第27話  影の地獄絵図






 2台の覆面パトカーは制服警官を乗せた人員輸送車とともに石黒綾美が居る場所へと向かった。

 祝日の午後とあって街は人や車で溢れかえっていた。石黒綾美が居る場所は歩いてなら10分、車なら5分もかからないところだったが、車道が渋滞していてなかなか前へ進めない。

 沢渡は自分たちの到着が遅いために石黒綾美が立ち去りはしないかと苛立っていた。その一方で回帰者として何の力も発揮できない状態で石黒綾美と対峙して、志穂子を無事取り返せるのかまったく見通しが立たないことに不安を感じてもいた。

「室伏さん」

 隣りに座っている室伏が沢渡に呼ばれて振り向いた。

「現場に着いたら、すぐに後ろの輸送車にいる警官をすべて外に出して、石黒綾美の周囲を取り囲んでください」

 室伏は無表情にうなづいたが、ハンドルを握る沖田刑事が訝しげに眉をひそめるのがバックミラーに映っていた。

「石黒綾美の目当ては私です。あの女が警察におとなしく協力するはずはありませんからね。おそらく私の姿を見かけたら即座に私を拉致して逃げ出すでしょう。そうならないように阻止してほしいんです」

 今の自分は『回帰者』ではない『回帰不能者』、単なる一般人も同然なのだ。時間が経てば『影炎』が蓄積されて回帰することができるのだが、以前このような状態になった時、回帰できるようになるまで数日を要した。

 今、石黒綾美に『傀儡』を使われたらひとたまりもないだろう。みすみすあの女に連れ去られるのは御免だった。警官8人であの女を牽制できるかどうかは分からないが、拳銃で武装した警官が相手ではあの女もさすがにおとなしくせざるを得ないだろう。

 15分ほどかかってようやく3台の警察車両は目的地に到着した。片側3車線の広い道路の両側に高層ビルやこぢんまりとした雑居ビル、中程度の高さのビル、平屋の商店や飲食店などが並ぶ大通りだった。

 石黒綾美は廃業した宝石店の前に立っていた。

 宝石店は古代ギリシアの神殿を思わせるようなファサードの白い店舗で、廃業してしまってはいるものの移転や取り壊しがまだおこなわれておらず、営業中だった頃の佇まいを保っている。両側には小さいが小綺麗な2階建てのカフェバーと建物一棟がまるごと書店になっている7階建てのビルがあった。

 2台の覆面パトカーと人員輸送用の青いバスは路肩に停車した。覆面パトカーのリアシートの窓はスモークガラスなので外から中が見えないようになっていたが、白いワンピースを着た中年女が宝石店の前に立っているのを目にした沢渡は身を低くして石黒綾美に見つからないようにした。室伏と加藤がそれぞれ乗っていた車のドアを開けて歩道に降り立つ。

 沢渡はヒラメかカレイのように頭を低くして後ろの青いバスの方を見た。バスの扉は閉まったままで警官は誰一人出て来ない。

 沢渡の要求を無視しているのか、それともまだ早いと思っているのか武装した警官を出動させる指示はまだおこなわれていないようだ。

「後ろの車に居る警官隊を出動させてください」

 沢渡は運転席に座っている沖田に言った。

「警部の指示が無いと駄目だな」

 沖田は胡散臭そうな目つきで沢渡を眺めて言った。一応、室伏警部の言う通りに行動してはいるが、沢渡のことを信用していないのだろう。何かあれば即座に彼を押さえ込むつもりでいるにちがいない。沢渡は自分が重要参考人であることをあらためて意識せざるを得なかった。





 覆面パトカーから降りた室伏は加藤刑事とともに歩道を行き交う人込みの間を泳いで石黒綾美に近づき、声をかけた。

「石黒綾美さんですね?」

 白い神殿のような建物の前に立つ白いワンピース姿の石黒綾美は巫女か占い師のように見える。室伏は石黒綾美を安心させるつもりで柔らかく微笑みながら、加藤刑事とともに身分証明書を提示した。

「お忙しいところを申し訳ございません。電話でもお話した通り、沢渡和史という男があなたにこだわる理由についてお聞きしたいので、御同行願えますか」

「沢渡さんを連れてきてくださるとのことでしたが」

 それには答えず、室伏は言った。

「実を申しますと彼は重要参考人ではなく警察署を破壊した容疑者として確保されました。これから大阪府警察本部へ連行して事情聴取をおこなうことになっています。何しろ私が勤務している署の建物があんなことになってしまいましたから、府警本部で間借りをして捜査をおこなっているというようなありさまでして」

