第22話  逃げる影





 楕円形の部屋の端には衣装ケースのようなプラスチック製の白い箱が置いてあった。石黒綾美は丸めて筒状にした大きな紙をそこから取り出すと、真正面の壁際まで歩いていった。そこには姿見に似た縦長のコルクボードがあり、石黒綾美は持っていた筒状の紙を広げると、そのコルクボードに押しピンで貼り付けた。

 紙にはガーレンの影型の輪郭線が描かれてある。

「これからわたしが『採掘』したエネルギーを活性化させるわ。あなたはガーレンの『影合わせ』に集中して頂戴。影合わせが完了してガーレンのエネルギーが活性化し始めたら私がそれを制御するわ」

「駄目だ、できない。僕は嫌だ!」

「あなたはもうやるしか無いのよ。それとも今ここで私に全身を握り潰されたいの?」

 石黒綾美は今まで見せたことのないような冷たい視線で沢渡を見た。

 もはや彼女に何を言っても無駄だろう。影合わせをした結果どうなるかはわからないが、醜い怪物に変身するかもしれないし、最悪の場合は命を落とすことになってしまうだろう。人間でない姿で生きながらえるぐらいなら死んだほうがマシだと沢渡は思った。この際、石黒綾美に逆らって死を選ぶ方が賢明なのではないだろうか。だが生きているよりも死んだほうがマシだとは、なんというみじめな状況だろうか。

 ポロポロと涙が自然とこぼれ落ちた。人間は死が間近になるとそれを悟って涙を流すものだ。これまで親や親戚の死に目に立ち会ったことのある沢渡は、彼らがいずれも臨終が近くなると目に涙をにじませているのを何度も見た。それが何を悲しんでのことなのかはわからなかった。あの世へ旅立つ自分に対する哀れさからか、遺していく親類縁者、友人知人たちへの別れを惜しんでのことなのか、それとも人の命の儚さを思ってなのかはわからなかったが、人は自らの人生の終わりを知ると泣くものだということを知った。

 彼らがどんな思いで涙を流し、死を迎えたのかはわからない。だが沢渡ははっきりと意識していた。今、生きることよりも死ぬことのほうがマシだと考えている自分が涙を流しているのは、自分に対する哀れさからなのだと。

 褒められた生き方をしてきたわけでもないし、常日頃から自分みたいな人間は世の中の役に立たない存在だからとっとと消えて失くなったほうが良いのだと思ってもいた。だがいざ死が身近なものになると、恐怖や無念さや自己憐憫が吹き上がってきて留まるところを知らない。

 誰からも囚われず、誰とも関わらず、一人どこかでひっそりと暮らしたい――死を間近に感じ、切羽詰まった抜き差しならない状況に陥りながらも、沢渡の心に漂白者のような場違いな思いが浮き上がってきた。沢渡は中学生の頃、似たような心境になったことがあるのを思い出した。

 内気で気弱な彼には今で言う引きこもりや登校拒否の傾向があった。学校にはいじめっ子のような連中もいて、沢渡にとっては学校へ行くということが苦痛以外の何物でもなかったが、当時は引きこもりや登校拒否などという言葉さえ無い時代だった。どれほど嫌であろうとも、学校へ行くことを拒絶するという選択肢は彼の中には存在しなかったのである。ならず者と鬼看守がいる刑務所のような中学校という場所へ、絶望感を我慢しながら沢渡少年は毎日登校していた。

 近所に同じ学校の同級生が住んでいて毎朝彼といっしょに登校することになっていた。その朝も彼が迎えに来て沢渡の家の玄関のところで立って待っていた。

 沢渡は二階にある自分の部屋でカバンに教科書や筆記道具を入れていた。「◯◯君が待っているからはやく学校へ行く支度をして降りてきなさい」という母親の呼び声が階下から聞こえてくる。

 支度を終えた沢渡はふと窓の外を見た。

 空が青く、白い雲が見えた。

 沢渡は不意に体を部屋の畳の上に横たえ、窓の外の景色を見ながら寝転んだ。

 自分が降りて来るのを階下の玄関で同級生が待っている。母親も朝の慌ただしい時のさなか、自分がいつ降りて来るのかとやきもきしていることだろう。

 それでも沢渡は寝転んだまま窓の外の空を見ていた。

 どうしてそんなことをしたのか。どうしてそんなことをするような気分になったのか、沢渡自身にもわからなかった。どこかそんな自分を面白がっているようなところもあった。世の中を舐めてかかっているようなふざけた呑気な気分に浸っていた。

