第17話  影の裏側




 1


 沢渡が石黒綾美の家に着いたのは午後7時ごろだった。

 沢渡の車を尾行する警察車両らしきものは見かけなかった。やはり警察は沢渡に対する疑いを解いたのかもしれない。もしそうだとしたら、沢渡にとって普段と変わりない日常が訪れることになり、これから『幻影』を使って革命を起こす必要など無くなる。

 しかし室伏からの電話はフェイントだという可能性もある。沢渡を油断させておいて罠をかけ、のっぴきらない証拠をつかもうとしているのかもしれない。

 それに――沢渡は顔をしかめながら思った。

 志穂子から見捨てられた自分にはもはや普段と変わりない日常など二度と訪れないのだ――

 石黒綾美の家に着いた沢渡は石黒綾美とともにすぐに食事を始めた。赤ワインを飲みながらミディアムレアのフィレステーキと野菜サラダという石黒綾美の手料理を食べた。

 沢渡は石黒綾美にも赤ワインを勧めた。やや強引な沢渡の勧め方に困惑しながらも、石黒綾美はワインを普段よりも多い目に飲んだ。

 晩餐を終えた沢渡は、彼女といっしょにバスルームに入り、前戯もそこそこに石黒綾美を貫いた。シャワーを浴びて濡れ鼠になっている石黒綾美はバスルームの壁に両手をつきながら身体を激しく痙攣させた。

 入浴を終えた二人はバスタオルで身体を拭うと、ダイニングルームのフローリングの床へ直に横たわって交わった。それから沢渡と石黒綾美は影型を20代のものに変えると、寝室のセミダブルのベッドの上で若々しい肉体を絡ませながら二度の絶頂を迎えた。

 沢渡はそのまま5ラウンド目に挑んだ。まるで石黒綾美の肉壺を壊そうとするかのような勢いだったが、5度目の絶頂を迎えると、ようやく沢渡はおとなしくなった。疲れ果てた石黒綾美は、沢渡が動きを止めると20代の姿のままベッドの上で死んだように眠りこけた。

 沢渡も疲労困憊していた。石黒綾美から離れた沢渡はすぐにでも彼女の横に寝転んで眠りにつきたかったが、彼にはやらねばならないことがあった。そのため疲れが強まることを恐れて元の50代の姿には戻らなかった。

 石黒綾美のすべてを知っておかなければならない――

 回帰者は簡単な思念のやり取りなら、相手が同じ回帰者であろうとそうでなかろうと影を通しておこなうことが可能だった。箕雄市の「シャンブロウ」という喫茶店や伊谷市の空港、私鉄の川石駅の駅前で刑事たちを撒くときに交わした会話など、周囲に気づかれないようなステルス状態で沢渡と石黒綾美はコミュニケーションをとっていた。

 しかしその会話は影の表層でおこなうものであり、言わば「うわべだけの会話」なのである。相手に対して秘匿していること、無意識下にあるものはそこには出て来ない。それらは影の深奥、すなわち底無しで茫漠とした闇黒の中にある。そこには石黒綾美の影の表層に出て来ないもの、見えないもの、隠されたものが蓄えられているのだ。

 その闇黒で満たされた果てしない深奥に触れた回帰者の影は、ブラックホールのようなその時空の中に吸い込まれてしまう。そしてそれは回帰者の死を意味するのだ。西山に『消し染め』を使う前、沢渡は石黒綾美からそう言い聞かされていた。だから沢渡は西山の影を覗いたときも、決してその深奥には近づこうとはしなかった。

 だがその後、石黒綾美とともに影についての研鑽を深め、回帰者が使える技術を学んでいくうちに、沢渡は深奥に接触する方法があることを知った。

 それは『黒増し《くろまし》』という技術だった。回帰者としての経験や技量によって程度の差はあるが、この技術を使えば、影の深奥へ触れることが可能になるのだった。

 石黒綾美と初めて会ったときの沢渡の頭には自分のメールアドレスや西山からの借金のことなど浮かんではおらず、自分の体を操られていることへの恐怖しか無かった。単に影の表層を覗いただけではそれらの情報を入手することができなかった石黒綾美は『黒増し』を使って沢渡の影の深奥に触れ、無意識下にあった沢渡の個人情報を手に入れたのだった。