「沢渡さんと会わせてください」

 石黒綾美は素っ気なく言った。

「石黒さん。ここでは無理です。とりあえずあなたも我々に御同行いただき、府警本部であなたのお話を聞かせてもらってから…」

「今すぐ沢渡さんに会わせてください」

 鋼鉄の硬さと冷たさを持つ声でそう言いながら石黒綾美は覆面パトカーの方を見た。室伏は石黒綾美の異様なリアクションに不吉なものを感じた。電話では石黒綾美は沢渡のことを面識が無いと言っていたはずだ。それなのにこの反応はどうだろう。

「沢渡さん、いるんでしょ? 出てきなさいよ!」

 石黒綾美がヒステリックに叫びながら覆面パトカーに向かって歩き出した。歩道に居る雑踏のうちの何人かが妙な雰囲気に気づいて立ち止まった。包帯姿の男と何か叫んでいる中年女。その光景はトラブルのニオイを芬々と漂わせている。

 『X』を代入した『Y』をさらに『Z』に代入する時なのかもしれない――室伏はとまどいながらも人員輸送車の運転席にいる警官に目で合図を送った。輸送車のドアが開き、警官が降りてくるのを確認しながら、室伏は石黒綾美に近寄った。

「石黒さん。落ち着いてください」

 彼女の前に立ちはだかろうとした室伏の影に石黒綾美の影が触れた。大きな蜘蛛の影だった。

 室伏の体が突然、宙に浮いた。

 何が起きたのかわからないまま、室伏は数メートル真横に飛ばされ、そこに置いてあったカフェバーの置き看板に激突して倒れ込んだ。

 雑踏がざわめき、驚いた加藤刑事が倒れた室伏に駆け寄った。

「警部!」

 苦痛に呻く室伏の顔は蒼白になっていた。顔色が悪いのは苦痛のせいではない。巨人の手で放り投げられた感じがした。唐突に全身へ得体の知れない力が加わり、跳ね飛ばされたのだ。沢渡の話を敷衍するような体験に室伏はショックを受けていた。

 「制圧しろ」

 地面に座り込んだまま室伏は駆け寄った加藤刑事に命じた。

「は?」

「聞こえなかったのか。制圧するんだ」

「制圧する?」

「石黒綾美を制圧しろ」

 室伏の奇妙な指示に戸惑いながら、加藤刑事は石黒綾美に追いつくとその肩に手をかけた。

 覆面パトカーの方へ向かう石黒綾美を阻止しようとした彼の体が風圧のない強風に吹き飛ばされた。車道に飛び出た加藤刑事の前にちょうど運送会社のトラックが突っ込んで来て、鈍い音を立ててその体を跳ね上げる。

 路上に転がった加藤刑事の首が不自然な形に曲がっていた。後頭部が左の肩甲骨に密着しそうになっている。死んだ魚のような虚ろな目で路面を見つめる顔に生気はない。首の骨が折れたらしい。

 人員輸送車から出て来た警官たちは唖然としてその光景を見ていたが、そのうちの一人がいきなりロケットのように飛び上がった。空に向かって数秒間上昇し続けてから唐突に落下する。歩道に激突した警官の体から血液と臓物が四散し、その場にいた通行人の顔や衣服にへばりついた。

 人込みが一斉に悲鳴を上げながら放射状に逃げ惑い始めた。うっかり車道に飛び出して加藤刑事のように車に跳ねられる者もいる。

 室伏は歯を食い縛りながら立ち上がった。脇腹が痛い。肋骨が折れているのかもしれない。痛みを堪えながら室伏は狼狽する制服警官たちを叱咤した。

「その女を制圧しろ! 発砲しても構わん!」





 沢渡はスモークガラスを通してその光景を見ていた。

 室伏が弾き飛ばされ、若い刑事の方は車道に投げ出されたようだ。後ろの青いバスから出て来た警官のうちの一人の姿が突然見えなくなり、しばらくしてから歩道の上に何か赤いものが音を立てて散らばった。

 閉じた窓を通して悲鳴が聞こえる。何が起きているのか想像はついた。

 石黒綾美が暴れているのだ。

 恐怖に駆られた沢渡は覆面パトカーから逃げ出そうとしたが、運転席に居る沖田刑事は沢渡が逃走するのを警戒して車から出ようとはしない。沢渡が何を言っても聞く耳は持たないだろう。

