第19話  影の密会







 ガーレンの影合わせが原因で石黒純也は死んだ。

 遺体は彼が石黒綾美との生活を営んでいた自宅の前の空き地に葬られた。しかし彼が美術商として財を成し、業界においてある程度の知名度があったことは関係者なら誰でも知っていることだった。

 その一方で彼は狷介孤高な性格であり、他人に心の内を明かすことはほとんどと言っていいほど無かった。両親を始めとする親類縁者や仕事にまつわる取引先の人物、学生時代の友人など、彼と面識のある人間すべてに対し、彼は一貫してそういう態度を貫いていた。

 それは彼が『回帰者』であることも一因となっていた。彼がいつどこで何がきっかけで影についての隠されたからくりを知ったのかは石黒綾美さえも知らなかった。ただ、『回帰』がもたらす魔術のようなものを自分だけの「秘宝」や「武器」にしたいという強い意志があるということを彼は石黒綾美に語っており、その意志の現れが彼の孤独な性格に反映されていたようだった。

 そんなふうに人付き合いの不器用な石黒純也ではあったものの、さすがに彼が業界や親戚、その他の知人の前から姿を消せば、否が応でも騒ぎになる――

 そう考えた石黒綾美は関係者が彼女のもとを訪れ、純也の消息を尋ねるたびに『消し染め』を使って石黒純也についての彼らの記憶を削除していった。

 彼らの脳内では純也は最初から存在しないものとなっており、肉親も友人も知人も、石黒純也という存在を知覚することができなくなってしまった。メビウスの帯のように帯の裏面に居るはずの石黒純也が、そんな人物は存在しないという帯の表面と繋がっていて、どうしても彼の存在を知ることができない。

 また、彼ら以外の人間も、他人を寄せ付けないという石黒純也の性格をよく知っていたため、彼が姿を見せないことを詮索する者はほとんどいなかった。その結果、半年もしないうちに純也のことを気にかける者は誰もいなくなってしまったのである。

 そのように『消し染め』を使って純也の死の隠蔽工作をおこなう一方、石黒綾美は純也が死んだ原因を調べていた。

 パソコンの画面に純也が壁に貼っていた方眼紙のスキャン画像が映っている。沢渡は石黒綾美の視覚を通してそれを見ていた。

 石黒綾美はそこに描かれているガーレンの影型の輪郭を詳細に調べていたが、不具合のようなものは見当たらなかった。純也は「大地の号砲」という絵画の影に隠されていたガーレンの影型を精妙に写し取っており、おまけに正確を期するため、あるいは間違いがないか確認するために何度もそれを繰り返していた。輪郭線は常に完璧な状態で一致しており、純也が写し間違いをしたという可能性は皆無だった。

 やはりガーレンの影の力やエネルギーに純也の肉体と精神が耐えきれなかったのではあるまいか。要するに、容量とかキャパシティの限界だろう。また、仮にその問題がクリアされたとしても、ガーレンの影型に自らの影型を変えた瞬間からその回帰者は肉体も精神もガーレンと同化してしまうのは避けられない。ガーレンという回帰者の影が持つ神同然の力のことを考えれば、そういうリスクは当然予期して然るべきだった。

 回帰者の身の安全を確保しつつ、ガーレンの持つ底知れない力のみを抽出し、それをコントロールする――石黒綾美はなんとかしてそれが可能にならないかと考え続けていた。





 改善策や安全策のないままガーレンの『影合わせ』をおこなえば、おそらく自分は死んでしまうだろう。死なないまでも人間離れした醜い姿になってしまうかもしれない。いずれにせよ、沢渡和史という人間はこの世からいなくなるのだ。

 何の対策も立てないまま、石黒綾美は自分にガーレンの『影合わせ』をさせようとしているのか。沢渡の心の内で次第に石黒綾美に対する不信感が滲み出していた。

 夫が亡くなってから『回帰』について知ったという彼女の言葉は嘘だった。彼女は夫が亡くなったのは病気のせいだと、何かの折に言っていた。沢渡は彼女の心の傷に触れたくないという思いから、あえて夫の死の経緯には触れないようにしていたが、夫があんなおぞましい悲惨な死を遂げたことを石黒綾美は沢渡に対して隠蔽していたのである。沢渡が本当のことを知れば間違いなくガーレンの影合わせを拒絶すると思ったからだろう。

 とはいえ沢渡は心の何処かでまだ彼女を信じようとしていた。

 みすみす相手が死ぬとわかって、あるいはみすみす相手がグロテスクな生き物に変身するとわかっていながら、そういう危険な結果をもたらすような行為を彼女が平然と要求するだろうか。よしんば石黒綾美が沢渡のことを単なる実験動物のように思っていたとしても、実験の失敗は彼女にとっても不本意なはずだ。

