第21話  囚われの影





 全身が重苦しいものに包まれていた。

 何かが自分を押し潰そうとしているように感じた。

 悪夢を見ているのだと沢渡は思った。何か恐ろしく巨大なものが自分を掴み殺そうとしている。あるいは踏み殺そうとしている。

 悪夢でもよかった。現実世界には戻りたくなかった。このまま夢の中で一生を過ごしていたかった。

 だが苦痛は激しく、沢渡には耐えられそうになかった。渋々彼は目を覚ました。

 そこは寝室だった。

 窓のカーテンから明かりが洩れている。朝のようだった。

 メジロのさえずりが聞こえる。沢渡は自分が昨夜、ライトバンに乗ろうとしたときの姿のままで仰向けに寝そべっていることに気づいた。

 石黒綾美がいぎたなく眠っていたベッドの上だった。彼はそこで眠っていた石黒綾美の影の深奥を覗き、彼女の隠された一面を知って逃げ出そうとした。外に出てライトバンのドアを開け、エンジンをかけようとしたとき、激しい眠気が襲ってきてそこから意識が途絶えた。

 体を責め立てる苦痛に沢渡は悲鳴をあげようとした。だが口は固く閉ざされたままで声帯はピクリとも動かない。全身をヒンヤリとした冷たい感触が覆っていた。回帰者が自らの影に対して別の回帰者から接触を受けた時に感じる独特の感覚だった。

「覗いたのね」

 沢渡の視界以外の場所から声が聞こえた。しばらくの間があってから声の主が沢渡の視界に顔を晒した。

 無表情な石黒綾美の顔が彼の顔を見下ろしていた。

 不意に石黒綾美は女医のように微笑んだ。老人が喜んで診察を受けたがるような癒やし系の女医だ。癒やし系の女医でも平気で患者にがんの宣告をする。外科医なら容赦なくクランケの身体を切り裂く。

「痛いでしょう。苦しいでしょう」

 顔は微笑んでいたが声には抑揚がなかった。

「じゃあ今から楽にしてあげる」

 その言葉を深読みして沢渡は気が狂いそうな恐怖を覚えたが、全身を責め苛んでいる圧迫感が忽然と止んだ。だが相変わらず身動きはできなかった。

 。石黒綾美が沢渡の影に接触し、『傀儡』によって沢渡の体の自由を奪っていた。さっきまでの苦痛も『傀儡』によるものだろう。

「あれほど覗かないで、って言ったのに」

 石黒綾美が眠っている間に彼女の影の深奥を覗いたことを言っているのだ。回帰者が回帰者の影の深奥を覗くのはルール違反だった。もっとも、そのルールは石黒綾美が決めた個人的なものだ。そして彼女がそんなルールを沢渡に課した本当の理由を沢渡は今になって思い知らされた。

 目を覚まし、寝室に沢渡が居ないことに気づいた石黒綾美はライトバンの運転席で眠っている彼を見つけてすべてを察したのだろう。彼女の影の深奥を覗いた沢渡が危険を感じて逃げ出そうとしていることを知り、連れ戻したのだ。おそらく眠ったままの沢渡を『傀儡』を使ってここまで歩かせたに違いない。

 苦痛が止むといくぶん沢渡は落ち着きを取り戻した。自分が回帰者だったことを思い出し、石黒綾美の『傀儡』に抗おうとした。『傀儡』を使うために相手はこちらの影に接触しているわけだから、こちらも相手を『傀儡』で制御することが可能なのである。

 だが今の石黒綾美に対してその反撃は不可能だった。

「無駄なことはやめて。あなたには無理よ」

 石黒綾美は涼しい顔をして言った。沢渡は強制的に『回帰』を抑制されていた。石黒綾美が自らの影で沢渡の影の輪郭を囲ってしまっているため、影型が変わらないのである。

 沢渡の影と石黒綾美の影とではそれぞれが有するエネルギーに圧倒的な差があった。そのため沢渡の影は石黒綾美の影による包囲を突き破って形を変えることができない。傀儡が使えないのはもちろん回帰することさえできないのだ。

