり、その直後ビル全体が震えながら崩れ始めた。

 やがて120メートルもの高さがあるビルは瓦礫を撒き散らしながら徐々に傾き、大音響とともに横倒しになった。白い砂埃とともに突風が巻き起こり、ビルの中に居た人間たちの悲鳴が聞こえてくる。恐怖や苦痛、混乱や狂乱がそのまま人間の口をこじ開けて飛び出して来た凄まじい声が遠くから近くから連続して聞こえた。

 石黒綾美は倒壊した超高層ビルを一瞥すると、さらにその向こうにある百貨店を崩しにかかった。それを終えると付近一帯にある駅ビルや超高層ホテル、その界隈のランドマークとなっている円筒形のビルを壊した。

 そのときになってようやく石黒綾美の邪悪な憤怒は鎮火へと向かった。

 空爆を受けたように無惨な廃墟と化した街を見渡した石黒綾美は大きく息を吐いた。難産を終えた母親のような吐息だった。

 廃墟のあちこちで火の手が上がっている。沢渡はどうなったのだろうと石黒綾美は思った。高層ビルの下敷きになっただろうか。火災に巻き込まれて焼け死んだだろうか。それともまんまと逃げ延びて生きながらえているのだろうか。

 石黒綾美の足元と繋がっている巨大な黒蜘蛛の背丈が急激に下がってきた。風船から空気が抜けていくように平たくなり、地面に沈んでいく。やがて黒蜘蛛は平面的な影になると同時に面積を縮めて、見る見るうちに小さくなった。ガスタンクの大きさから人間大の大きさになるまで一分半ほどしかかからなかった。

 自分と同じぐらいの大きさに戻った蜘蛛の影を引き連れて石黒綾美は南の方角に歩んでいった。梅座へは自分が愛用しているミントブルーの軽自動車に乗って来ていた。車を停めたコインパーキングがあった場所は瓦礫の下敷きになっている。石黒綾美はそちらとは反対の方角へ向かっていた。

 瓦礫の山が途切れて通常の街並みの状態にある辺りまで来た石黒綾美は、乗り捨てられた車で充満した車道を横切り、反対側の歩道まで進んだ。歩道で逃げ惑う通行人が異様な姿の彼女を見て一瞬立ち止まり、怯えた顔で逃げ去る。

 白いワンピースが血で斑に汚れた彼女の姿は、高層ビルの崩壊を見てパニック状態になっている群衆の中にありながらも人目を引くには十分だった。「大丈夫ですか?」と声をかけてくる者もいたが、石黒綾美は彼らを無視して歩道を歩き続けた。やがて彼女は車の停滞や渋滞が無い比較的流れのスムーズな大通りにたどり着いた。

 車道を走る車のうち、自分の愛車と同じ車種の軽自動車の影を掴んで急停車させた。車はエンジン音を轟かせるが1ミリも前へ進まなくなる。

 運転手は子供っぽい顔をした不思議ちゃん風の若い女だった。車から出て来ると異変の原因を確かめようとしてドアを開け、車の前後を確かめる。首を傾げながら車の中に戻ろうとするその女の影に石黒綾美の影が触れ、次の瞬間、女は回転しながら宙を舞って交差点の信号機にぶつかり、落ちたところを別の車に頭を轢かれた。

 石黒綾美はその女が乗っていた軽自動車に乗り込むと京都府の鐘丘市へと向かった。そこには夫の石黒純也が持っていた別荘があり、沢渡の妻、志穂子はそこにいた。

 志穂子は本田康彦になりすました石黒綾美によって言葉巧みにおびき出され、その別荘に監禁されていたのである。





 沢渡がいるマンションを飛び出してからの志穂子はパート先で親しくなった同僚女性の家に身を寄せていた。

 その同僚は志穂子よりも一回り年上で、数年前に熟年離婚をした一人暮らしの独身女性だった。その女性は志穂子を訪ねてときどき姿を見せる本田に対して、きめ細やかな気遣いのできる紳士という好印象を持ち、志穂子と本田が交際することを積極的に後押ししていた。

 沢渡に愛想を尽かし、離婚を決めた志穂子を石黒綾美が誑かすには好都合の状況だった。

 数日前、本田康彦になりすまして志穂子の携帯電話に連絡を入れた石黒綾美は、知り合いの警察関係者から聞いた話だとして沢渡に殺人の容疑がかかっているということを仄めかした。そして血迷った沢渡が志穂子に危害を加えるかもしれないので、鐘丘市にある自分のセカンドハウスで匿ってやると申し出た。