「あのとき、この『黒増し』を使ってあなたのメールアドレスを手に入れたのよ」

 石黒綾美からそう聞かされたとき、沢渡はなぜ自分のメールアドレスや懐事情や店の経営状態などが知られたのかという疑問が氷解しただけで、不愉快に感じることはなかった。しかし石黒綾美が回帰者同士にもプライバシーはあって然るべきだから、『黒増し』を使って相手の影の深奥を覗くのはお互いにやめておこうと言ったとき、微かな反発心を覚えた。

「約束してちょうだい。絶対にそんなことはしないって」

 珍しくきつい目でそう言う石黒綾美に対して、沢渡は約束を守ることを伝えたが、一方的にこちらのプライバシーを覗いておきながら何だその言い草は、という思いはあった。

 そして沢渡は今、その約束を破ろうとしていた。石黒綾美の影の深奥に触れてその中を覗き、彼女のすべてを知っておくためだったが、あのときの彼女の一方的な物言いへの反発心もあった。

 志穂子の言葉が沢渡の脳裏に焼き付いていた。「何年も前から嫌いだった」という手紙のくだりである。あれだけ自分に尽くしてくれていた妻が、ずっと前から自分のことを嫌っていたのだ。

 今、自分は石黒綾美とともに新しい世界の支配者になろうとしている。彼女との関係も良好で息がピッタリと合っている。だが万が一、それが偽りのものだったとしたらどうだろう。志穂子に見捨てられ、石黒綾美に裏切られるのは耐え難いことだ。

 ――いや、そうじゃないと沢渡はあわてて否定した。

 決して石黒綾美のことを信用していないわけではない。これからこの世界の支配者になろうという時に、何らかの迷いがあってはならないのだ。彼女のことを信じるために、嘘偽りがないことを確認するために彼女の影の深奥を覗くのだ――

 石黒綾美は熟睡していた。ワインと荒淫がよく効いたらしい。回帰者が別の回帰者によって自分の影に触れられた時、ヒンヤリとした独特の感覚が生じる。だが激しい疲労と強い睡魔はその感覚を鈍らせてくれるはずだった。以前、石黒純也の書き遺した影についての考察ノートに、影によって万物をコントロールすることが可能な回帰者も、過度の疲労にさらされると感覚が鈍化し、しかも睡眠中は外的な刺激に対して無防備かつ無反応になってしまうと記されていた。

 今なら石黒綾美の影に触れても気づかれないだろう。

 沢渡は回帰して自分の影をヤモリの輪郭を持つ黒いシルエットに変えた。ヤモリの影の口にあたる部分から長い舌のような細い影を伸ばし、眠っている石黒綾美の影にそっと触れた。

 まるでゴヤの裸婦像さながらのポーズでベッドに横たわる石黒綾美は、自分の影に沢渡の影が接触しても目を覚ますことはなかった。静かな寝息をたてながら眠り続けている。

 沢渡は石黒綾美の影の表層を覗いてみた。

 眠っているときなら影の表層に彼女の沢渡に対する本音の部分や無意識に感じていることなどが現れるかと思ったが、そこには何も無かった。沢渡は影の先端部を深奥に向けた。

 途方も無いうねりのようなものを感じた。

 地球創成期の海を思わせるような力強いうねりだった。ただ単に見ているだけでも吸い込まれ、その波の藻屑になりそうなうねりだった。

 やめようかと思った。だがここで中途半端な行動を取れば、何か取り返しの付かない後悔をするような気がした。

 沢渡は意を決すると、影の先端部に意識を集中した。

 先端部の色が濃くなった。沢渡がさらに意識を集中するにつれて黒い色はなおいっそう黒くなり、人知を超えたレベルにまで黒く染まった。あまりに黒いので、それと比較すると石黒綾美の影の深奥は灰色に見えてくるほどだった。灰色どころか微妙な陰影さえ現れ、まだら模様まで見えてくる。

 沢渡は異次元を覗く穴のような黒い影の先端部をそっと石黒綾美の影の深奥に挿入した。生暖かくてエロチックな感触があった。沢渡は自らの影をもっと奥まで挿入しようとしたが、それ以上深く挿入することは無理だった。石黒綾美の影の深奥部に広がっている闇黒よりも黒く染まった部分までしか挿入することはできないのである。回帰者としての彼の今のキャパシティではその部分までが限界だった。限界を無視して挿入すれば、たちまち石黒綾美の影の深奥部に彼自身の影が吸い込まれてしまう。