「あなたといっしょにダムへ行ったことがあったわね。あれからわたしは何回もダムへ行って『採掘』をしてきたわ。ダム以外にも莫大なエネルギーが得られそうな影を探してはそこで『採掘』をしたのよ。今の私は大型タンカーを軽々と宙に浮かせることだってできるわ」

 ハッタリだろうと沢渡は思ったが、伊谷空港でのことを考えるとあながち嘘とも思えない。

「大声を出して叫んだりしなければ喋ってもいいわよ」

 沢渡は喉が軽くなるのを感じた。つばを飲み込み、喉を湿らせてから沢渡は言った。

「君のことを信用してたんだ。それなのに――」

 最後の方は泣き声になっていた。

「信用してる相手の影の深奥を覗くのね」

 石黒綾美は唇を歪めた。

「わたしもさっきまであなたが眠っている間に、たっぷりと覗かせてもらったわ。

「なぜ西山を殺したんだ?」

 沢渡は石黒綾美の皮肉と揶揄を無視して訊いた。

「警察があなたを疑うように仕向けるためよ。あの男が不審な死に方をすれば、借金をしていたあなたを警察は当然疑ってかかるから」

 沢渡は絶句した。石黒綾美の思いもかけない冷たい言葉にショックを受けていた。

「どうしてそんなことをするんだ……」

 沢渡は弱々しく言った。

「あなたが臆病だからよ」

 石黒綾美はクスッと笑った。

「あの西山って男もあなたと同じで臆病な男だったわ。母親の面倒を見ることができないぃぃ。自分は駄目な男だぁぁ。死にたい〜とか殊勝なことを言ってたけど、自分で自分の命を断つつもりなどこれっぽっちもなかった。影の深奥を覗くまでもなかったわ」

 石黒綾美の真意がわからない。沢渡は彼女の次の言葉を待った。

「あなたにガーレンの影合わせをやらせるには、あなたを孤立させる必要があった。警察に殺人容疑をかけられ、妻に見捨てられたら、あなたはわたしを頼りにするしかないでしょう。そしていくら臆病なあなたでもそこまで追い込まれていたら、どんなことでもするようになると思った」





「志穂子とつきあっていた本田康彦も君のなりすましなのか?」

「察しが良いわね。おっしゃるとおりよ」

 沢渡の問いかけに石黒綾美は嬉しそうに答えた。

「西山のようなマヌケな男を誘惑するのはたやすいことだったわ。でもあなたの目を盗んで奥さんを籠絡するのは簡単にはいかない。それにあまり早いうちからあなたの奥さんを誘惑して、あなたと奥さんの仲がこじれたらあなたはガーレンの影合わせよりも奥さんとの関係を修復することに心血を注いでしまうでしょう。だから慎重に手はずを整え、外堀を埋めるようにしていったってわけよ」

「西山を誘惑するために本田を選んだのはなぜなんだ?」

「特に理由はないわ。強いて言うなら本田って人がわたしのだったからかしら。あなたの奥さんも私と趣味が同じらしいわね。あなたなんかよりもああいう男のほうがよっぽどお似合いみたいよ」

 石黒綾美は沢渡を嘲笑った。激しい怒りを覚えながら沢渡は言った。

「いつからこんなことを企んでいたんだ。僕と出会ったときからか?」

「あなたが初めてわたしと寝た時からよ」

 石黒綾美は淫猥な含み笑いをした。

「最初に会ったときは、この人ならあたしの望みを叶えてくれるんじゃないかと思ったわ。世界をわたしの手中に収めることも可能だと思った。でもあの夜、あなたのそっけない態度を見て、この人って根っからの逃げ腰なんだなと心底思ったわ。わたしの話に全然乗り気じゃなかったもの」

 沢渡はあのときの石黒綾美の誇大妄想狂のような言動を思い出していた。世界を作り変える、革命を起こす、そんな彼女の言葉に沢渡はドン引きしていた。それを逃げ腰だと石黒綾美は言っているのだ。怒りの念をたぎらせながらも沢渡は自分が今置かれている状況を意識せざるを得なかった。