 本田になりすました石黒綾美は、動揺し混乱する志穂子に優しい言葉をかけて説得すると、同僚女性の目を盗んで志穂子を誘い出し、鐘丘市の石黒純也の別荘まで車に乗せて連れて行った。

 その別荘は周囲に林が点在する田畑の中に建つ一軒家だった。川石市にある石黒綾美の自宅と同じく近くに人家は無かったが、家の造りはログハウスなどではなく、ごくありきたりの2階建て住居で、しかも築30年以上も経っている古びた家だった。

 家の横にアスファルトで舗装された駐車場があった。普通乗用車が2台分停められるようになっていて、空いているその駐車場に石黒綾美は自分の軽自動車を停めた。車のドアを開け、助手席に乗っていた志穂子を連れて外に出る。

 深夜だった。本田になりすました石黒綾美と一緒に別荘の玄関までやって来た志穂子は急に不安を覚えた。森閑とした田園地帯の中にポツンと建っている古びた一軒家は、凶々しく佇む邪神像のように見える。

「あの.....」

 志穂子は遠慮がちに言った。

「ここ、本当に本田さんのセカンドハウスなんですか?」

 本田はスマホのLEDライトで別荘の玄関を照らしながら言った。

「そうだよ。IT企業の経営者の持ち物とは思えないほどみすぼらしい建物だろ」

「いえ、そういう意味じゃなくて.....」

 鼻白む志穂子に向かって本田はいきなりLEDライトを向けた。眩しさに耐えきれず、志穂子は両手で目を遮りながら声を上げた。

「まぶしい.....ちょっと、やめてください」

 本田はクスクス笑いながらライトを下げた。

「志穂子さん。僕の影を見てごらん」

 言われるまま志穂子は本田の足元の影を見た。

 暗闇の中でそこだけがLEDライトによってスポットライトが当たっているように見える。そこに本田のガッシリとしていながらもスラリとしたなめらかな影が伸びていた。

 その影が左右にゆらゆらと揺らめき出した。本田がスマホを動かしてLEDライトの光が揺れたためそうなったのかと思った志穂子は、本田が持っているスマホを見た。だが本田は手にしたスマホをピクリとも動かしてはいなかった。

 志穂子はもう一度地面を見た。揺らめいていた影は次第にその動きを鎮め、ゆっくりと静止した。そこには何でもないごく普通の影が地面に映っていたが、それはさっきの影とはどこか微妙に違っていた。本田よりも華奢で背が低い人間の影だった。

 志穂子は視線を上げた。スーツにネクタイを締めた人物がそこに立っている。ダブルのスーツがよく似合う本田だったが、今そこに立っている人物にいつものスーツは似合っていなかった。本田よりも一回りも身長が低く見えるその人物は、大きすぎるダブルのスーツをまとったミディアムヘアの中年女だった。

「え? 誰?」

 突然現れた不審な女の姿に恐怖よりも混乱が先に立ち、志穂子は問いかけた。中年女は不気味な陰影に彩られた顔をほころばせながら、志穂子の問いかけに答えるように自分の影の方へあごをしゃくった。

 促されるまま、志穂子はその女の足元の影に目を向けた。さっきまで本田康彦の影だったそれは再び左右に揺らぎ始めた。ひとしきり揺らいだあと、影は一つの像を結んだ。

 蜘蛛だった。地面に巨大な黒い蜘蛛がうずくまっている。黒一色の大蜘蛛だった。

 志穂子が声にならない悲鳴を上げて飛び退こうとした時、黒い大蜘蛛の影の肢が伸びて志穂子の影を掴んだ。

 夜気が硬い石の壁になったような気がした。全身が動かなくなっていた。指一本動かすことも、声を出して喋ることも出来ない。志穂子は似たような感覚になったことがあるのを思い出した。本田との関係を沢渡から問い詰められたときだった。

 あの日、本田と逢うつもりだった志穂子だったが、待ち合わせ場所へ徒歩で向かっていた志穂子に、車に乗っている本田から電話で連絡が入った。近くまで来ているんだが志穂子を尾行している人間を見かけた。君の夫が雇った探偵かもしれない。今日は逢うのをやめた方がいい――

 志穂子は尾行者の気配など少しも感じていなかったが、本田の言うことに従って逢瀬をあきらめた。そして帰宅後、自分を尾行していたのが他でもない夫自身だったことを知り、本田の忠告が正しかったことを知った。