 沢渡は後部座席に座ったまま覆面パトカーの窓ガラス越しに外の光景を見続けるより仕方なかった。

 室伏に叱咤された警官たちは状況がよく飲み込めないまま、着装していた拳銃を抜くと石黒綾美を取り囲んだ。お互いに顔を見合わせながら、何と言って良いかわからず、一番年嵩の警官がとりあえず「動かないでください」と言う。

 警官たちは全員が両手で構えた拳銃を石黒綾美に向けていた。その様子を見ていた沢渡の脳裏に小学生の頃に見た特撮ドラマのワンシーンが蘇った。

 30分枠の一話完結のドラマだったが、宇宙人の作った地球侵略用のロボット怪獣が東京の街を破壊するという超大作映画並みのドラマだった。そのドラマの終盤で宇宙人が物体の動きをコントロールする機械を使って数名の警官を全員射殺するシーンが出てきた。

 宇宙人はその機械を使って警官たちが持っていた拳銃を奪って操り、宙に浮いたその拳銃が一斉に火を吹いて警官が全滅してしまった。当時、まだ6歳ぐらいの少年だった沢渡の脳裏にそのシーンが焼き付いていた。

 石黒綾美がそれと同じことをする――沢渡にはそんな気がした。だが実際に起きたことは沢渡の予想とは微妙に異なっていた。

 石黒綾美の足元に淀んでいる蜘蛛の影が肢を伸ばし、彼女を取り囲んでいる警官たちの影を捕らえた。そしてその直後、警官たち全員が奇妙な声を上げ始めた。ある者は唸り声を発し、ある者は「え? ええっ?」と焦りと困惑の混じった声を上げ、ある者は恐怖に怯えた喘ぎ声を出した。

 石黒綾美の『傀儡』によって操られた警官のうちの1人が、拳銃を持った手を震わせながら自らのこめかみに突きつけた。その真向かいに居る警官が口を開けて拳銃の銃口をその中へ突っ込んだ。彼の隣の警官は銃口を自分の眼球に突きつけている。その斜向かいに居る警官が隣の警官の心臓を狙って銃を向け、相手もその警官の額を狙って拳銃を向けていた。一番年嵩の警官は唸り声を上げながら自分の首筋に銃口を当てている。

 石黒綾美が「せーの!」と言った直後、一斉に「パンッ!」という発砲音が響いて警官は全滅した。路上に崩折れた彼らを一瞥した石黒綾美は、気狂いじみた哄笑を発しながら沢渡が乗っている覆面パトカーへ向かって歩を進めた。

「そこにいるんでしょ、沢渡さん。室伏って刑事さんの影を覗いたからわかってるのよ」

 警官が全滅する様子を見た沖田刑事は絶句していた。しかし依然として彼はそれが石黒綾美の仕業だということに考えが及んでいなかった。

 とはいえ、さすがに尋常ならざる状況だと察した沖田刑事は運転席から外に出たが、歩道の縁石に足をかけた途端、体を縦方向に引き裂かれた。バケツ一杯分の出血とともに沖田刑事の右半身と左半身は鋏が開くように反対方向に倒れ込んだ。





 沢渡の乗っている覆面パトカーが突然激しく揺れ、リアシートのドアが吹き飛んだ。パトカーの影を掴んだ石黒綾美がパトカーのドアをもぎ取ったのだ。

 石黒綾美の足元にうずくまる黒い蜘蛛は肢を伸ばし、パトカーに乗っていた沢渡の影を掴んで彼を路肩から歩道に引きずり出した。

「ほう〜ら、捕まえたっ」

 石黒綾美が無邪気な声で笑う。地面に突っ伏した沢渡は顔を上げると、歩道の惨状を見て悲鳴を上げた。

「おまわりさんに守ってもらおうなんて、甘ったれるんじゃないわよ。まるでガキ大将と喧嘩するのが怖くて親を連れて来たいじめられっ子みたいじゃない」

 小馬鹿にしたように言う石黒綾美の顔をブルブル震えながら沢渡は見上げた。

 石黒綾美の白いワンピースのところどころには、彼女の『傀儡』の餌食になった犠牲者の血が飛び散って付着しており、その姿はまるで手術衣を着用した外科医だった。邪悪な外科医は黒くて大きな蜘蛛を従えており、蜘蛛の肢のうちの一本が沢渡の影に絡みついていた。

