第18話  禁断の影





 石黒綾美の影を通して見るその白黒映像は、一瞬真っ黒になったり白く色褪せたりと明滅していた。

 石黒綾美の激しい動揺の現れだった。「近寄らないで!」と叫ぶ石黒綾美の声が聞こえた。だが首はもちろん、手足や尻尾がツノの生えたヘビと化したその生き物は、それぞれの頭に赤い6つの眼球をギラつかせ、全身のウロコから不快な咆哮を発しながらこちらに進んで来る。

 沢渡は応接間にあった絵に描かれていた怪物が、こちらに近寄ってくるのを目の当たりにしていた。沢渡が初めて石黒綾美の自宅を訪れたとき、応接間に架かっていた絵の中でひときわ彼の目を引いた絵に6つの首と6つの眼を持つグロテスクな生き物が描かれていた。

 影の中にガーレンという回帰者についての記録が隠されていたのは、まさにその絵だったのだろう。その記録がどのようなものだったのかわからないが、石黒純也は絵に描かれているものは単にガーレンという回帰者の映像的イメージ、もしくはその回帰者としての技術や力を象徴したものだと思い込んでいたのかもしれない。

 だが、ガーレンという回帰者は人間ではなかったのだ。絵に描かれていたのはガーレンそのものだったのである。

 いにしえの世界で強大な力を振るっていた回帰者、ガーレンは醜く凶暴な姿をした怪物だったのだ。純也は自らの影型をガーレンのそれに変えたために、ガーレンの影が有している技術や力を手に入れると同時に肉体の変容も引き起こしてしまったのである。

 グロテスクな生き物と化した純也の体が少しずつ膨らみ始めた。全身から発せられる不快な咆哮とともに肉体が膨張する湿った粘液質の音が聞こえた。

 沢渡は吐き気を覚え、今すぐにでも石黒綾美の影から離れたかったが、まさに蛇に睨まれた蛙よろしく沢渡は石黒綾美の影から退くことができなかった。怪物が膨張するおぞましい光景を見続けるしかなかったのである。

 だが、怪物の首にあたる部分がもう少しで天井に達しようというとき突然、6匹の大ヘビの集合体のような怪物は膨張を停止した。6つの首が同時に口を開いて純也の声で吠えた。鱗から発せられる咆哮に6つの首から発せられる咆哮が加わり、聞く者を石に変えてしまうような醜悪で病的な騒音が響き渡った。

 その恐ろしい咆哮が不意に途絶えた。

 6頭の蛇が手の平を広げるように放射状に痙攣した。そして全身を後方にのけぞらせながら伸び切ったあと、床に向かって飛び込むかのように一斉に倒れた。それからしばらく小刻みに震えていたが、やがてまったく動かなくなった。

 部屋の半分近くを占めているその巨体は純也の元の体の5倍はゆうにあった。白黒の映像で見るその姿は前世紀に撮影されたUMA未確認動物の古い写真のようだ。

 石黒綾美の視界が動いた。

 影型を写し取った方眼紙を貼ってあった壁が見えた。さっきまでガーレンの影が微動だにせず映っていたそこには何もなかった。UMAに成り果てた純也の体が血溜まりのような不定形の影を床に広げているだけだった。

 石黒綾美がおもむろに立ち上がった。寝室のドアを開け、外に出た。

 単純だが上品な造りの廊下に出た。

 壁はベージュ色のウォールペーパーで覆われ、フローリングは天然木材だった。廊下の突き当りに玄関がある。

 石黒綾美は玄関から外に出た。

 夜の闇が迫ってきた。その闇の中に夥しい光の粒が見えた。夜空だった。

 よく見ると周囲を林に囲まれているようだった。黒黒とした木々の輪郭が見える。

 石黒綾美が振り返った。視界が180度回転した。黒く生い茂った木々をバックに建物が建っていた。洋館のようだった。その玄関から今しがた石黒綾美は出て来たのだった。

 すぐ隣に別棟の平屋がある。車を入れるガレージらしい。

 石黒綾美は地面にしゃがみこんだ。地べたに座り込み、周囲を囲んでいる黒い木々の上に広がる美しい星空を見ながら石黒綾美はさめざめと泣き始めた。そうやって泣いているうちに時間が一気に跳躍して明るい陽射しが降り注いできた。