 本田と逢おうとしていたことを夫から問い詰められたその時、体が急に動かなくなった。硬い岩の中に閉じ込められたような感覚だった。それと同じ感覚を今、味わっている。

「しばらくここでおとなしくしてもらうわよ」

 中年女が発する抑揚の無い声が聞こえた。志穂子の体が彼女の意志とは無関係に、一軒家の玄関に向かって歩み始めた――





 石黒綾美が沢渡志穂子を石黒純也の別荘へと連れ込み、監禁したのには理由があった。

 今から2週間前、警察の尾行をまいて石黒綾美の自宅へ来た沢渡は彼女の説得に応じてガーレンの『影合わせ』をおこなうことを承諾した。だが沢渡は影合わせをおこなうのは今抱えている仕事や用事を片付けてからのことになると言っていた。

 この期に及んで何を言っているのだろうと石黒綾美は思った。世界中の人間を意のままに動かせるようになろうとする男の発言ではなかった。

 優柔不断な上にものぐさな性格の男だった。警察の捜査対象者になり、妻からも見放されたという状態でありながらも、依然としてのんきで悠長な事を言っている。この調子だといつ心変わりを引き起こすかわからない。そうならないように「保険」をかけておかなければならないだろう。そのために石黒綾美は万が一に備えて志穂子を誘拐したのだった。

 その「万が一」が現実になった。沢渡は土壇場になって影合わせを拒否し、逃げ出したのだ。

 そしてこういう場合に備えていた保険が役に立った。志穂子がこちらの手中にあるとも知らずに彼女の携帯電話に連絡をしてきた沢渡は志穂子と引き換えにガーレンの影合わせをすることを受け入れたのだ。

 ところがすんなりと事は運ばなかった。おまけに沢渡は警察を巻き込んで自分に歯向かおうとした。そしてトカゲの自切行為のような技術を使って影を分離し、逃げようとした。

 そこでもう一度、保険を使うことになった。保険は有効だった。保険は役に立った。だが最初に保険を使ったときには感じていなかったものが石黒綾美の心のなかに生じた。いや、最初の時にすでに感じていたのかもしれない。ただあまりに微かで何気ない状態だったので気づいていなかっただけなのだろう。

 それは螺旋状のうねりを持つ痛みとなって石黒綾美の心を焼いた。沢渡が保険の前に屈服したことが石黒綾美には許せなかった。自分を裏切ったことよりも許せなかった。

 車のハンドルを握っている石黒綾美の影の表層にまたしてもあの螺旋状のうねりが生じようとしていた。破壊衝動が湧いて来たが、もはや石黒綾美にはそれが「嫉妬」という感情だと認めることができるだけの本来の冷静さを取り戻していた。何もかも黒く塗りつぶしてしまうような破壊衝動はボヤ程度ですぐに鎮火し、悪魔のような底意地の悪さがそれに取って代わった。

 沢渡はきっと生きている。どこかへ逃げ延びて生きているはずだ。

 こっちには依然として志穂子という人質がいる。この「保険」がある限り沢渡は自分に対して全面的に逆らうということはできないのだ――サディスティックな笑みでだらしなく口元を歪めながら、石黒綾美は別荘へ向かった。

 梅座で起きた大災害の臨時ニュースがカーラジオからひっきりなしに流れてくる。道路は渋滞していたが、都心から離れるにつれて車の流れはスムーズになっていった。

 人目に付くと面倒なので途中で車を停め、石黒綾美はグローブボックスにあった濡れティッシュで顔や手足の血を拭った。車の本来の持ち主だった女から車を奪い取るために女の影に触れたとき、石黒綾美は女の影型の型取りもおこなっていた。その影型を使って彼女になりすまし、車内にあった女の持ち物と思われる黒いロングコートを羽織って血まみれのワンピースを隠すと車を発進させた。 

 別荘に着いたときは深夜になっていた。別荘の横の駐車場に車を停めて外に出た石黒綾美は、ワンピースのポケットから鍵を取り出した。玄関のドアを開けて中に入るとバスルームへ行き、銃弾で穴の開いた血まみれのワンピースを脱いだ。室伏刑事に撃たれた肩や胸、腹部には傷ひとつ無い。影合わせによって影添――肉体をコントロールし、元通りに修復させたからだった。

