第28話  影の黙示録







 沢渡は死にものぐるいで石黒綾美から逃げようとしていた。

 逃げるという意志が『影炎かげろう』の蓄積を急速に速めること、そして自分には影を2つに分離してその一方を捨て去るという「トカゲの尻尾切り」ができることに気づいた彼は、石黒綾美の影から逃れるためにを繰り返した。

 走っては立ち止まり、走っては立ち止まり、という奇妙な動きを繰り返す沢渡だったが、少しずつ確実に沢渡は石黒綾美から遠ざかっていた。その沢渡の影の中で石黒綾美のささやく声が聞こえた。


 ―― 奥さんがどうなってもいいの? ――


 影の分身化が12回目に及ぼうとした時だった。マウントを取るようなその声には構わずに沢渡は分身化をおこなおうとしたが、何も起きない。石黒綾美は50メートルほど離れた位置から影を伸ばして沢渡の影を掴んでいる。

 『影炎』が尽きたわけではなかった。沢渡の逃走を阻止するために発した石黒綾美の声を聞き、「逃げる」という意志にほころびが生じたため、分身化が発現しないのである。

 さっきまで逃げること一色だった沢渡の心に迷いが生じていた。その迷いに乗じて石黒綾美の影は沢渡の影から影炎を『採掘』し始めた。


 ―― たっぷりと吸い取ってあげるわ。吸い取って吸い取って、空っぽになったらあなたは回帰者でも何でもない、ただの人よ ――


 影の中で石黒綾美は毒々しい笑い声を上げた。


 ―― ただの人になったら、あなたの体をくしゃくしゃにしてあげるわ。ルービックキューブみたいに四方八方からひねくり回してね。あはははははは ――


 石黒綾美の影の表層を螺旋状に揺るがしているものがある。それは激しい何かの感情に根ざしたものであり、それが石黒綾美の精神全体を蝕んでいた。爛れた傷口が発する痛みのようなものだ。

 発狂する前兆かもしれない。石黒綾美の精神のバランスが崩れかけているのだと沢渡は思った。


 ―― たのむ、やめてくれ! 僕が死んだらガーレンの影合わせができなくなるぞ! それでもいいのか! ――


 ―― かまわないわ。今のわたしは都市一つを壊滅させるだけのエネルギーを採掘して蓄えているのよ。ガーレンの影なんかなくても、あたし一人だけでこの世界の支配者になってみせるわ。何もかも壊し、逆らう者は皆殺しにしてやる ――


 沢渡は逃げるという意志を何度も奮い立たせようとしたが、志穂子のことが障碍になってどうしても影の分身化現象を起こすことができない。影炎の急速な蓄積も、逃げる意志にほころびが生じたためにできなくなっていた。ほどなく影炎は一滴残らず石黒綾美に『採掘』され、沢渡の回帰は強制終了した。

 肩から袈裟懸けに大きな力が加わった。石黒綾美が沢渡をひねり殺そうとしている。だが次の瞬間、沢渡の背後で何かが弾けるような音がして彼の体に加えられた力が消え失せた。





 沢渡の影炎を吸い尽くして回帰を終了させ、彼の体を壊そうとした時、石黒綾美は背中が鋭い衝撃を受けたのを感じた。

 背中から何かが食い込んで胸と肩甲骨の間で止まった。もう一つ、何かが腰のあたりに食い込んだ。

 回帰していたので全身が麻痺感に覆われており、痛みは無かった。しかし何が起こったのかを知るべく後ろを振り返った。

 室伏の姿が見えた。

 室伏は座り込んだ姿勢で拳銃を握っていた。その拳銃はこめかみを撃って死んだ制服警官のベルトと吊り紐でつながっている。拳銃を取り外すには吊り紐を切らなければならないが、そのためのカッターやニッパー等の切断用具を持ち合わせていなかったため警官の死体に繋がったままの拳銃で石黒綾美を撃ったのだ。

 脇腹の痛みが極限に達し、室伏は息も絶え絶えだった。彼は15分ほど前から続いている不可解で凄惨な出来事をずっと目の当たりにしてきた。彼が「複雑な連立方程式」と呼んでいるものはXをYに、そのYをZに代入していくことによって少しずつ全容が明らかになっていったが、事態は解決には進まず、さらなる混乱と悪化を招いている。

