第25話  影の罠






 志穂子の携帯電話から発せられた石黒綾美の邪悪な声を耳にして動揺し、沢渡は表通りから人目の付かない裏通りの方へ向かって歩いた。

「なぜおまえが志穂子のケータイを持っているんだ?」

 沢渡は歩きながら押し殺した声で言った。

「そっちこそ誰のケータイでかけてきたのよ?」

 石黒綾美は悠然と言った。

「そんなことはどうだっていい。質問に答えろ」

「あら、ひょっとして他人様のケータイかしら。盗んだの? それとも強引に奪ったのかな?」

 からかうような石黒綾美の口調に苛立った沢渡は声をひそめながら唸るように言った。

「警官から盗んだ。『消し染め』を使ってな」

「そんなことをして大丈夫なの?」

「僕は今テロリストとして追われている。逃げるためなら何だってやるさ」

 石黒綾美はアウトローを気取ったような沢渡のセリフを鼻で笑った。

「はぁ? そんなこと言ってるんじゃないわよ。警官のケータイなんだから、何かあったときのために現在位置を知らせる発信機みたいなものが仕込んであるんじゃないの? スマホだったらそういうアプリがインストールされてるかもよ」

 迂闊だった。だがうろたえていることを知られまいとして沢渡は声を荒らげた。

「黙れ! おまえだろう! 僕になりすまして犯行声明みたいなことをやったのは!」

「あら、よくわかったわね」

「志穂子のケータイをどこで手に入れたんだ! 答えろ!」

「あたしが手に入れたのはケータイだと思ってるわけ?」

「なんだって?」

 石黒綾美の言葉の言外の意味に思い当たり、沢渡は気味の悪い脱力感に襲われた。すぐ近くの電柱に手を当てて体を支え、なんとかして気分を落ち着かせようとする。

「志穂子は…無事なのか……」

 それを唱えると人類が滅びてしまう呪文を口にするかのように、沢渡はおずおずと消え入りそうな声で言った。

「心配しないで。奥さんは元気よ。わたしの夫が持っていた別荘の部屋の中でおとなしくしてもらっているわ」

 志穂子は石黒綾美に拉致され、どこかに監禁状態になっているらしい。とりあえず志穂子が無事だと聞かされて落ち着きを取り戻した沢渡だったが、自分に殺人やテロ行為をおこなう凶悪犯罪者だという汚名を着せたばかりか、志穂子を拉致して退路を断ち、逆らえないようにしておくという石黒綾美の徹底した容姿周到さに寒気を覚えた。

「その別荘はどこにある? 教えろ」

「教えるわけないでしょ。それよりどうなの? 私のところへ戻っておとなしくガーレンの『影合わせ』をしてくれるのかしら。そうしてくれるというのなら、奥さんを自由の身にしてあげてもいいわよ」

 志穂子を「人質」にするつもりなのだ。石黒綾美の卑劣なやり方と理不尽な言い草に沢渡は怒りを覚えるよりも呆れ果てていた。だがそのことがかえって沢渡を冷静な思考に向かわせた。

 自分が石黒綾美の言いなりになってガーレンの影合わせをおこなっても、志穂子が解放されるとは限らない。それに仮に解放されたとしても、影合わせによって自分が命を失うようなことになれば元も子もないだろう。また影合わせが成功してもそれで自らの肉体が変わり果てた姿になれば、志穂子は自分から遠ざかってしまうに違いない。

 そして何もかも無事に影合わせが済んだとしても石黒綾美の『傀儡』によって影をコントロールされたままの沢渡は、死ぬまで石黒綾美の言いなりになって生きていかなければならないのだ。そんな状態で志穂子と復縁をすることなど想像もできない。