 極限にまで黒く染まった自らの影を通して見る石黒綾美の闇黒は、もはや闇黒ではなかった。沢渡は白黒の陰影によって構成された石黒綾美の影の深奥部を覗いた。




 2


 ――最初に現れたのは若い男の顔だった。

 石黒純也だった。石黒綾美の夫である。三白眼が不気味だがイケメンの部類には入っている。一度だけ石黒綾美がその写真を見せてくれたことがあった。

 沢渡の意識の中心にモノトーンの光景があった。白黒テレビの映像を見ているようだった。どこかの画廊のようなところにスーツを着て石黒純也は立っていた。映像の中にいる純也は若かった。画廊の店主と思われる老婦人と純也は会話を交わしていた。どうやら商談のために純也はここを訪れたようだ。

 白と黒の二色しか無いその世界に第三の登場人物が現れた。だがそれは二人を見つめる視点の主であるため姿は見えない。今、沢渡はその視点の主――すなわち石黒綾美のポジションに居た。純也が何気なくこちらを振り返ったが、すぐに視点の主は画廊の中の絵を見始めたので、純也も老婦人との商談を再開した。

 その次に現れたのはレストランの光景だった。石黒純也がワインを飲みながら何かを語りかけてくる。酔った顔はこの上もなく幸せそうだった。

 本当はワイングラスに入れたかったんだがキザに見えるのでやめたよ、と言いながら純也が白いテーブルの上で小さなケースを開けて指輪を見せた。婚約指輪らしい。

 どうやら沢渡が見せられているのは、石黒夫妻の出会いから結婚に至るまでのいきさつのようだった。すでにこの世の人間ではなかったが、まだ石黒綾美の記憶の中にしっかりと息づいている石黒純也に対して沢渡は微かな嫉妬を感じた。

 しかし所詮は過去のことであるし、石黒純也はもうこの世には居ないのだ。しばらくのあいだ石黒夫妻のハネムーンの追想が続いたが沢渡の気分をざわつかせることはなかった。

 だがやがて沢渡は妙なことに気づいた。

 夫が回帰者だと石黒綾美が知ったのは彼が亡くなってからのはずだった。それなのに今、沢渡が覗いている石黒綾美の記憶では新婚旅行でスペインに行った時、すでに純也は自分が『回帰者』であり、自分と同じ『回帰可能者』を探していたら偶然きみと出会ったと石黒綾美に告白している。しかもスペインから帰国して一ヶ月後、石黒綾美は純也から沢渡と同じようなレクチャーを受けてすでに『回帰者』となっている。

 以前、石黒綾美が話してくれたところでは、純也が亡くなってから半年後に彼の遺品を整理したことがきっかけで影への『回帰』を知ることになったはずだった。それが結婚して半年もしないうちに彼女は『回帰』を成し遂げていた。

 これはいったいどういうことなのだろう。その違和感を追おうとした沢渡の意識に上機嫌の石黒純也が現れた。掘り出し物だ、と言っている。茶色い紙に包まれた25号ぐらいの大きさの絵を抱えていた。

 「大地の号砲」と銘打った絵だった。純也はその絵にダウンライトの光を当てた。絵の額縁の角を黒く縁取る影ができた。

 純也の影が形を変えた。

 尖った耳を持つ猫科の動物の影だった。顔のあたりにポッカリと空いた大きな2つの穴は、目なのだろう。直立している猫の姿だった。

 回帰したときの石黒純也の『影型』だった。その猫のような影の前肢が絵の額縁から滲み出た影に触れた。

 純也は虚空を見つめながら何かをなぞるようにして方眼紙に鉛筆で輪郭線を描き始めた。何度か消しゴムで線を書き直し、ようやくひとつの影型を描き終えた。純也は「ガーレンの影型だ」と言った。

 沢渡はその輪郭線で作られた形をどこかで見たような気がした。それは6つに枝分かれした形状で、枝分かれしたそれぞれの先端に6つの小さな穴が開いている。

 絵を描いた画家は回帰者だった。その回帰者は絵の影の中にガーレンという回帰者が回帰したときの影型を保存していた。純也は絵の影を覗いてその中に保存されていた影型を方眼紙に描き出したのである。