 それでも室伏は「代入」を続けた。解決のためにはさらなる「代入」しかないと思った。Zの次の4番目の未知数がアルファベットの何を充てればいいいのかわからないが、この惨状の元凶と思われる石黒綾美を制圧するために拳銃を撃つことで、室伏はその未知数にZを代入したのである。

 室伏が撃った銃の弾丸は石黒綾美の背中に命中した。続いて撃った銃弾は石黒綾美の腰に食い込んだ。着ている白いワンピースの右肩甲骨のあたりと左の脇腹のあたりが激しい勢いで真っ赤に染まり始めた。

 痛みは無かったが、出血や神経組織の破砕によって石黒綾美の体調が崩れ、体力が減退していた。トウシューズが突然折れたバレリーナのような無様な動きとともに石黒綾美は地面に崩折れた。

 普通の人間なら虫の息かとっくに死んでいるところだろう。だが回帰状態にある回帰者にとって肉体の死イコール影の死ではない。

 回帰者の本体は影にある。石黒綾美の影は銃弾によって損壊した肉体を操り、幽霊のように立ち上がらせた。血にまみれたその体は室伏の方に向き直り、突然野卑な叫び声を上げた。声帯が破れるのではないかと思うほどに声が割れていた。

「この、バカァーーー! 邪魔すんなーーーーーーー!」

 石黒綾美の影が動き、室伏のそばでネス湖の恐竜の写真のように車道に首を伸ばしている道路灯の影に触れた。道路灯は歩道側に向かってのけぞりながら曲がり、室伏に向かって倒れ込んでいく。その巨大なゴルフクラブが彼の頭を叩き割ろうとした直前、室伏は拳銃の弾倉に残っていた銃弾をすべて石黒綾美の体に撃ち込んだ。その直後、道路灯の先端がわずか数ミリの隙間を空けて室伏のそばの歩道にめり込んだ。

 銃弾を食らった石黒綾美は歩道の上で横向きに倒れた。

 体の下から血が湧き出てくる。ときおり激しく咳き込むが、声は出ない。やがて砂山が崩れるように仰向けになった。

 その一方で、何が起きたのかわからなかった沢渡はじっと立ち尽くしていた。

 石黒綾美に全身をこねくりまわされる寸前、背後で銃声らしき乾いた音が聞こえた。誰かが銃を撃ったらしい。それから石黒綾美の喚く声に続いてさらに数発の銃声が聞こえ、何か大きな物が倒れたような地響きを感じた。

 体の自由が効くようになっていることに気づいた。沢渡は足元の影を見て自分が石黒綾美の影から解放されているのを知った。

 後ろを振り返った沢渡は、自分の体を固めていた影が巣穴に戻るヘビのように石黒綾美の方へ引き寄せられていくのを見た。

 石黒綾美は倒れて動かない。たぶん銃で撃たれたのだろう。かなり弱っているにちがいない。

 逃げるなら今だった。しかし石黒綾美のさっきの言葉がまだ沢渡の耳朶に残っていた。


 ―― 奥さんがどうなってもいいの? ――


 志穂子はどうなる? 今ここで逃げ出せば、それが志穂子との永遠の別れになるかもしれない。

 石黒綾美から訊き出さなければならない。志穂子はどこにいるのかと。それに銃声は全部で5発ぐらい聞こえた。それらを全部被弾したとするなら、石黒綾美は瀕死の状態にちがいない。このまま放っておけば彼女は死ぬだろう。そうなれば志穂子の居場所を訊き出すことができなくなる。

 沢渡は意を決すると石黒綾美の方へ歩いて行った。

 いったんクモの子を散らすように逃げ去っていた野次馬は、さっきよりも距離をおきながら再び遠巻きにして沢渡の様子をうかがっていた。スマホや携帯電話のシャッター音と人間の話し声が聞こえた。どこか遠くから救急車やパトカーのサイレンが木霊のように聞こえ、それらは次第にこちらに近づいて来ていた。