「さぁ行くわよ。もうこれ以上世話を焼かせないで頂戴」

 影を操られ、沢渡は引きずり起こされた。石黒綾美は歩道を電車の駅が有る方へ向かって歩き出し、そのあとをギクシャクとした動きで歩む沢渡が続いた。

「嫌だ……俺は行かない」

 ゾンビのような歩き方をしながら聞き取れないほどかすれた声で沢渡は言った。

「死にたくない……化け物になるのは御免だ……『影合わせ』はやらない……」

 石黒綾美はもはや警察のことなど意に介していない。機動隊が押し寄せてきても皆殺しにして自分を連れ去るだろう。そして無理やり影合わせをやらされた自分は、どうせ死ぬか化け物のような姿になるしかないのだ。

「助けてくれ……見逃してくれ……」

 もはや沢渡には志穂子を助けることなど二の次になっていた。自分が助かりたい一心で石黒綾美に哀願した。この場から逃げ出したい――それしか頭には無かった。

「いいかげんにしなさいよ!」

 突然、石黒綾美が振り返って喚いた。

 覚悟を決めることができない往生際の悪い男に石黒綾美は苛立っていた。ガーレンの影の力を手に入れるという自分の目的に非協力的な沢渡への激しい怒りで彼女は荒れ狂っていた。

「そんなに嫌なら、今ここで死んでもらうわ」

 石黒綾美は警察の人員輸送車の方に目を向けた。青いバスの運転席で運転手として残っていた警官が無線機に向かってものすごい形相で話し続けている。現場が想像を絶するような修羅場になっていることを報告し、府警本部に応援を要請しているのだろう。

 蜘蛛の肢を使って沢渡の影を掴んでいた石黒綾美は、別の肢を青いバスの影に向けて伸ばした。

 バスが宙に浮いた。バスは斜めに傾き、そのまま静かに上昇していく。現実離れした気味の悪い光景だった。

 路上に映っている青いバスの影には蜘蛛の肢が喰い付いていた。バスの影は徐々に小さくなり、それと比例するようにバスは上へ上へと昇っていく。運転席にいた警官が座席にへばりついて顔をこわばらせている。

 やがてバスは30メートルほどの上空で静止した。書店のビルの屋上とほぼ同じ高さに青いバスは浮いていた。

「どうしても影合わせを拒否するのなら、ここであの車の下敷きになってもらうわ」

 石黒綾美は沢渡をむりやり歩かせてバスの真下の位置に移動させた。石黒綾美が本気で自分を殺すつもりだということを沢渡は悟った。

 沢渡は周りを見た。

 近くには警官の死体が散らばり、雑踏は逃げ去り、彼のそばには誰もいなかった。少し離れた位置からスマホを片手に警官の死体や宙に浮いた人員輸送車を撮影している者が何人かいたが、沢渡の方には目もくれていなかった。

 全身にたわめていた力を抜くように、浮いていた人員輸送車が不意に落下した。加速度を付けながら沢渡に向かって垂直に突進してくる。スマホで撮影をしていた連中が慌てて逃げ出した。

 殺される!――

 そう思った瞬間、沢渡の体は横っ飛びに跳ねていた。すぐそばの街路樹に抱きつくようにして倒れ込む。

 沢渡は激しい破砕音とともに地上に激突した青いバスのボディが紙のように歪むのを見た。窓ガラスが割れ、タイヤが外れて転がってくる。沢渡は樹の向こう側に回り込み、転がって来たタイヤからすんでのところで身をかわした。タイヤは樹にぶつかって方向を変えると、書店の1階のショーウインドウのガラスを破り、中に突っ込んで止まった。書店の客か店員の悲鳴が聞こえた。  

 青いバスはクシャクシャになって横たわっていた。運転席にいた警官は路上に投げ出されてグッタリとしている。

 いったい何が起きたのか。沢渡が足元の影を見ると、それはヤモリの輪郭を結んでいた。

 回帰している――

 全身が局所麻酔薬を注入されたように麻痺していた。どうやら回帰に必要なだけの影炎が知らぬ間に蓄えられ、しかも無意識のうちに回帰していたらしい。とはいえ、いったん影炎が枯渇するとその量が最低限のレベルに達するまで数日はかかるはずだ。それがなぜこんなに早く――

 不可解なことはまだある。沢渡の影に石黒綾美の影はまとわりついてはいなかった。自分の影は石黒綾美の影に捕まっていたはずだ。強大な石黒綾美の影に沢渡の影が逆らうことなど不可能なはずなのだ。