「この影を使えばどんなやつも俺の思い通りだ。地上の人間をみんな奴隷にしてやる。ざまあみろ」

 純也は荒れていた。

 クライアントに初老の絵画コレクターがいた。伊能というそのコレクターは若くて有能なアートディーラーだった純也に上から目線で物を言い、パワハラまがいの言動でマウントを取るのが常だった。支払いも悪く、おまけに毎回当然のように勝手に値引きして支払いを済ませてしまう。

 その伊能というクライアントからある日、純也はどうしても我慢できないことを言われた。

 最近結婚したおまえの妻を美術品として鑑定してやると言うのだ。が良ければ高く買い取ってやるとまで言った。業者が集まるイベント後の親睦会における酒の席での発言だったが、シャレにならないその言葉に激昂した純也は後先考えずにその場で伊能を罵倒した。

 その翌日から石黒純也の根も葉もない噂が業界に広がった。発信元は伊能だった。彼は業界において有力者と言えるような立場にいたのである。石黒純也の評判は悪化し、美術商としての彼の業績は急激に落ち込んだ。

 純也は伊能と彼になびく美術商業界に対する復讐のつもりでガーレンの影を使うことを思いついた。ところがその影が世界中の人間を自分の足元にひれ伏させることができる力を有していることがわかると、彼はむしろそちらの方に強く興味を惹かれた。

 復讐は二の次になり、純也は征服欲に取り憑かれていた。

 石黒綾美は夫がやろうとしていることに賛同した。ガーレンの影を使って二人でこの世界を支配しようと夫に追従した。

 夫が仕事関係の相手からプライベートなことで侮辱された。それもよりによって妻である自分をネタにしてである。そればかりかその相手は激怒した夫に対して業界で圧力をかけてビジネスができないようにした。

 妻としては許しがたいことだったろう。だが夫の尻馬に乗って世界征服の夢を見る彼女の短絡さが解せなかった。普通はこういった場合、形だけでも夫をたしなめるものだろう。だが石黒綾美はそんなことなど一言も口にせず、夫をけしかけた。

 沢渡は嫌な予感を覚えた。

 このまま石黒綾美の影の中を覗き続ければ何か知らない方がいいようなことを知ってしまうような気がする。だがここまできて今さら止めるわけにもいかなかった。




 3


 不意に目の前に石黒純也の顔がアップになって迫ってきた。

 キスをされた。純也は全裸だった。巨大なダブルベッドの上である。純也と石黒綾美の自宅の寝室だった。

 純也に全身を舐め回された。胸から腰、脇の下や股間、足の裏や手のひら、耳の穴や鼻の穴、尻の穴まで舐められた。妻の身体を心ゆくまで味わおうという石黒純也の強烈な欲情だった。沢渡は不快さをこらえながら石黒綾美という視点の主であり続けた。

 その日も純也は商談がうまくいかなかった。彼の馴染みの得意先に伊能が圧力をかけていた。目のくらむような怒りを覚えた彼は帰宅するとその怒りのはけ口を妻の体に求めたのだった。石黒綾美の肛門に激痛が走った。純也に尻の穴を貫かれていた。

 そのまま純也は果てた。しばらくベッドで横になっていた彼はやがて起き上がるとバスルームでシャワーを浴びた。

 入浴後、バスローブを着たまま純也はガーレンの影型を描いた方眼紙を寝室に持って来ると寝室の壁に粘着テープで貼り付けた。

 そのときになって沢渡はようやくその影型が何なのか、記憶が蘇ってくるのを感じた。両手両足と長い尾がある直立歩行の生き物のシルエットだった。その頭や手足、尾にはそれぞれ目と思しき6個の穴が開いている。

 応接間に飾ってあるいくつかの絵の中に、竜のような生き物を描いたものがあった。竜というよりかは6つの頭を持つヘビと言ったほうがいいかもしれない。頭や手足、尾でありながらその先端には6個の赤い眼球と牙を剥いた口があった。寝室の壁に貼り付けてあるのはあの生き物の影型ではないのか。

 純也は壁から数歩さがった。方眼紙のすぐ横の壁に純也の影が映っている。その影がブルブルと震え始め、しばらくアメーバのように動いた後、猫科の動物のような輪郭を結んだ。回帰したときの純也の影型だった。

「今からやるの?」

 石黒綾美の声が聞こえた。

「ああ」

 純也は自分の影とガーレンの影型を見比べながら言った。

「ずいぶんと性急ね。ガーレンの影型をトレースするなんて一大イベントじゃないの? 地球上の人間をすべて言いなりにできる影なんでしょ。何か儀式っぽい演出はいらないのかしら?」