 倒れた石黒綾美の向こうに両手で銃を握って座り込んでいる室伏の姿が見えた。目を閉じ、弱々しい呼吸を続けている。

 数メートルまで近寄った沢渡はいったん立ち止まり、それから用心深く石黒綾美の方へ歩を進めた。もしかすると石黒綾美はこちらを油断させるために弱ったふりをしているだけかもしれない。

 石黒綾美へ近づくにつれて胸がムカムカしてきた。警官の死体の方はできるだけ視線を向けないようにしていたが、視界に入った石黒綾美の無惨な血まみれの姿を見たせいで吐き気を催してくる。銃弾のうちの一発が乱れた髪の間から覗いている右の瞼の上のあたりに食い込み、眼球が眼窩から歩道の上にこぼれ落ちていた。

 吐いた。吐いたが2日前からほとんど何も食べていないので水のような白いものが少し出ただけだった。

 そして、えずく沢渡のそばで異変が起きつつあった。

 石黒綾美の影が小刻みに震えていた。黒蜘蛛が全身を震わせている。その振動が石黒綾美の体に伝わった。そして振動に突き動かされるかのように血まみれの石黒綾美が立ち上がった。

 蜘蛛の影が震えながら形を変えた。なんでもないごく普通の女の影だった。それと同時に石黒綾美の顔や胴体に開いた数カ所の銃創から中に入っていた銃弾がズルリと押し出され、歩道の上にポトポトと落ちた。こぼれ落ちていた眼球がコロコロと石黒綾美の体を滑り上がり、ヌルッと眼窩に収まった。

 沢渡は呆けたようにその様子を眺めていた。

 石黒綾美は自らの影を制御することで肉体の修復をおこなっていたのだ。『影合わせ』を使って自分の影型の輪郭を普段の健康で無傷なときのものに変えた。沢渡の影を解放したのはそのためだった。

 体に開いた銃創がそれぞれ花が蕾を閉じるように塞がっていく。まもなく肉体の修復は完了したが、身に着けている白いワンピースにはいくつも穴が開き、血の色でまだらになっていた。

「わたしのお気に入りが台無しになったわ」

 自らの全身を舐め回すように見て石黒綾美は言った。





 沢渡と石黒綾美の周囲には距離を空けて大勢の人だかりができていた。

 その人だかりに向かって赤色灯を瞬かせながら数台のパトカーが近づいて来た。警ら中だった地元の所轄警察署のパトカーだった。救急車も数台、その後を追ってやって来ていた。

 野次馬の数はさっきよりも増えている。石黒綾美は気怠そうな視線で人だかりの様子を眺めていた。眼球が元通りに修復された右目からは血の筋が頬を伝って顎にまで届いていた。

 血の涙を流している――沢渡にはそう見えた。

「もうやめろ」

 沢渡は嗄れ声で言った。奇妙なことに石黒綾美に対する恐怖が薄れていた。自分でも理由がわからない。この女に殺されかけたというのに哀れみさえ感じていた。

「いずれここへ警官が大挙してやってくる。機動隊だって来るだろう。何もかも明るみになるし、僕も君も逃げることはできない」

 石黒綾美はノロノロと沢渡の方に視線を向けた。泣き疲れて放心状態になっている老婆のような目だった。

「頼む。教えてくれ。志穂子はどこにいるんだ? 彼女は無事なんだろう?」

 靄がかかっていた石黒綾美の両目に火が灯った。その火の熱さに耐えかねたかのように両目が大きく見開かれた。

 沢渡は恐怖を覚えた。石黒綾美の両目に灯ったものがさっきまで彼女の影の表層を螺旋状に揺るがし、彼女の精神全体を蝕んでいた感情と同じものであると直感的に悟ったのである。

 歩道に映っている石黒綾美の影が回帰して蜘蛛の形を結んだ。沢渡は信じられないものを見た。歩道に映っている蜘蛛の影が歩道から剥がれたのである。

 いや、剥がれたのではない。歩道から浮き上がり、立ち上がっているのだ。

 2次元的な影が3次元上に躍り出ていた。空中に出現した透明なガラス壁に大きな蜘蛛が張り付いていた。蜘蛛は8本の肢を放射状に伸ばした。身の丈がどんどん大きくなり、平べったい影だったその体は立体的に膨らみ始めた。沢渡のまわりの人垣からどよめきと悲鳴が起き、彼らは逃げ惑い、右往左往した。