 取り引きには応じられない。沢渡は自分に言い聞かせた。

 しかし志穂子には会いたい。なんとかして彼女を取り戻さなければならない。石黒綾美が持ちかけた取り引きは志穂子を取り戻すチャンスでもある。

「僕が影合わせをすれば志穂子を解放してくれるのか? その言葉に嘘はないな?」

「疑うのならそれでもかまわないわ。今すぐにでもこの電話を切ればいいわよ。そのかわり奥さんが海の中や山の奥で見つかることになるかもしれないわね」

 石黒綾美は恐ろしいセリフを吐いた。





 沢渡は念のため自分の影に何も取り付いていないことを確認してから、素早く頭を回転させた。

「どうするの? 影合わせをするの? しないの? 今すぐ答えてっ」

 石黒綾美が問い詰めてくる。沢渡は考えながら喋った。

「影合わせはする。ただし条件がある」

「条件? 何よ条件って?」

 不信感と苛立ちの混じった声で石黒綾美は言った。

「影合わせをする前に志穂子と会わせてくれ。もう二度と会えないことになるかもしれないから」

「二度と会えないって、大げさね。死んだり怪物になったりしないから大丈夫よ」

 石黒綾美の小馬鹿にしたような笑い声が聞こえた。

「それから僕と会ったあと、志穂子を自由の身にしてくれ。あと、もうひとつ。会う場所と時間は僕が指定する。この条件を全部のんでくれるのなら影合わせをしてやってもいい」

 電話の向こうが沈黙した。沢渡は石黒綾美が難色を示すのではないかと気が気ではなかった。もし彼女が沢渡の申し出を拒否したら万事休すだった。

「仕方ないわね」

 不機嫌そうな石黒綾美の声がした。

「いいわよ。それで、いつどこで奥さんに会わせてあげればいいのかしら」

「あとで連絡する」

「あら、時間稼ぎでもするつもり? まぁいいわ。できるだけ早く連絡して頂戴。さもないとわたしの気が変わっちゃうかもよ。それと…」

 石黒綾美は地の底から這い上がってくる亡者のような声で言った。

「奥さんといっしょに逃げようなんて思わないでね。わたしもその場に立ち会うつもりだから」

「わかってる」

「ところで、どうやってあたしの『傀儡』から逃れることができたの?」

 石黒綾美の自宅の地下室でガーレンの影合わせをおこなったときのことを言っているのだ。

「どうやってと言われても…」

 沢渡は困惑した。彼自身、なぜ石黒綾美の傀儡から自分の影を解き放つ事ができたのかわからなかった。ただ、とにかくあの場から逃げ出したいという思いが強かったことは覚えている。

 そう言えば、自らの影の分身のようなものをその場に残していたはずだ――

「影が残っていただろう。僕の影が。あの影に影合わせをさせれば良かったんじゃないのか?」

 もし自分の影に分身を作る能力があるのなら、その分身に影合わせをさせれば良い。それなら沢渡自身に命の危険や変身のリスクは及ばない上に石黒綾美の望みも叶う。それで万事解決だ。自らの思いつきに興奮した沢渡だったが石黒綾美は冷めた声で言った。

「確かにあれはあなたの影の分身みたいなものだったけど、『影添かげぞい』が無い影にガーレンの影合わせをさせるのは不可能だわ」

 『影添』とは影の原因となる物体のことであり、人間の影の場合、その人間の肉体が『影添』にあたる。

 影は『影添』なしでは存在することができない――それは影が回帰者の影であろうとごく普通の人間や物体の影であろうと同じだが、回帰者の影の場合は『影添』が失くなってもそのままの状態で存在し続けることが可能だ。

 ただしあくまでもそれは一時的なものだった。影自体の持つエネルギーによってその時間の長さに差はあるが、その時間内に『影添』を何らかの形で元の状態に修復するか、新しい『影添』に乗り換えるかしなければ自然消滅してしまう。つまり影としての「死」を迎えることになるのだ。

 沢渡の影の分身は『影添』を失った影のようなものだった。そのため分身が沢渡自身の影として役目を果たせるのはごく短時間でしか過ぎない。

「じゃあ、どうしても僕自身が影合わせをしなければならないのか」

 石黒綾美の話を聞き、沢渡は肩を落とした。

「とにかく、わたしの言う通りにして頂戴。そうすればあなたの奥さんを無事に解放してあげるから」

 石黒綾美はビジネスライクな口調で沢渡をとりなした。

「わかったよ。また連絡する」

 沢渡は電話を切った。





 石黒綾美と取引することを決めた沢渡だったが、実際には取引するのではなく、取引すると見せかけて志穂子を取り戻し、2人で逃げるつもりだった。しかし石黒綾美がそんなことをむざむざと許すはずがない。