 どのぐらいそうやっていたのかは思い出せない。ただ、母親のヒステリックな叫び声を聞いて飛び起きたのは覚えている。

「さぁ、早く『影合わせ』を始めるのよ!」

 石黒綾美の声が聞こえた。

 沢渡は唯々諾々と言われたとおりに影合わせを始めた。何も考えなかった。ただ回帰し、ヤモリのような輪郭に変わった自らの影を、コルクボードに貼ってある影型の中へ流し込んでいった。

 沢渡の影が影合わせを始めたのを確認すると、石黒綾美は目を閉じ、自らの影の中に備蓄されたエネルギーの活性化を開始した。沢渡は自らの影を覆っているヒンヤリとした感触が徐々に温かくなり、やがて熱を帯び始めたのを感じた。沢渡の影合わせが完了してガーレンのエネルギーが活性化するのに備えて、蓄えていたエネルギーを石黒綾美が活性化させている感触だった。

 ガーレンの影合わせも石黒綾美によるエネルギーの活性化も、沢渡にとってはもはや他人事になっていた。同級生を玄関で待たせて、母親をやきもきさせながら、畳の上に寝転んで窓から見える空を眺めている気分だった。ガーレンの影型へ流れ込む自らの影が、排尿中の小便のように見えた。実際に何かを排泄するような感覚があった。黒い排泄物だった。

 沢渡はボンヤリと自分の足元を見た。影があった。ヤモリの影だ。だがガーレンの影型を満たしているのは別の影だった。

 これはどういうことだろう。影が2つあるというのか。

 沢渡は目を凝らした。沢渡の足元にある影とガーレンの影型を満たしている影は別物だった。その後者に石黒綾美の影がまとわりついており、石黒綾美は目を閉じて精神を集中し、採掘したエネルギーの活性化をおこなっている。

 沢渡は手を動かしてみた。足を踏み出した。動ける。

 彼の影は石黒綾美の『傀儡』から解放されていた。

 いや、正確には石黒綾美の影に捕らわれている自らの影から分離したのだ。

 沢渡はもう一度自分の影を見た。

 ヤモリの影には何もまとわりついていない。沢渡は後退りをした。石黒綾美はエネルギーの活性化に精神を集中していて、沢渡の様子に気づかない。

 沢渡は気づかれないように忍び足で慎重に歩いた。石黒綾美から視線を外さないようにしてカニ歩きをした。この部屋とダイニングルームとを行き来する階段のところまで来ると、後ろ向きに階段を上がった。

 床ハッチに鍵がかかっていたが、中から開けられるようになっている。沢渡は音を立てないように鍵を解き、静かに床ハッチを開けて上に抜け出した。





 石黒綾美は異変に気づいた。

 とっくにガーレンの影合わせが完了しているはずなのに、沢渡の影にガーレンの影のエネルギーが流れ込んでくる気配がない。怖気づいた沢渡が影合わせを中断したせいだろう。言葉で脅しつけようか、それとも実際に傀儡で締め上げてやろうかと考えたとき、背後で何かが開閉するような気配があり、その直後に重いものがぶつかって来るような物音がした。

 すぐにでもそちらを振り返りたかったが、影の中で活性化したエネルギーを放置したまま行動するとエネルギーが暴走する危険性がある。石黒綾美は落ち着いて活性化を終了させ、静かにエネルギーの凍結をおこなった。

 沢渡が彼女の傀儡を振り切って逃げた気配は一切感じられなかった。自分の影の中に貯め込まれたとてつもないエネルギーに裏打ちされた傀儡が、沢渡の影をしっかりと捕らえ、制御しているはずだった。逃げられるはずはないのだ。

 だが石黒綾美が目を開いた先に沢渡の姿は無かった。ただ、石黒綾美の影に掴まれているヤモリのような形の影があるだけだった。

 ヤモリの影は石黒綾美の眼の前で見る見るうちに色褪せ、消えていった。石黒綾美は部屋の中を見回した。隠れる場所などあろうはずはない。何が起こったのかよくわからないが、沢渡はすでにこの部屋から逃走したのだ。石黒綾美は一階のダイニングルームとの行き来をする階段のところに駆け寄った。

 石黒綾美は床ハッチを開けようとしたが、びくともしない。おそらく沢渡が上に何か重石を置いたのだろう。

 床ハッチで閉じられた階段の部分は楕円形の地下室の照明が届きにくいため、少し薄暗がりになっている。影が溜まっているような状態だった。石黒綾美は自らの影を伸ばすと溜まっているその影に触れた。