 後ずさりする沢渡の目の前で蜘蛛の影は際限なく膨らんだ。気球のように大きくなった黒蜘蛛はそれまで垂直だった姿勢から地面に這いつくばると、口から船の舫い綱のような太い糸を吐いた。

 糸は黒いレーザービームと化して宙空を横切りながら、道路を隔てた向う側にある地上25階建てのビルに達すると、その壁面をよじ登りながらいくつにも分岐した。


 あははははは

 あはははははははははは


 石黒綾美の病的な高笑いが聞こえた。

 ビルには企業の事務所や各種の店舗が入居しており、1階には高額当選金の宝くじ売り場がある。分岐した黒い糸はビルの窓枠や壁面の微妙な影にへばり付くと、それらの影を揺さぶってビルの窓や外壁を壊し始めた。

 ガラスが割れ、壁材が落下して道路を走る車の行く手を遮った。急停車した車の後ろを走る車が追突する。すぐ下の歩道を歩く通行人の頭の上にガラスの破片が降り注いだ。

 100メートル以上もの高さがあるビルが皆戸区警察署と同じように崩れていく。窓ガラスと壁材が剥がれ落ちるとビルの鉄骨が剥き出しになった。

 石黒綾美の足元から伸びている黒蜘蛛の影は都市ガスのガスタンク並みに大きくなっていた。巨大な黒蜘蛛は目の前の高層ビルの窓と外壁を崩し終えると、鉄骨が剥き出しになったビルの麓にあるその影を口から吐き出す黒い糸で掴んだ。

 糸はビルの根元の影を投げ縄で捕らえた馬のように引っ張り、ビルそのものを引き倒そうとする。鉄骨の内部にある構造物を崩しながらビルが大きく傾き始めると、鉄骨の間からビルの中に居た人間たちが紙人形のようにパラパラと落ちていき、悲鳴とともに次々と地面に激突した。

 沢渡は逃げようとしたが、あまりにも巨大なものが倒れてくるので方向感覚が狂ってしまい、一瞬どっちへ逃げれば良いかわからなくなった。ジェット戦闘機のパイロットが体験する空間識失調と似た状態に陥っていた。

 ビルが45度近くこちらに傾き、周囲がビルの影で薄暗くなった。瓦礫の雨の中、沢渡は倒れてくるビルの右側に向かって走った。

 鋼鉄が軋む耳障りな音とともに25階建てのビルは倒壊した。剥き出しになった鉄骨が車道を隔てた反対側にある書店のビルに食い込み、書店のビルは根こそぎ崩れて高層ビルの下敷きになった。

 逃げていた沢渡の背後から砂煙と突風が襲ってきた。倒れたビルによって押された大気が、瓦礫の細かな粒や破片とともに押し寄せてきたのだ。何かが爆発したような大音響と逃げ遅れた野次馬たちの悲鳴が聞こえた。ビルの下敷きになった車の警報装置が発するクラクションやアラームの音がけたたましい。

 強風に吹き飛ばされた沢渡は路上で転倒した。砂埃で何も見えない。その灰色の闇が徐々に晴れてくると、何か黒くて大きいものがうずくまっているのが見えた。

 石黒綾美の影だった。三次元的に立体化した黒い蜘蛛だった。黒蜘蛛は腹部の先端から伸びた細い影で石黒綾美と繋がっている。

 沢渡の位置からは石黒綾美の表情はよく見えなかった。ビルが倒壊するときの強風に押されて、幸か不幸か沢渡の体は大蜘蛛の影からかなり遠ざかった位置にまで移動していた。ペットショップの前だった。ショーウインドウに居る犬たちが怯えた目で沢渡の方を見ていた。