 力ずくで志穂子を取り返すか、騙して志穂子を連れ去るかしなければならないだろう。そのいずれも今の沢渡には極めて困難なことだった。

 人家や飲食店が混在する狭い裏通りを沢渡は歩いていた。人通りは少なかったが住宅の窓や商店の看板などの明かりのせいで、沢渡の顔は人目につきやすかった。沢渡の店や自宅がある地元の街なので、顔見知りに出会う可能性があるし、警官に見つかれば逮捕されるかもしれない。服装は仕方ないとして容姿だけは変えておいた方がいいだろう。

 自動販売機の陰に隠れて沢渡は影型を20代の頃に変え、肉体を若返らせた。くたびれた濃紺のジャンパーやよれよれのカッターシャツとスラックスは20代の彼の体には窮屈だったが、顔や頭髪は現在の彼とは見違えるほど若々しくなった。これならどうにか警察の目を欺けそうだ。

 野々村という刑事のスマホは捨てた。いまいましいが石黒綾美の言う通り、警官のスマホを持ち歩くのは危険だった。石黒綾美に連絡をするときは、どこかで警官以外の人間のスマホを手に入れることにした。

 沢渡は裏通りから表通りに出るとバス停を探した。とりあえず地元から離れなければならない。最寄りのバス停を見つけると、そこへ行ってバスが来るのを待った。

 バス停には沢渡以外に誰もいなかった。沢渡はバスの到着を待ちながら、どうすればいいかを思案していたが、これといった策は思いつかない。石黒綾美と自分との間には回帰者としての経験も力も圧倒的な差がある。石黒綾美は今、その影の中に大型タンカーを宙に浮かせるぐらいのエネルギーを蓄えていると言っていた。あの女と対等に張り合うにはそれと同じぐらいのエネルギーを自分も蓄えなければならない。

 沢渡も『採掘』を使えるようになってはいたが、川石市のダムで石黒綾美がやったような莫大な位置エネルギーを得るほどのレベルには達していなかった。それにわざわざダムへ行く余裕など無い。一刻も早く志穂子を助け出さなければならないし、取引の時間を引き伸ばせば石黒綾美の機嫌を損ねたり警戒心を抱かせたりしてしまうだろう。

 沢渡は車道に視線を向けた。

 道路照明灯の光を浴びた車両が行き交い、黒い絨毯のような自らの影に乗って路面を滑って行く。

 沢渡はその黒い絨毯のうちの一つに、回帰した自分の影を伸ばして触れた。

 『採掘』を使った。進行方向へ向かう車両の運動エネルギーが、沢渡の影の中に暖かい渓流となって染み込んでくる。しかし車両とともに黒い絨毯は遠ざかり、沢渡の影はいつまでもその絨毯に触れていることができなくなったため、渓流の柔らかい熱は不意に途切れた。

 沢渡が手に入れたエネルギーは微々たるものだった。この程度では石黒綾美とまともに戦えるはずもない。

 力技が使えないなら、騙すしか無い。だがあの女がやすやすと騙されるとは思えない。

 焦る沢渡の前をヘッドライトの光芒がいくつも通り過ぎていった。






 大阪府の都心の繁華街にある某百貨店の前に沢渡はいた。

 祝日の昼過ぎで、人通りが激しかった。百貨店に繋がっている歩道橋とJRの架道橋とに挟まれた横断歩道の信号が青になり、雑踏が行き交っている。その雑踏の間から秋の午後の肌寒い風が吹き付けて来て、沢渡は羽織っていたジャンパーの襟の中に首をすくめた。

 ちょうど一年前の今ごろ、ここで立っていたことを思い出した。あの日、人込みを見ながら立っていた沢渡は、そのあとコンコースを抜けて猥雑な感じのする商店街へ向かった。その商店街で石黒綾美に出会ったのだ。