 夜明けだった。石黒綾美は立ち上がり、ガレージに隣接したアール・ヌーヴォー調の外観を持つ二階建ての茶色い洋館と向き合っていた。

 純也が知り合いの建築家に頼んで作らせたものだった。石黒綾美と純也が結婚した後に一緒に暮らしている新居だった。新居であるにもかかわらず、白と黒の二色でしか色付けされていないせいか、ひどく古ぼけた空き家のように見える。

 沢渡は周囲の地形に見覚えがあることに気づいた。その洋館の代わりにログハウスがあれば一目瞭然だった。ここは他ならぬ石黒綾美の自宅のある場所だった。今、現に沢渡が居る石黒綾美の自宅がある山間なのだ。どうやら石黒綾美は純也と結婚して以来、ずっとこの場所に住んでいるらしい。現在の自宅はこの洋館を取り壊して新しく建てたものだろう。

 いつのまにか日が高くなっていた。シジュウカラやアオジの鳴き声が聞こえる。石黒綾美は鳥のさえずりを聞きながら、ずっと立ち尽くしていた。





 沢渡は石黒綾美の影の深奥から退いた。そして石黒綾美の影から自分の影を切り離した。

 回帰を終え、全身から麻痺感が遠のくと同時に一斉に脂汗がにじみ出てきた。そして彼の精神は著しく混乱していた。

 石黒純也によるガーレンの『影合わせ』は失敗に終わった。

 彼はおそらく死んでしまったに違いない。神の如き存在だった回帰者の影に自らの影を作り変えてしまおうとした彼は、肉体も精神もその負荷に耐えきれなくなり、生命体として破綻状態に陥ってしまったのだろう。

 もし同じように『影合わせ』によって自らの影型をガーレンの影型に変えていたら、純也の二の舞いになるのは目に見えている。そんなのは御免だった。恐ろしくなった沢渡は石黒綾美には黙ってここから立ち去ろうと考え、衣服を身につけるべくクローゼットの方へ歩いた。石黒綾美が目を覚まさないように静かにクローゼットの扉を開ける。

 ハンガーに沢渡の衣服がかかっていた。濃紺のジャンパーに茶色いカッターシャツ、ズボンは灰色のスラックスだった。ファッションに無頓着な50代の地味な男が惰性で着続けているような服だった。

 ふと沢渡はその服が一年前、街で石黒綾美と初めて会った時に身に着けていたのと同じものだということに気づいた。

 なぜこんな冴えない服装でここへやって来たのだろうか。これではまるで普段着ではないか。ここへ来たのは全世界の人間を支配下に置くための儀式をおこなうのが目的だったはずだ。どんな服装がふさわしいかはわからないが、せめてスーツにネクタイという出で立ちで来るべきだろう。

 自分は根っからの貧乏性なのかもしれない。あるいは志穂子のことがまだ忘れきれずにいて、時間を元に戻してしまいたいという願望が無意識のうちに石黒綾美と初めて出会う直前に着ていた服を選ばせたのかもしれない。

 時間は元には戻せない。もはや志穂子は帰って来ないのだ。しかし強大な回帰者の力を手に入れたなら、何か志穂子と縒りを戻すきっかけが掴めるかもしれない。この世界の支配者になれば何もかも自分の意のままだ。もちろん、その力を駆使して無理やり志穂子を言いなりにさせようというわけではない。だがガーレンの力があれば、志穂子が自由意志で自分のもとに戻ってくることになる何らかの働きかけができるような気がした。