 沢渡は立ち上がると逃げ惑う野次馬たちの後を追うように走った。

 都心部に突如落下した大隕石のような黒蜘蛛はしばらくの間じっとしていたが、突然ノロノロと動き始めた。逃げる沢渡を追うように、彼が進む方向へ這って行く。その巨体から伸びる節くれ立った八本の足は両側に立ち並ぶ建物とぶつかりながらも、建物を崩すことも傷つけることもなかった。建物がその黒蜘蛛の中を素通りしている、あるいは黒蜘蛛が建物の中を通り抜けているように見えた。

 だが、その黒蜘蛛が足を伸ばして建物の影に触れると建物は崩壊していく。黒蜘蛛が通り過ぎると建物が崩れ、倒れていくのだ。

 そびえ立つ高層ビルも小さな店舗も、輿に乗った王の行列にひれ伏す民のようだった。黒蜘蛛が通ると頭を垂れて大地に這いつくばり、次々と瓦礫と化していく。そしておびただしい数の人間の死体が瓦礫の上に投げ出され、あるいはその下敷きになっていく。

 「死の行進」だった。

 



4


 立ち上がった沢渡は巨大な黒蜘蛛から逃げた。

 ビルが倒れ、建物が崩れる大音響、そして阿鼻叫喚というのも生易しいほどの声を耳にしながら、沢渡はただひたすら私鉄のターミナル駅がある方向へ逃げた。

 電車に乗って逃げるつもりだった。一年前、石黒綾美に体を固められたときも恐怖に駆られて駅へ向かって逃げていた。あの時の記憶が無意識のうちに彼を電車の駅へと導いていた。正常性バイアスがかかり、(駅に行けば大丈夫だ)(電車に乗って自宅に戻れば安心だ)という盲目的な信念に囚われていた。

 どのくらい走っただろうか。行く手にスクランブル交差点が見えた。

 高さ120メートルもある超高層ビルと、船をモチーフにした外観の40メートルぐらいの高さのビルとに挟まれた場所だった。超高層ビルの方はオフィスや銀行、クリニックなどが入居しており、低い方のビルは映画館や衣料品店、宝飾店、アクセサリーショップ、飲食店などがある商業施設だった。

 超高層ビルの向こうには百貨店があり、そこに駅と繋がっているコンコースがあるはずだった。沢渡がそちらへ走ろうとした時、 逃げ惑う誰かにぶつかって転倒した。

 大きくバランスを崩した沢渡は頭から地面にぶつかって激痛を覚え、うずくまった。別の誰かがうずくまる沢渡に足を取られて転倒する。しかしすぐに起き上がると沢渡には目もくれずに走り去った。

 ノロノロと起き上がった沢渡はパラパラとしきりに左のこめかみから落ちているものに気がついた。血だ。アスファルトの地面にぶつかった時、こめかみのあたりを切ったらしい。

 痛みはあまり感じなかったが、地面に赤い染みが恐ろしい勢いで広がっていき、大きな血溜まりになった。

 助けてくれ――

 沢渡は叫んだ。実際に声を出して叫んだのか、心のなかで叫んだのかわからなかった。目眩がして動悸がひどくなった。いったん起き上がったものの、沢渡は再び地面にへたり込んだ。石黒綾美のように『影合わせ』を使って自分の影を普段の無傷な状態の影型に合わせれば血も止まるし傷も修復する。だが今の沢渡にそんな精神的余裕は無かった。

 解体工事が一キロ四方で一斉におこなわれているような轟音が響いていた。傷口を左手で押さえながらそちらの方角に沢渡が目をやると、巨大な黒蜘蛛が建物を崩しながらナメクジのようなゆるいスピートでこちらに這い寄って来る。


 ―― 今のわたしは都市一つを壊滅させるだけのエネルギーを採掘して蓄えているのよ ――


 石黒綾美がそう言っていた。あの巨大な黒蜘蛛は石黒綾美の『傀儡』が大量破壊兵器並みの威力を発揮するための究極の影型なのだろう。あの影型を使って石黒綾美は手当たり次第にこの街を破壊していくつもりなのだ。

