第20話 影の裏切り
1
本田の乗った車は石黒綾美の自宅に戻った。
車から出てきた本田はログハウス風の家の玄関を車のキーと同じキーホルダーに付いている鍵で開けて中に入った。
すでに日は暮れていた。本田は玄関から奥の方へ向かって廊下を進んで行った。突き当りにダイニングルームがあり、その隣に一階のトイレと浴室がある。本田は浴室と続きの間になっている着替え用の部屋に入ると服を脱ぎ始めた。
彫刻のように美しい裸身を洗面台の鏡に晒した本田は足元の影を見た。その影が蜘蛛の輪郭を描くと同時に本田の肉体に変化が訪れた。
撫でつけたオールバックの髪がそのまま後ろへ向かって伸びていき、ミディアムヘアへと変わった。浅黒い顔面が白く透き通った色になり、ヌメヌメとした艶のある熟女の顔になった。骨太な体つきが丸みを帯び、頑丈そうな胸板が柔らかく膨らんだ。肌の色は白くなり、体毛は薄くなり、股間の一物は見る見るうちに縮んでいき、短くなった陰毛の奥に隠れてしまった。
鏡に映っているのは全裸の石黒綾美だった。
石黒綾美の異様で不可解な行動を知った沢渡は激しい混乱状態にあった。
志穂子の影に接触した石黒綾美は、志穂子の心の内にある本田という男の存在を知った。恐らくそれ以降も石黒綾美は自分の預かり知らないところで志穂子の影に何回か接触していたに違いない。そうやって本田のことを調べ上げ、何らかの方法で彼の影型を手に入れたのだろう。そしてその影型で『影合わせ』をおこない、本田になりすましたのだ。『影合わせ』なら自らの影を年齢に応じた影型に変えて若返ることはもちろん、影型を真似ることで姿形を他人に変えることも可能だった。
本田の姿で石黒綾美は西山に近づき、恋人同士の関係になった。室伏刑事から西山の男性関係について聞かされたとき、その相手の男がITビジネスを手掛けている男だと知らされ、沢渡は直感的にそれは本田ではないかと思ったが、まさにその直感どおりだったのだ。
石黒綾美は浴室に入るとシャワーを浴びて本田の姿だったときの西山との情事の痕跡を洗い流した。
入浴を終えた石黒綾美はキッチンの冷蔵庫からパック入りのオーガニックサラダとベーコンを取り出すと、ワインを飲みながらそれを食した。食事を終えた彼女はスマホを取り出すと電話番号をタップした。
沢渡は心臓が止まりそうになるのを感じた。それは志穂子のケータイの電話番号だった。彼女の影に接触したときに『黒増し』を使って手に入れたのだろう。
何回か呼び出し音が鳴ったあと、スマホの向こうから「はい」という志穂子の声が聞こえた。体の何処かで冷たい汗が流れるのを感じながら沢渡は耳を澄ませた。
「和史さん? 和史さんかしら?」
石黒綾美はわざと媚を含んだような口調で言った。スマホの向こうは沈黙している。
「あら、ごめんなさ〜い。間違えちゃったわぁ」
石黒綾美は笑いながら間延びした声でそう言うと通話をいきなりブツッと切った。それからあくびをする石黒綾美の声が聞こえ、そのあと彼女はベッドへ行くと視界が闇に覆われた。どうやらそのまま眠り込んでしまったらしい。
なんてことをしてくれたんだ――
石黒綾美が志穂子と自分との夫婦関係に亀裂を入れるようなことは絶対にしないはずだった。石黒綾美も自分もお互いに回帰者であり、回帰についての知識は二人だけで共有すべき秘匿事項であるがゆえに、第三者の関与につながるものは一切排除しなければならない。それなのに石黒綾美は修羅場やドロドロ描写が売りの不倫ドラマの中でおこなわれるような定番の行為によって志穂子を巻き込もうとしたのだ。
本田康彦になりすまして西山と肉体関係を持つという異様で不可解な行動よりも、志穂子を挑発するような石黒綾美の行動に沢渡は愕然となっていた。
まさか――
胸底から湧き上がってくる不安とともに沢渡はある可能性に思い当たった。
志穂子が付き合っている不倫相手の本田康彦も、本物ではなく石黒綾美がなりすました偽物ではないのか?