 沢渡はスマホの時計を見た。指定した時刻は午後2時だった。あと15分少々だ。空は晴れ渡り、陽射しが眩しいくらいだった。

 スマホは他人のものだった。昨夜、警官が使っているスマホを持っていたら現在位置を知られるかもしれないということを石黒綾美に言われたので、持っていた野々村という刑事のスマホは捨てた。

 そのあと、バス停にいた沢渡はバスに乗るためにやって来たサラリーマン風の中年男に『消し染め』を使い、男の手からスマホを抜き取った。沢渡のそばでメールを読んでいたその男はキョロキョロとあたりを見回して自分の手から突然失くなったスマホを探していたが、どこかに置き忘れたのだと思い込んだらしく、慌ててバス停を立ち去って行った。

 沢渡はそのスマホを使って石黒綾美に電話をかけ、明日の午後2時にこの場所で志穂子に会わせてくれと言った。石黒綾美にこの場所を指定したのは人通りが多いという単純な理由からだった。人目の多い場所なら石黒綾美もおいそれと派手なことはできないだろう。それは沢渡にとって何かと有利だった。

 その他にどんな条件がいいかいろいろと考えたが人質救出のプロや民間軍事会社のネゴシエーターではない沢渡には、こういった場合どんな場所を選べば良いかなどまったくわからない。そして人通りが多い場所は他にもたくさんあるが、多すぎて選びようがなかったので結局ここにしたのだった。

 箕雄市の「シャンブロウ」という喫茶店で石黒綾美と会ったときのことを思い出した。あのときも緊張していたが、今はそれ以上の緊張にさらされている。時刻が2時に近づくにつれて否応なしに心臓の鼓動が高まり、手の平に脂汗が浮かんできた。

 沢渡はいったんその場を離れて近くのトイレへ行くと個室に入って影型を元に戻した。昨夜、警察に確保されるのを恐れてバス停へ行く前に容姿を20代に変えてからずっとそのままだった。志穂子と会ったとき、20代の姿のままでは彼女が戸惑い、混乱するかもしれない。

 できるだけ人目につかないようにしながら現在の50代の姿で百貨店の前に戻って来た沢渡はスマホの時計を見た。あと一分足らずで2時だ。30分前にここへ来てから17回目になる時刻の確認をおこなった沢渡は、何気なく横断歩道の向こう側を見て目を大きく開いた。

 胸の鼓動が激しくなる。恐怖からではなかった。志穂子が横断歩道の向こう側に立っていたのだ。

 歩行者側の信号はまだ赤だった。沢渡は今にも走って横断歩道の向こう側に行きたくなる衝動をかろうじて抑えた。そのじれったい気持ちを察したかのように信号はすぐ青になった。雑踏が一斉に動き出す。沢渡は駆け出した。

 志穂子は戸惑っているのか怯えているのか強張った顔をして沢渡の方を見て立ちすくんでいた。人込みを縫いながら横断歩道の中間まで足早に進んだ沢渡は、志穂子が今まで着たこともないような白いワンピースに身を包んでいることに気づいた。

 とっさに立ち止まったが遅かった。

 志穂子の足元の影が大きな蜘蛛の形になり、そこから糸のように伸びた影が光速の矢となって沢渡の足元の影に食い付いた。

 。全身が動かない。白いワンピースを着た志穂子の顔はすでに石黒綾美の顔に戻っていた。


―― 馬鹿な人ね ――


 影を通して石黒綾美の笑い声が聞こえた。彼女の罠にかかったことを沢渡は悟った。


―― 約束が違うだろ! 志穂子に会わせろ! ――


 沢渡は影の中で吠えながら『回帰』した。黒い蜘蛛の糸に捕らえられた沢渡の影がヤモリの輪郭を結ぶ。


―― 心配しなくても奥さんにはあとでちゃんと会わせてあげるから、無駄なことはおやめなさいよ。わたしの『傀儡』から逃れられるとでも思ってるの? ――


 石黒綾美はなだめるように言った。大型タンカーを宙に浮かせるほどのエネルギーを『採掘』し、それを『傀儡』に利用している彼女にとって沢渡の影など蟻が蹴るほどのパワーしか無いはずだった。