 石黒綾美は全裸になると血で汚れた体をシャワーで洗い、それからバスタブに全身を浸からせた。

 ぼんやりと天井を見上げる。昔見たホラー映画のワンシーンを思い出した。サイコキネシスを使って自分をいじめた同級生たちに復讐したヒロインが自宅に戻って泣きながら入浴するシーンだった。

 だが石黒綾美は泣いてはいなかった。それに復讐もまだ済ませてはいない。

 沢渡はまだどこかで生きている。石黒綾美はそう信じていた。彼にはガーレンの影合わせをおこなってもらわなければならない。

 だがその前に、裏切りの代償を支払ってもらうのだ。





 入浴を終えた石黒綾美はバスタオルで体を拭い、バスローブを着込むと浴室から出た。薄暗い電灯で照らされた廊下を奥へ進み、頑丈なドアのある部屋の前まで来た。ドアは内側からは開けられず、外から鍵をかけるようになっている。石黒綾美は玄関脇にかけていた鍵束の中の一つを使ってドアの鍵を開けて中に入った。

 中は広い居間のようなスペースになっていた。テーブルや椅子、ベッドの他にトイレの小部屋や洗面所もある。冷蔵庫や電子レンジはあったがテレビやラジオは置いてなかった。

 元々は石黒純也が趣味で描いている油絵のアトリエとして使われていた部屋だった。純也は絵画のディーラーであると同時にアマチュアの画家でもあった。絵を描くのに熱中すると数日はその部屋へこもりっきりになる。トイレや洗面所があるのはそのためだった。室内は柔らかいクリーム色をした花柄のウォールペーパーで覆われているが、かすかにテレビン油の匂いがしていた。

 志穂子をこの部屋に閉じ込める時、警告しておいた。この部屋は防音設備が行き届いていて、どんなに大声を上げても大きな音を立てても外には全く聞こえない。わざと火災を起こして誰かに気づいてもらおうと思うなら好きにすればいい。外に出られないまま、一酸化炭素中毒か全身火傷で死ぬだけだ、と。

 テーブルにはコンビニ弁当が3個、ペットボトルに入ったお茶やコーヒーが4、5本、菓子パンや調理パンが数個乗っていた。冷蔵庫には大量に冷食があり、食品棚にはインスタント食品が詰まっている。だがそれらに手が付けられた様子はほとんど無かった。

 沢渡志穂子はベッドに横になっていたが、ドアを開けて入って来た石黒綾美の姿を見て起き上がった。

「大丈夫? ちゃんと食べてるの?」

 志穂子の顔は少し赤みを帯びていたが、石黒綾美の声を聞くとだんだん血の気が失せて蒼白になっていった。

「ここから出してください」

 志穂子は小さいながらも毅然とした声で言った。

 石黒綾美は捕まえたネズミをいたぶる猫の目で志穂子を見ながら言った。

「まだ駄目よ。沢渡さんがわたしの言うとおりにしてくれるまではね」

「いったい何の話をしているんですか? 私の夫があなたに対してどんなことをする義務があるというんです?」

 志穂子の声のボリュームが次第に上がってくる。

「あなた、いったい誰なんです? どうしてこんなことをするんですか?」

 数日前から自分が陥っている異常な境遇にいくらか慣れてきたのだろう。最初は小さかった志穂子の声が今や強い調子で石黒綾美をなじっていた。その声の響きを楽しみながら石黒綾美は志穂子を嘲笑った。

「IT企業を経営しているイケオジに抱かれたくせに、優柔不断な薄らハゲのことをいまだに夫呼ばわりするのね」

 志穂子は怯えた子供のように一瞬、顔をしかめた。そんな彼女に石黒綾美は追い打ちをかけた。

「わたしが誰か教えてほしいの? だったらこの声に聞き覚えはないかしら?」

 そう言うと石黒綾美は間延びした蓮っ葉な声を出した。

「和史さん? 和史さんかしら? あら、ごめんなさ〜い。間違えちゃったわぁ」

 一瞬ひるんだ志穂子だったが、すぐさま彼女の目に強い怒りが宿った。その怒りへ応酬するかのように石黒綾美は憎悪のこもった目で志穂子を睨み返した。

はわたしに逆らい、その結果わたしはひどい目に遭った」

 石黒綾美は歯ぎしりをしながら喋った。

「そしてとても不愉快な思いをした。その代償をあの人に支払ってもらうわ。であるあなたの体でね」

 石黒綾美の足元に居た黒蜘蛛が志穂子の影を掴んだ。

 




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