 石黒綾美は影を引っ張った。床ハッチに接している部分と階段の一部が派手な音を立てて爆発し、床ハッチが外れて落下した。正確には床ハッチとその縁の部分、そして階段の踏み板が1枚、石黒綾美の傀儡によって引き剥がされたのだった。

 床ハッチが失くなったあとにダイニングルームのテーブルの天板が見えた。ダイニングテーブルが逆さまに置かれており、出入り口に蓋がされていた。

 石黒綾美は階段の部分の薄暗がりをもう一度自分の影で掴むと、おもいっきり引っ張った。地響きのような音がして洞窟のような穴が開き、ダイニングテーブルとともに冷蔵庫が落下してその中に入っていた食材や調味料が散乱した。テーブルだけでは重石として物足りないのでその上から冷蔵庫も載せたのだろう。

 テーブルや冷蔵庫の上によじ登るようにして石黒綾美はダイニングルームまで這い上がった。そこから出た石黒綾美は玄関まで走って行き、外に出て野ざらしの駐車場を見た。沢渡のライトバンが消えている。どこかで車の走行音が聞こえるものの、沢渡がどのあたりを走っているのかはわからなかった。

「逃がしはしないわ」

 石黒綾美は呟いた。





 沢渡のライトバンは山間の道を麓へ向かって走り続けていた。

 アクセルを思いっきり踏んだ。スピード違反でパトカーに追われるかもしれなかったが、その方が好都合だった。そのまま警察署に駆け込むつもりだった。

 石黒綾美の自宅の地下に設けられた秘密の地下室から階段を上がって逃げ出した沢渡は、彼女が追って来れないようにダイニングルームの床ハッチの上にテーブルを載せた。それだけでは不安だったのでそばにあった特大の冷蔵庫でさらに重石をした。

 『傀儡』を使ったのである。玄関から外に出たときも、自分のライトバンを手元に近づけるために傀儡を使った。

 彼にとって幸運だったのはズボンのポケットに車のキーが入っていたことだった。石黒綾美は沢渡が逃げ出すことも逃げ出せることも想定していなかったのだろう。彼女の読みの甘さに感謝しながら、素早く車のエンジンをかけて石黒綾美の家をあとにした。

 車が麓に近づいていくにつれて車の数が増えた。少し気分に余裕が出てきた。今すぐにでもどこか手近な派出所に駆け込もうと思ったが、あの室伏という刑事に話をする方が手っ取り早いと思った。もちろん、『回帰』だの『傀儡』だの『影合わせ』だの『幻影』だの『ガーレン』だのといった話をしてもにわかには室伏に通じないかもしれない。だが、事情を全く知らない地元の初対面の警官に話をしてももっと回り道になるだけだ。そう考えた沢渡はベタ踏みしていたアクセルを緩め、安全運転に切り替えた。

 あのままガーレンの影合わせをやらされていたら、自分は死んでいたかもしれない。影合わせをやらなければ石黒綾美に全身を捻り潰されていたかもしれない。影合わせがうまくいってもグロテスクな生き物に自分の姿形が変わっていたかもしれない。

 採掘したエネルギーでガーレンの影のエネルギーを制御するなどと石黒綾美は言っていたが、よくよく考えてみればそんな強大なエネルギーのぶつかり合いの真っ只中にいる自分が無事でいられるとも思えなかった。

 それにしてもなぜ自分は石黒綾美の傀儡から逃れることができたのだろうか。

 影を制御され、何も抵抗することができなかった沢渡だが、なぜか影が2つに分離して石黒綾美の傀儡から自由の身になった。もしかすると、自分の影には分身できる、あるいは分身を作ることのできる能力があるのかもしれない。

 沢渡は自分の影型がヤモリに似ていることを思い出した。小学生だったとき、クラスで一番のガキ大将がトカゲを捕まえようとしたら逃げられたと言っていたのを思い出した。

「シッポがいきなり切れよってん。それからあっというまに逃げられたんや」

 彼は自分の手にトカゲの尻尾が残ってそれが動いていたのが気持ち悪かったと話していた。トカゲやヤモリは外敵から身を守るために自ら尾を切る習性があることを沢渡はのちに百科事典で知った。

 自分の影にはそのヤモリと同じようなやり方で敵から逃げるための機能が備わっているのかもしれない。それは石黒綾美も預かり知らぬことだったのだろう。

 沢渡は石黒綾美に囚われていた時の絶望感から徐々に立ち直り始めていた。冷静にこれからどうすれば良いかを考えた。やはりとりあえず室伏にすべてを話してしまうべきだろう。

 沢渡は大阪市の皆戸区の所轄警察署へ向かって車を走らせた。





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