沢渡はそれ以上石黒綾美の影の深奥を覗き続けることに苦痛を感じた。しかしこのままの状態で彼女の影から退くことは、拭い去ることのできない強烈な不安を自分の心の内に叩き込んでしまうような気がした。
沢渡は震える心を押さえつけながら石黒綾美の影の中のさらに先を覗いた。
2
「ワシ、どないしてええかわからへんねん」
西山の声がした。車の中だった。石黒綾美の愛車、ミントブルーの軽自動車である。
深夜だった。
西山は助手席に座っていた。夜更けに室内灯を消した自動車の中で見る西山の顔は暗くて表情がよくわからない。だが声は泣き声になっていた。
「おふくろの面倒を見とるんやけど、これ以上ワシ一人では無理や」
西山は利用料が払えなくなって老人ホームから退去しなければならなくなったことを愚痴っていた。病弱で寝たきり状態の母親を西山の自宅に住まわせて一人で介護するのは困難を極めた。喫茶店を営業しながらその奥の間で母親の面倒を見ようかと考えたが、喫茶店の奥の間は狭い寝室とトイレが有るだけだったので母親をそこへ住まわせるのは酷な話だった。
しかたなく自宅に引き取ったが、身寄りのない西山には彼以外に母親の世話をする者がいない。喫茶店は廃業せざるを得なかった。元々少なかった喫茶店経営の収入を完全に断たれ、慣れない老人介護に悪戦苦闘し、西山は追い詰められていた。
「わからん。なんぼ考えてもわからん。老人ホームに払うカネが、確かにあったはずやねん。それがどこかへ消えてしもうた」
逞しい腕が涙声になっている西山の頭を優しく撫でた。
「どうしてもっと早く相談してくれなかったんです?」
本田康彦の声がした。本田の胸板は分厚く、ちょっと視線を下に向けただけで胸板を覆った黒いタンクトップから乳首が浮き出ているのが見えるほどだ。西山はその胸に頬を寄せ、泣きじゃくった。
「泣かないでください。おふくろさんのことは私がなんとかしますから」
「ほんまでっか?」
西山は泣き笑いのような表情で本田の顔を見上げた。
「知り合いに介護付き老人ホームの経営者がいます。信用できる男です。彼に便宜を図ってもらいますよ」
「おおきに。おおきに〜」
西山は泣き崩れた。その西山を本田の太い腕が抱きしめた。ひとしきり泣いたあと、西山はしゃくり上げながら本田のジーパンのジッパーをおろすと中のものを口にくわえた。
数秒で本田の一物は鉄パイプのように硬くなった。本田の股間をしゃぶりながらタンクトップの隙間から西山は手を入れ、本田の乳首を刺激した。本田の鼻息が荒くなったのを知った西山が舌の動きを早める。やがて本田の一物から放たれたものを西山は一滴残らず啜り取った。それが済むと、今度は本田が西山の一物を頬張った。
その後、賢者となった彼らは自販機で買ったソフトドリンクを飲みながら情事の余韻を楽しんでいた。
車が停まっているのは大阪市の皆戸区の港湾施設の近くだった。岸壁に沿って立ち並ぶ巨大なガントリークレーンと、コンテナヤードに保管されているおびただしい数のコンテナが見えた。コンテナヤードは静まり返っていて、そこから少し離れた歩道沿いに本田たちの乗った車は停まっていた。コンテナヤードの管理棟からは死角になっている。
「あかん。ちょっとションベン行ってくるわ」
西山は車から飛び出した。蒸し暑くて喉が渇いていたためにスポーツドリンクをガブ飲みしていたが、少し眠ったせいで飲んだものが膀胱に降りてきたらしい。
西山は歩道と並行して広がっている岸壁の方へ向かって走って行った。海洋放出をするつもりなのだ。