 沢渡は石黒綾美の影の深奥をさらに奥深くまで浚ってみた。彼女が何らかの解決策を見出したことを確認したいがために『黒増し』を使って片っ端から深奥の中を調べてみた。

 そうこうするうちに沢渡は気になるものを見た。

 志穂子だった。志穂子が自宅から出かけてパート先に向かう光景が石黒綾美の記憶の中にあった。

 沢渡は石黒綾美に自宅の住所を教えてはいなかった。だが初めて石黒綾美と出会ったとき、彼女に『傀儡』を使って体を操られ『黒増し』によって影の深奥を浚われ、メールアドレスはもちろん、西山のことやこちらの懐事情までいろいろな個人情報を知られてしまっていた。それらの中に自宅の住所が含まれていても不思議ではない。

 だが沢渡は違和感を覚えた。石黒綾美は沢渡夫婦の間に妙な波風を立てないように気を使ってくれているはずだった。それは彼女と肉体関係を持ってからはもちろん、それ以前からの暗黙の了解事項だった。したがって石黒綾美が志穂子と接触することは絶対に無いはずだった。

 志穂子は最寄りの私鉄の駅へと向かっていた。ライトグリーンの春物のワンピースを着ていたが、沢渡にはその服に見覚えがあった。半年ぐらい前、今年の4月の半ばだった。パート先のレストランの近くにある婦人服店で買ったと志穂子が言っていた。「安かったのよ」と嬉しそうに言う志穂子の笑顔が記憶に残っていた。

 ちょうどその数日前、沢渡は石黒綾美と初めて一夜をともにした。その罪悪感があってか、沢渡は必要以上に志穂子の服を「よく似合ってる」「きれいだ」と褒めていた。

 石黒綾美は道路を隔てた反対側にいたらしい。マンションから出て来て駅への歩道を歩く志穂子の姿が車道の向こうに見える。石黒綾美の視界はそんな志穂子のあとを追って動いた。

 志穂子は石黒綾美に尾行されていることなどまったく気づかず、駅への道を歩き続けた。やがて彼女は駅近くの交差点の信号の前で立ち止まった。人混みに紛れて石黒綾美が彼女に何気なく近寄る。歩道の路面に映った石黒綾美の影が蜘蛛の形になった。

 回帰した石黒綾美は蜘蛛の口から糸のように細い影を吐き出した。影は志穂子の影に触れ、その深奥へと突き進んだ。『黒増し』を使っている。彼女は志穂子の影の深奥にある何人かの男の顔とその男に関する情報をまさぐっていた。

 数人の男の顔が過ぎった。志穂子の父親や幼馴染の男の子、沢渡と志穂子が勤めていた会社の同僚の社員、パート先の上司といった顔ぶれの中に、沢渡の神経を逆なでする顔があった。

 本田康彦だった。志穂子の不倫相手だ。

 今から一ヶ月ほど前、室伏刑事が沢渡の店へ来た日の午後、町工場へ打ち合わせに行った帰りに寄ったコンビニの近くで沢渡は志穂子の姿を見かけた。その夜、志穂子を問い詰めて彼女の影の中を覗いたとき、志穂子と関係を持った男として彼女の意識に現れていたのがこの男だったのだ。

 石黒綾美は志穂子の影の深奥部をさらにまさぐり、本田という男に対する志穂子の感情や記憶を手に入れようとしていた。

 かねて以前から志穂子にとって本田は特別な存在だったらしい。同じクラスメートだった高校時代、それほど本田に対して好意のようなものは抱いていなかった志穂子だったが、二、三年前におこなわれた同窓会で見かけた本田はチョイ悪のイケオジになっていた。IT関連のベンチャー企業を経営し、品が良く穏やかな彼は魅力的な男で、志穂子の記憶の片隅にさり気なく居座っていた。

 沢渡は、そんな本田に嫉妬を感じるよりも石黒綾美が何のために志穂子の影の中を覗いて彼女の記憶の中にある男性のことを知ろうとしたのか、そちらの方が気になった。

 石黒綾美の目的を突き止めようとして深奥を覗き続けた沢渡の目の前に突如として一つの光景が飛び込んできた。

 そこは石黒綾美の自宅だった。彼女は壁に絵が飾ってある応接間で誰かと電話で話をしている。だが声がおかしい。いつもの琥珀色の洋酒を思わせるようなコクのある深い声ではあったが、声が太かった。まるで中年男性のようだ。

「そんなに私のことを気に入ってもらえるなんて光栄ですよ」

 女性の声というよりかは立派な成人男性の声だった。

「でも、いいんですか。奥さんに知られるといろいろ面倒でしょう……え? 独身なんですか? うーん、こう言っちゃなんだけど、そりゃあ好都合ですね。いいでしょう。じゃあ今から出ます」