 だが、思った以上に沢渡が抵抗するエネルギーは大きかった。石黒綾美は無理やり沢渡の回帰を終了させようとしたが、ヤモリの影は依然としてその輪郭を維持しており、しかもゆっくりとではあるが一歩、二歩と沢渡は着実に後退りして石黒綾美から遠ざかって行く。


―― あら、どこかで『採掘』をしたようね ――


 石黒綾美の声が怒りを含んでいた。沢渡の影に食い付いた黒い糸が押し返されるか、もしくはブチ切られようとしている。





 沢渡がおこなった『採掘』は、小さな『採掘』をいくつも何回も繰り返すという手法によるものだった。

 石黒綾美の影が蓄えている膨大なエネルギーに対抗するだけの大規模な『採掘』ができるほどの技術も時間的余裕も無かった沢渡は、車や電車を利用することを考えた。道路を行き交う車の影や線路を走る電車の影などに触れ、少しずつその運動エネルギーを『採掘』していったのである。「塵も積もれば山となる」「積羽舟を沈む」というわけだった。

 石黒綾美に伝えておいた待ち合わせ場所に行くまでに、沢渡は『採掘』が可能なエネルギーを片っ端から漁っていた。夜通しかけて沢渡は『採掘』を続けたが、最終的にどれほどの量が『採掘』できたかはわからない。おそらく石黒綾美に太刀打ちできるほどの量にはとても及んではいないだろうが、丸腰で石黒綾美と対峙するよりかはマシだろう。

 その甲斐あってか、石黒綾美の影は完全には沢渡の影を掌握できていなかった。傀儡を使って沢渡の動きを制御しようとするが、沢渡の影がそれに対して頑強に抵抗している。沢渡はジリジリと横断歩道から後退し、さっきまで自分がいた百貨店前の歩道まで戻ろうとしていた。

 沢渡は自分の影が強力な熱を発しているのを感じていた。『採掘』したエネルギーが活性化して熱を持ち、石黒綾美の『傀儡』に歯向かっている。しかも歯向かうときに生じる摩擦熱が加わり、沢渡は自分の影を黒い炎のように熱く感じていた。

 だがいかんせん、蓄えているエネルギーの量や規模に圧倒的な差があった。

 沢渡は自らが『採掘』によって蓄えた運動エネルギーが残り少なくなっていることを意識せざるを得なかった。しかも大量のエネルギーを一気に放出して仕掛けてくる石黒綾美の『傀儡』とそれに抵抗する沢渡の影とはパワーのレベルが格段に異なる。沢渡は自分の限界を感じ始めた。

 さきほどまで感じていた影の熱感がぬるくなってきた。少しずつヒンヤリとした触感が彼の影に泡立ち始め、その泡は穴となって何かが侵食されていくような不快感が沢渡を襲った。

 石黒綾美が沢渡の影に対して『採掘』を仕掛けてきた。沢渡の影の中に蓄えられていた運動エネルギーを自分の方へ吸収し、さらに沢渡の影そのもののエネルギーさえ自分のものにしようとしている。

 狼狽する沢渡の耳に「まもなく信号が赤に代わります――」という信号機のアナウンスが聞こえた。横断歩道を渡る歩行者の足取りが慌ただしくなる。にもかかわらず沢渡は歩道から2メートルほど離れたゼブラゾーンの白いラインの上で立ち尽くしていた。

 上半身は動かせるのだが両足がまったく動かない。そして沢渡が蓄えていた運動エネルギーが尽き、彼の足が石黒綾美のいる側に向かって踏み出そうとしたとき、沢渡は自分を呼ぶ声を耳にした。

「沢渡さん。危ないからこっちに来てもらえますか」

 沢渡は上半身だけで後ろを振り返った。頭と左手首に包帯を巻いた男が制服警官を両脇に従えて立っている。

 その地味なスーツに身を包んだノーネクタイの男の顔には見覚えがあった。

 室伏だった。

 周りを見回すと、いつの間にかいたるところに制服警官が立っている。彼らに混じって私服警官も何人か居るようだった。

 沢渡を追っている警察が彼を確保しようとここへやって来たのだ。

 





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