 そうだ。あのいまいましい本田という男を見返してやる。殺しはしないが、自分の方が圧倒的に強大だということを見せつけてやるのだ。何が「ベンチャー企業の経営者」だ。こっちは「全世界の支配者」なのだ。

 石黒綾美も夫の死にショックを受けたのは間違いないだろうが、彼女もバカではないだろう。自分と出会うまでの長い間、夫が失敗した原因を調べ、次はうまくいくように研究を重ねたはずだ。そして何らかの改善点や安全対策を考え出し、その上で自分にガーレンの『影合わせ』をする話を持ちかけてきたのではないか。

 ここから逃げ出すのは、それを確認してからでもいいだろう。

 沢渡はクローゼットの扉をそっと閉めた。昏昏と眠り続ける石黒綾美の方を振り向くと、回帰してもう一度彼女の影に触れた。





 再び沢渡は『黒増し』を使った。自らの影をこの上もなく深く濃い黒に染め上げると、石黒綾美の影の深奥に挿入した――

 ――グレースケールで彩られた光景が広がり、中年男の顔が見えた。いわゆるガテン系の男だった。過酷な労働や危険な現場を数多く経験した屈強な肉体と図太い神経を持つ男だった。

 だが、男は怯えていた。

 そこは寝室だった。床に得体の知れない生き物が横たわっている。

 象ほどではないが犀なみの大きさを持つ大きな生き物だった。

 それは死んでいた。

 ヘビの塊のように見える。全身を灰色の鱗に覆われ、ツノの生えた複数の頭にそれぞれ6つの赤い眼球が埋まっていた。眼球には生気がなく、生命活動を止めているのは明らかだった。

「奥さん」

 顔をしかめながら中年の男が言った。

「何ですねん、これは? 何や知らんがえらい気色悪いんやけど」

「これを処分してほしいんです」

 男は困惑と嫌悪を顔ににじませながら言った。

「処分、ちゅうてもねぇ。うちに産廃業者の知り合いはおるけど、こんな得体の知れん動物の処分や埋葬をしてくれる業者は心当たりがおませんわ」

 男は石黒夫妻の新居を設計した建築家から工事を請け負った工務店の社長だった。

 石黒綾美は工事の時に名刺をもらっていた工務店の社長に電話をかけ、廃棄物の処分をしてもらいたいがそういう業者の知り合いは居ないかと尋ねた。どんな廃棄物なのかと問われたが、ちょっと電話では説明できないと言うと、社長は現物を見に行かせてもらうと言った。

 以前は純也だったその生き物を前にして、社長は明らかに腰が引けていた。一見客でないから仕方無しに見に来たが、できれば早々に立ち去りたいという顔をしていた。

「じゃあ、家の前に空き地があるので、あそこへ埋めてください。それからこのことは内密にしていただきたいんです。代金は通常の3倍の金額をお支払いしますわ」

 社長は金額の多さに心を動かされたのか、渋々ながらも携帯電話で職人を呼び寄せ、道具や重機の手配をした。

 2時間後、洋館の前にパワーショベルやトラックが停まり、若い職人が3人降り立った。いずれも社長と同じ屈強な男たちだったが、寝室にあるグロテスクな死骸を目にすると一様に顔が青ざめていた。

 死骸のある寝室は一階にあったが、死骸は部屋から運び出すことができないほど大きかった。やむを得ず寝室の壁を壊して穴を開け、そこから外に運び出すことになった。開けた穴は後日また修理することにして、今日は釘やアンカープラグで板を打ち付けて応急処置で済ますことにした。

 社長と職人たちは気味悪がりながらも死骸を4人がかりで外に運び出した。大きさの割りにはそれほど重くはなく、またグロテスクな外観とは裏腹に死骸はまったく臭いがせず、悪臭のようなものは全然感じられなかった。