 沢渡は命拾いした喜びよりも自分がなぜ助かったのかが不思議で仕方なかった。

 石黒綾美も同じようなことを感じていたようだった。顔をしかめながら沢渡とバスの方へ交互に視線を向けている。

 沢渡は街路樹に寄りかかるようにして立ち上がると、転倒しそうになりながら石黒綾美から逃げ出した。

 逃げる沢渡に気づいた石黒綾美は彼に向かって影を伸ばした。沢渡の影が石黒綾美の影に捕まり、沢渡は立ち止まった。


 ―― 何をしたの? ――


 『傀儡』を使って沢渡を固めたまま、石黒綾美はなぜ彼が人員輸送車から逃げおおせたのかを影の中で尋ねた。沢渡自身にもそれはわからなかった。





 石黒綾美は沢渡の影を見た。沢渡が回帰していることに気づいた石黒綾美だったが、『採掘』によって手に入れた天文学的な量と規模を有するエネルギーを『影炎かげろう』として使える自分に、沢渡が歯向かえるはずが無かった。石黒綾美は横断歩道のところでやったように沢渡から『影炎』を奪い取り、彼の影を無力化するために『採掘』をおこなおうとした。

 その沢渡の影が突然、変形した。無限大を示す記号のような形状に歪むと、2つに分離したのである。

 分離した一方は沢渡の体と密着していたが、もう一方は石黒綾美の影に捕まったまま歩道の上に澱んだ。そして2つの影は再びヤモリの形に変わった。

 影の分身化現象だった。敵に捕まったヤモリが自ら尾を切って逃げる習性――自切行為のようなものだった。石黒綾美の自宅の地下室で起きたことが再び起きたのだ。さっき沢渡が人員輸送車の下敷きになるのを免れたのも、この分身化現象によって沢渡が石黒綾美の影から解放されたがゆえのことだったのだろう。

 そのことに気づいた沢渡は再び逃げ出した。

 沢渡が逃げ去る姿を見て石黒綾美もようやく同じことに気づき、自分が掴んでいる抜け殻のような影から自分の影を切り離した。沢渡とともにその場から逃げ去ろうとする影に向かって自らの影を伸ばす。さっきまで石黒綾美の影に捕まっていたは、歩道の路面に染み込んでいくように急激に色褪せ、消えていった。 

 矢の速さで伸びた黒蜘蛛の肢が沢渡の足元の影に突き刺さり、沢渡はまたしても逃げ足を封じられ、立ち止まった。


 ―― 待ちなさい! 逃がしはしないわよ! ――


 石黒綾美の怒気に満ちた声が沢渡の頭の中で響いていた。しかし次の瞬間、沢渡の影が無限大記号のようによじれて分身化を引き起こすと同時に、その声は聞こえなくなった。三たび体の自由を取り戻した沢渡は逃げようとする。その沢渡の影を石黒綾美が捕まえ、彼の動きを止める――

 そんなことが何度も繰り返された。

 沢渡の頭の中には石黒綾美から逃げることしか無かった。逃げるという断固たる意志、逃げることを至上命題とする強力な情念が、沢渡の影に分身化現象を引き起こしていた。それは何かを排泄するような感覚――排便や排尿を想起させる奇怪な感触を伴っていて、慣れれば快感に通じるものが有るのかもしれないが、あまり気持ちの良いものではなかった。

 そればかりではない。沢渡は逃げようとすればするほど影の中に影炎が等比級数的に蓄えられていくのを感じていた。

 いったん枯渇した影炎が回帰に必要な量まで蓄積されるには数日間かかるはずだが、沢渡の「逃げたい」「逃げなければならない」「逃げざるを得ない」という意志や情念が影炎の蓄積を飛躍的に早めていたのである。沢渡の影にとって「逃げる」ことは影炎を短時間で蓄積させる急速充電器のようなものだった。

 死体の散らばった歩道上でおこなわれる滑稽な路上パフォーマンスは数分間続いた。駆け出しては止まり、駆け出しては止まり、ということを繰り返していた沢渡だったが、少しずつ確実に石黒綾美から遠ざかっていく。

 沢渡の影が次第に力を付けていくことに気づいた石黒綾美はさすがに焦りを感じ始めていた。このままでは沢渡をまんまと取り逃がしてしまうだろう。

 彼女は奥の手を使うことにした。





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