 もはや沢渡のことさえどうでもよいのだろう。自らの思惑どおりに事が運ばないことに業を煮やした彼女はすべてを壊し、あらゆるものの命を奪う邪神と化したのだ。

 大小様々な建造物が脆くも崩れ、倒れ、大勢の人間が命を落としている。ある者は建物から転落死し、ある者は建物の中で圧死し、ある者は崩れた建物の下敷きになった。パニックになった人込みや車にぶつかって転倒し、跳ねられ、死に至る者もいる。沢渡は世界の終末が訪れたような恐怖に苛まれた。どこへ逃げても逃げようのない恐怖だった。

 スクランブル交差点には女性の悲鳴や子供の泣き声が飛び交っていた。怒号を発する男の声も聞こえる。恐怖と混乱に駆られて逃げ惑う人々とは対照的に、その場に座り込んで動けなくなっている人々もいた。気が動転してどうすればいいかわからなくなった人々だった。

 沢渡もそのうちの一人になっていた。大量の出血にうろたえ、絶望感に全身を凍りつかせていた。

 そんな彼の目に一人の女性の姿が映った。

 ベージュ色のスーツを着た若くて美しい女性だった。転倒して座り込んでいる老いた婦人を彼女は助け起こそうとしていた。

 老婦人は彼女の助けで立ち上がると、礼を言ってその場から小走りに立ち去った。心配そうに老婦人を見送ったその女性が何気なく沢渡の方を見た。

 沢渡の目にその女性の姿は救世主に見えた。それは通りすがりの老婦人を助け起こすささやかな救世主だったが、記憶の底から蘇った彼女の姿に沢渡は驚いた。

 あのときの女だ――

 一年前、この近くのコンコースにいた女。石黒綾美と出会う前に沢渡に声をかけてきた若い女。沢渡にカルトへの入信を勧誘しようとした女だった。

 私とお悩みを共有しませんか?

 そんなふうに言って誘っていたような気がする。1分でいいからつきあってくれとも言っていた。その提示された時間の絶妙さに、沢渡は思わず立ち止まったのだった。

 しかし結局、彼はその女の話を聞こうとはせず、ぞんざいな態度で彼女を追い払った。カルトになど入信するつもりはなかったが、自分が取った態度に忸怩たるものを感じていた。

 今なら1分どころか10分でも1時間でも話を聞くつもりだった。精神的に弱っているときにカルトに入信してしまう典型的なシチュエーションだった。その女はもはや「ささやかな救世主」ではない。沢渡にとって「大いなる力を持った真の救世主」だった。

 沢渡は腰から下に力が湧いてくるのを感じた。こめかみを片手で押さえたまま立ち上がり、蹌踉とした足取りでその女に近寄った。

 僕を助けてくれ――

 沢渡は女神に向かって言った。

 僕をこの地獄から救い出してくれ。静かでおだやかな、心の底から安らげる場所へ僕を連れて行ってくれ――

 突然近寄ってきた中年男の唐突で場違いな願いに、女神は狼狽する素振りも怯える表情も見せなかった。死病に蝕まれた患者の呻き声を聞く看護師の視線を沢渡の方に向けてきた。張り詰め、悲哀を湛えていながらも相手と同化しようとする意志を持った包容力のある視線だった。

 そんな彼女の美しさに沢渡は身を焼かれるような神々しさを覚えた。1年前、この女性と会ったとき、顔の特徴の無さから彼女を「のっぺりぼう」と呼んでいたことを思い出し、彼はそんな自らを恥じた。 

 大丈夫ですよ。私はあなたとともにいます――

 女神の声が聞こえた。沢渡の涙腺が崩壊し、彼は女神の前で両手をついてひざまずいた。

 その彼の頭上で、禍々しい黒蜘蛛の8本の肢のうちの2本が伸びて超高層ビルの両脇をつかんだ。

 平たい板を何枚も重ねて作ってあるようなデザインのそのビルには、凹凸に沿って何層もの影が積み重なっていた。ビルの両脇をつかんでいた蜘蛛の肢は黒い稲妻となってそれらの影に浸透すると同時に、ビルが揺れ始めた。

 超高層ビルは真横にいくつかの亀裂が入り、船のような外観のビルに向かって倒れ込んできた。

 空中から瓦礫が降ってくる。女神とその足元にひざまずいていた沢渡に土砂降りの瓦礫が襲いかかった――






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