岸壁へ向かう西山を見送っていた本田は運転席から身を起こすと車のルームランプを点けた。
西山がいなくなった助手席に本田の影が落ちていた。
その影が形を変えた。助手席の座面に黒い蜘蛛のシルエットがうずくまっていた。
蜘蛛は黒い糸を吐いた。細い影は助手席を這い、ドアを這い上がり、窓から外に流れ落ちると、西山の方へ向かって這い進んだ。
西山は短パンのジッパーを下ろして岸壁から海に向かって放尿していた。真夜中過ぎで周りには誰もいない。
岸壁には危険防止のため常夜灯が距離をおいて並んでおり、落下防止の柵が設えてあった。西山はその柵の隙間から器用に海へ向かって放尿していた。
黒い糸はその西山の背後から忍び寄り、常夜灯に照らされて岸壁の地面に浮かび上がった西山の影に食らいついた。
影を通して西山の意識が見えた。全身が硬直し、声を出すことができなくなってひどく混乱している。その体が宙に浮き始めると混乱は恐怖に変わった。岸壁の地面に西山の影を突き刺して持ち上げている黒い糸が映っている。
西山の体はゆっくりと逆さまになり、そのまま落下防止の柵を越えると、海面へ頭から静かに着水した。
首から上を海中に突っ込まれ、もがくことも悲鳴を上げることもできないまま、口と鼻から海水を飲み続け、呼吸困難に陥った西山はやがて絶命した。
海中に首を突っ込んで逆立ちしていた西山の体は静かに引き揚げられ、突然岸壁から100メートル以上も離れた海面に飛んで行き、そこで落下した。
岸壁から遠い場所だったので、西山が海に落ちるときの水音は小さかった。小石が沈むような「ポチャン」という音が聞こえただけだった。
本田はそのまま車の中でじっとしていた。助手席の影は蜘蛛の形を維持していた。ドアミラーにその影の主の顔が映っている。
石黒綾美の顔だった。
3
沢渡は石黒綾美の影から退いた。
もう限界だった。ムリだった。これ以上、彼女の影に接触してその中を覗くことには耐えられそうもない。
石黒綾美は殺人を犯した。まるで捕獲したドブネズミを処分するように西山を殺したのだ。そんな女が命の危険や醜い怪物への変身から沢渡を守る方法を考えてくれているとは思えない。
沢渡はクローゼットから自分の衣服を取り出すと手早く身に着けた。一刻も早くここから逃げ出そうと思った。
寝室のドアを細心の注意を払って音を立てないように開け、外に出た。一階に降り、玄関のドアを開けた。
外は真っ暗闇だった。空に黒い雲が広がっていて星も月も全く見えない。夜気が凍りつくように冷たかった。11月に入ったばかりだが山間部はもう冬に近い。沢渡はライトバンに近寄り、車のキーでドアを開けた。
ふとルームミラーを見ると、まだ20代の姿のままだった。元の年齢の姿に戻っておかなければならない。沢渡は回帰して影型を50代半ばのものに戻した。
ルームミラーで自分の顔を確認し、車のエンジンをかけようとした。
猛烈な眠気が襲ってきた。
5回も石黒綾美とまぐわった。その前にワインを一本空けていた。さっきまで影型を20代に変えていたのに50代半ばの肉体に戻ったため、痛飲と荒淫による疲れが一気に押し寄せてきていた。加えてさっきまでの緊張感が緩んだために眠気がいっそうひどくなった。
車のキーをイグニッションスイッチに差し込もうとしたが、手から滑り落ちた。拾おうとしたとき、意識が飛んで沢渡は寝落ちしてしまった。
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