「僕をどうするつもりなんだ」

「ガーレンの影合わせをやってもらうのよ」

 石黒綾美は、何を今更、という顔をした。

「また失敗するに決まってる。無駄だ」

「心配しないで。ちゃんと改善策を考えているから」

「嘘だ! どうせ失敗しても次を探せばいいと思っているんだろ!」

 沢渡は喚いた。

「わたしが何のために『採掘』を繰り返したと思ってるの? ジェット旅客機を動かしたり、あなたをこうして雁字搦めにしたりするためじゃないわ」

 石黒綾美は表情を和らげ、穏やかな声で言った。

「どういうことだ?」

「ガーレンの影をコントロールするためなのよ。ガーレンの『影合わせ』をする回帰者はあの影の凄まじいエネルギーに耐えられない。だからそのエネルギーを別のエネルギーで制御して回帰者が扱いやすいような形に変換するのよ」

「……」

「一種の『変圧器』のようなものね。ガーレンの『影合わせ』をする時にわたしがあなたの影に接触し、『採掘』した膨大な量のエネルギーを使ってガーレンのエネルギーの圧力を緩めるのよ。そうやって人間が耐え得る状態に圧力を変えれば、回帰者の肉体が破綻することも変身することも防げるわ」

 理屈は通るような気がした。しかし果たしてそんなに簡単にうまくいくものなのか。石黒綾美はガーレンのエネルギーの量をどのように想定しているのだろう。『採掘』して蓄えたエネルギーの量で制御できる範囲内ならいいが、それを上回るような想定外の量ならば結局は石黒純也と同じ結果になるだろう。

 だが沢渡はこの場を凌ぐためにあえて石黒綾美の言を肯定しようと思った。納得したと見せかけてスキを窺って逃げ出すのだ。しかし石黒綾美の影に接触されていることを示すヒンヤリとした感覚が相変わらず全身を覆っていた。影の表層は愚か、深奥部も石黒綾美はお見通しなのだ。

「信じてないようね」

 石黒綾美は冷たく言い放った。

「いいわ。じゃあもうここでお別れね。さようなら」

 身の回りの空気が鋼鉄の塊になったかのような圧迫感が沢渡の全身を襲った。恐ろしい圧痛とともに急激な呼吸困難を感じた。沢渡の皮膚や筋肉、骨を内側に向かって縮むように石黒綾美が彼の影を使ってコントロールしていた。脳内で沢渡は悲鳴を上げ、石黒綾美に命乞いをした。


 ―― わかった、わかった! 言う通りにするから助けてくれ! ―― 


 苦痛が和らいだ。沢渡の影を覗いて彼の声を聞いた石黒綾美は、沢渡の顔を上から見下ろしながら「本当?」と言った。

「本当だ。君の言う通りにする。だから殺さないでくれ!」

 声が出た。呼吸もできた。生きている実感に胸が震えた。

「わかってくれてうれしいわ」

 石黒綾美は白い歯を見せながらケラケラと笑った。





 沢渡は石黒綾美に促されて一階に降りた。

 抵抗しても無駄だった。彼の影には石黒綾美の影がしっかり食らいついていて、何か妙な動きをすればたちどころに肉体の動きを制御されてしまう。しかも彼女は『採掘』によってとてつもないエネルギーを自らの影の中に蓄えていた。沢渡の影が持っているエネルギーでは石黒綾美の『傀儡』をはねのけることなど不可能だった。そもそも回帰することさえ阻止されているのだ。

 沢渡はダイニングルームへと行かされた。窓から外の様子が見える。整地していない駐車場が目に入った。

 変わり果てた姿となった石黒純也は、ちょうどあの下に埋められたのだろう。自分もガーレンの影合わせが失敗に終わればあそこに埋められてしまうのだろうか。

 嫌だった。死ぬのも醜い化け物の姿になるのも。生への願望や変身への恐怖が沢渡を強く揺さぶった。

「心配ないわよ。きっとうまくいくわ」

 沢渡の影の中を覗いてその内面を監視している石黒綾美が彼の動揺を察して言った。いい気なものだった。所詮は他人事なのだ。ガーレンの影合わせをするのは自分だ。こっちはモルモット、向こうは実験をおこなう科学者なのだ。