 石黒綾美はスマホをタップして電話を切った。彼女の声は声質ばかりか喋り方まで男のものになっていた。

 これからどこかへ出かけるらしい。玄関を出て表に停めてあるミントブルーの軽自動車に乗り込む。石黒綾美の愛車だった。ルームミラーに彼女の顔が映った。

 だが鏡に映ったのは石黒綾美という女の顔ではなかった。

 本田康彦――IT関連のベンチャー企業を経営しているだった。





 本田康彦は石黒綾美の車を運転して川石市から都心の方へ向かった。

 車窓の風景は沢渡が見慣れたものに変わっていた。沢渡の店の外注工場がある東大沢市の街なかを本田康彦が運転する車は走っていた。

 だが車が向かっているのはその町工場ではなかった。その近くにある西山の喫茶店が目的地だった。

 本田康彦は喫茶店の近くのコインパーキングに車を停めた。まだ昼過ぎだというのに西山の喫茶店は窓という窓にカーテンを引いて閉店していた。

 本田が軽くノックすると、しばらくしてから喫茶店のドアが開いた。西山が笑顔で本田を迎え入れる。

「とりあえずコーヒー、飲みまへんか?」

 西山の呼びかけに応じて本田はカウンター席に腰を下ろした。西山は喫茶店のドアに内側から鍵をかけるとサイフォンを使ってコーヒーを淹れ、本田にふるまった。

「さすがIT業界の人でんな。ええ時計してはるわ」

 西山は本田のチャコールグレーのスーツの袖からのぞいているスイス製高級腕時計を見て言った。よく見るとそれはレディースウオッチだったが、西山がそれに気づいたかどうかはわからなかった。

「はめてみますか?」

 本田は左腕を西山の方に伸ばして言った。西山は「かまいまへんか?」と言うよりも先に本田の左腕に両手を伸ばして袖をめくった。

 日焼けした本田の肘の近くまでがむき出しになった。西山の関心はその腕に嵌めてある銀色の時計ではなく、色艶の良い本田の前腕だった。

 西山は本田の前腕を両手で撫で擦りながら腕時計を外すと、一瞥しただけでそれをカウンターの上にそっと置いた。本田のジャケットの袖をその下のワイシャツと一緒にさらに捲くり上げ、二の腕の半分近くまでむき出しにした。

 逞しい本田の上腕を西山は愛おしげに愛撫した。そんな西山をやんわりと制止して、本田はジャケットとワイシャツのボタンを外した。西山も身に着けていた長袖Tシャツと綿のパンツを脱ぎ始めた。

 ほどなく二人とも全裸になり、靴下と靴も脱ぐと裸足になった。そしてカウンターとボックス席の間のフロアへ行くと立ったまま抱き合い、ペッティングやキスをやり始めた。

 西山の喫茶店はほとんど廃業状態だった。週に一回、店を開けるかどうかといったところだった。窓という窓、玄関のガラス戸には分厚いカーテンが引いてあったが、五月の午後の日差しは強烈だったので、外を歩いている者がカーテンをよく見れば中年男性二人があられもない格好で抱き合っているのが透けて見えたかもしれない。

 本田と西山は舌を絡ませ、兜を合わせているうちに同時に絶頂を極めてしまった。スポーツか筋トレで鍛えたような筋肉質の本田の浅黒い肉体と痩せていながらも要所要所の肉がたるんでいる西山の青白い体がきつく密着し、二人ともブルブルと全身を震わせた。固く密着した腰の間から二人分のオスのエキスが滴り落ちる。

 それから二人はカウンターの奥の狭くて小汚い寝室へ行き、ドアを閉めるとベッドの上で体を合わせた。

 声が外に漏れる心配がなくなったせいか、二人とも歯擦音まじりの派手なよがり声を上げながらお互いの体をまさぐった。どちらかと言うと本田の方がらしく、犬のように四つん這いになった彼の肛門を西山の巨大なイチモツが貫いた。本田の視線は背後で彼の尻に腰を押し付けている西山の方を向いていた。犯されながら首を捻じ曲げて西山の髭面を凝視しているのだ。

 西山は目を閉じ、念仏を唱えているような顔で歓喜の声を上げていたが、不意に目を開け、本田がこちらを見つめているのに気づくと腰を急に激しく動かした。本田の視線はベッドのヘッドボードへ向き直り、彼は西山の動きに応じて「あっ、ああっ!」と切なげに呻いた。

 西山が本田の直腸に雄汁を放ち、本田もベッドの上へ雄汁を飛ばすと、二人はつながったまま寝転んだ。

 事を終えてからも西山は本田の薄く胸毛の生えた厚い胸板や割れた腹筋の中央にある臍、西山以上に勇壮な股間のものを弄りまくっていた。

「気持ちよかったで、本田はん」

 そう言って髭をそったばかりの青々とした本田の顎に自分の無精髭をこすりつけると、西山は本田の唇に自分の唇を合わせた。西山のネチネチとした長いキスが終わったのを見計らって、本田は立ち上がった。衣服を身につけ、西山にいとまを告げると彼の喫茶店から外に出る。

 ミントブルーの軽自動車を停めてあるコインパーキングへ行くと、本田は西山からもらった小銭を精算機に入れ、ロック板を下げて車を発進させた。





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