 死骸を外に運び出した社長と職人たちが穴を掘る準備をしているあいだ、石黒綾美は彼らに気づかれないように回帰すると、自らの影を死骸の影に伸ばして触れた。

 石黒綾美の影は死骸の影の輪郭をなぞって型取りをおこなった。まず最初に死骸と影が接している部分をなぞり、それから影をなぞって型取りを始めた起点に戻るのだ。人間の感覚では想像もつかないような微細なレベルで瞬時に死骸の影の型取りをすると、その輪郭が石黒綾美の影の中に死骸の影型として記録される。

 何も知らない社長と職人たちは穴を掘る準備に勤しんでいた。準備が整うと、社長がショベルカーを操作して穴を掘り始める。一時間ほどで死骸を埋めるのに十分な大きさと深さの穴を掘ると職人に手伝わせて死骸をその中に落とし込み、ショベルカーで上から土を被せた。職人たちが土を均し、すべての作業が終わると夕暮れになっていた。

「壁の修理代金は処分費用とは別口になりまっせ」

 社長が固い表情で言うと石黒綾美は「もちろんですわ。それから職人さんたちの人件費も通常の3倍はお支払いしますので、それも含めて請求書を送ってください。これはとりあえず内金です」

と言って百枚以上はある万札を社長に手渡した。

「おおきに」

 相好を崩す社長に石黒綾美は言った。

「今日はお疲れさまでした。お帰りの前にコーヒーでも召し上がってくださいな」

 社長と職人たちは石黒綾美の言葉に甘えてダイニングルームに招き入れてもらった。椅子に腰掛け、職人たちとともに菓子やコーヒーを口にしながら社長は尋ねた。

「ところで御主人は今日、お仕事でっか?」

 石黒綾美は「ええ、そうなの」と言いながら、足元にあった影を伸ばした。

 影は4つに枝分かれし、ダイニングルームの床を這いながら社長と職人の影の方に向かって行く。社長たちはそのことに全く気づいておらず、談笑しながら香りの良いコーヒーと高級な焼き菓子を味わっていた。

 4本の細い影の先端に同じ輪郭の影型があった。さっき死骸の影の輪郭をなぞって作った影型だった。その細い4本の影が同時に社長と職人のそれぞれの影の中にもぐり込み、先端の部分の影型を灰色に変えると社長たちの影の深奥へ注入した。

 彼らの記憶の中にある不気味な死骸は、その死骸の影を使って作られた灰色の影型によって瞬時に同じ灰色に染まってしまった。彼らを怯えさせた死骸は彼らの記憶の中でボンヤリとして曖昧な灰色の記憶としてとどまるだけになった。

 彼らは死骸そのものだけでなく、そのことにまつわる一切のことを思い出せなくなってしまった。しかもその状態が不自然なものとならないように、無意識のうちに記憶を補正したり補完したりするようになった。

 石黒綾美は人間の記憶を部分的に消去し、ピンポイントで認知症患者のようにしてしまう『消し染め』を使ったのだ。

 変わり果てた姿の純也の遺体を自宅の前の空き地に埋めたことは誰にも知られてはならない。工務店の社長に高額の報酬を渡すことにしたのは、得体の知れない不気味な生き物の死骸を処分する手間賃はもちろん、彼らを黙らせる口止め料も兼ねている。職人たちも社長からその事を言い含められて秘密を守るだろうが、所詮相手は人間である。絶対に秘密を漏らさないという保証はないのだ。

「それじゃあ、今日はこれで帰らせてもらいまっさ」

「お疲れさま」

 微笑む石黒綾美に向かって工務店の社長は言った。

「せやけど奥さん、なんで寝室の壁が壊れたんでっか?」

「夫が車の運転を誤ったの。ガレージに入れようとしてバックしていたら間違って突っ込んじゃって」

 不自然な言い訳だったが、社長は「ああ、そうでっか」と言うとコーヒーを飲み干して立ち上がり、職人たちとともに帰って行った。





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