「ガーレンのエネルギーを君が『採掘』したエネルギーで制御するとか言ってるが、君自身は大丈夫なのか? 僕の影に接触していたらガーレンになった僕の影に君の影が蝕まれて命を落としたり変身したりする虞はないのか?」

「ガーレンには性別があるって言ったでしょ。そしてその影にも男性という属性が付与されてるの。女性の影はガーレンの影合わせができないし、ガーレンと同化できない。だからそんな心配は無用なのよ」

 ガーレンの影合わせをおこなう沢渡の影と接触していれば、石黒綾美の影も連鎖的に何らかの影響を受けそうなものだが、性別という属性が異なるため、石黒綾美は生命の危機や肉体の変容といった影響を受ける心配がないというのだ。

「じゃあ僕がガーレンの影合わせに成功して『傀儡』を使って君を攻撃してきたらどうするんだ。ガーレンが使う『傀儡』は神レベルなんだろ? いくら君でもそんな『傀儡』に対抗できるとは思えないな。僕がガーレンの影合わせを終えた途端、君の体をずたずたに引き裂いてしまうかもしれないんだぞ?」

 沢渡は石黒綾美の考えが無謀なものだと訴え、なんとかして彼女を思いとどまらせようとして言った。だが石黒綾美は沢渡の言葉など意に介していなかった。

「最初からあなたの影を制御しておけば、あなたはわたしに逆らうことはできないわよ。たとえ影型がガーレンに変わったとしてもね」

 結局自分はこの女に体よく利用されたに過ぎなかったのだと沢渡は思った。石黒綾美はガーレンといういにしえの魔神の邪悪な力に直接触れることなく、その力を自分のものにするために沢渡のような男性の回帰可能者を探していたのだろう。

 自分の愚かさが恨めしかった。普通の人間には使えないような力を手にして浮かれていたのだ。回帰者であることに優越感を覚え、自分以外の人間を心の何処かで見下していたのだ。だなどと自惚れていた。実際には哀れなだったというのに。

 石黒綾美はダイニングルームのテーブルを傀儡を使って軽々と浮かせ、横に移動した。

 テーブルの下にはカーペットが敷いてあった。そのカーペットをどけると切り込みのようなものがある。床ハッチのようだった。

 石黒綾美は鍵を使ってその床ハッチを開け、跳ね上げ扉のように蓋を起こした。蓋はロックされ、地下へと続く階段が現れた。

 階段の脇の壁にスイッチが有る。石黒綾美がスイッチをONにすると、階段の奥の方が明るくなった。

「ほら、降りるのよ」

 沢渡は躊躇した。このままこの階段を下に降りたら二度と生きて地上に出ることができなくなるような気がした。とつぜん閉所恐怖症の発作が起きそうになり、ダイニングルームの床にへたり込んだ沢渡は胸の動悸と全身の震えが止まらなくなった。

「頼む! 勘弁してくれ! 他のことならどんなことでも言うことをきくから!」

「黙って降りなさいよ!」

 泣き声を上げる沢渡を石黒綾美は一喝した。それでも動こうとしない沢渡を傀儡で強制的に動かし、階段を降りるように仕向けた。

 階段の下には楕円形の空間が広がっていた。

 床も壁も天井も白いウォールペーパーで覆われている。天井には大きなランプが取り付けてあり、煌々と明るい光の下で沢渡と石黒綾美の影が床にくっきりと浮かび上がっていた。石黒綾美が壁の操作パネルに触れると、どこからかエアコンの動く音が聞こえた。

 冷え冷えとした地下の空間が少しずつ暖かくなってくる。室内は広かった。60坪以上はあるだろうか。





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