「そんなものはいらないよ」

 そう言って純也は虎かと見紛いそうな大きな猫の影を細く変形させ、壁に貼り付けた方眼紙の方へその影を伸ばした。輪郭に沿って影を満たしていき、やがて影は輪郭の内側を黒く塗りつぶしてガーレンの影型になった。

 「どう? 何か感じる?」

 純也は首を傾げた。

「いや、別に。何も変わらないね」

「何か手順を間違ったんじゃないの?」

「いや、そんなはずは――」

 そう言った途端、純也は顔をしかめた。天井を見上げたかと思うと、また視線を下に向け、さっきよりもっと険しい表情で顔をしかめた。

「どうしたの?」

「変なんだ。身体が。身体の内側が…なんだか動いているみたいだ」

 目が据わっていた。激しく喘ぎ始める。着ていたバスローブを脱ぎ捨てると純也は体中をかきむしり始めた。

「痒いんだ。たまらなく痒い。それに…身体の内側のいたるところで何かが、何かが無数に動いている!」

 後退り、純也は壁に背中をぶつけた。その勢いがあまりに激しかったので反動で純也は激しい音をたてて寝室のフロアに倒れ込んだ。石黒綾美はあわてて純也に駆け寄ったらしく、咳き込み、喉を掻きむしる純也の姿が沢渡の眼の前に大きく広がった。

「ちょっと…ねぇ、どうしたの? しっかりして! 何なの?!」

 純也が両手でしがみついてきた。その手が人間の肌の色とはかけ離れたような鉛色に染まっている。

「頼む! 助けてくれ! 身体が、身体が!」

 石黒綾美の記憶の中で彼女自身と化して追体験をしていた沢渡は方眼紙の方を向いた。ガーレンの影型はそこにへばりついたままピクリとも動かない。

「戻しなさい! きっとガーレンの影のせいよ! 早く影型を元に戻すのよ!」

 とっさにそう判断して石黒綾美は純也に呼びかけたが、純也はただ苦しそうに喘ぐだけだった。壁に飛びつき、そこに貼ってある方眼紙を剥がしたが、影は依然として固まったまま壁にへばり付いていた。

 その影がゆらり、と動いた。

 石黒綾美の視線が何かの気配を感じてフロアの方を向いた。倒れた純也の身体が痙攣した。ヘビが這うような動きだった。

 純也の全身がいつの間にか灰色に染まっている。だがよく見るとそれは無数の細かい灰色の鱗に覆われているせいだった。

 その鱗が一斉に逆立ち、鱗と鱗の間から小さな口が顔を出して小さな咆哮を発した。すべての鱗がその口の上唇であり下唇だった。

 一つ一つの咆哮は小さな音だったが、それが数百個となって同時に聞こえる不快感はこの世のものとは思えない。沢渡はあまりの気持ち悪さに耳を両手で押さえたが、鼓膜を腐らせるような咆哮は手をすり抜けて耳の奥に忍び込んできた。

 純也の首から上がズルリと脱皮するような動きを見せ、灰色の鱗に覆われながら変形した。毒蛇の頭のように角張った形に変わり、稲妻のように不規則に捻じくれたツノが数本、伸び上がった。

 額が割れて眼球が一つ、もう一つと増えていく。どれも赤く濁っており瞳孔が縦に長い。元からある目も同じような赤く濁った蛇の目に変化し、最終的に目の数は6つになった。そして左右3つずつ並んだ赤い眼球の下で牙を剝いた口が耳元まで裂けた。

 両手首と両足首も先端が膨らみ眼球が6つ現れた。口が耳元まで裂け、稲妻のようなツノを生やす。臀部が肛門のところから大きく割れ、同じような首を吐き出して尾になった。

 頭も手足も尾も、それぞれ眼が6つある怪物の首に変化していた。絡まりあったヘビの集合体のようなその怪物がのっそりと起き上がった。

 

 助けてくれ…助けて……


 全身の鱗が発する不快な咆哮の合間を縫って純也の声が聞こえる。怪物の首と化した両手をこちらに向けて伸ばしてくる。頭の部分の口からか、両手足の部分の口からか、尾の部分の口からか、それとも全身の鱗の隙間からなのか、しゃがれた純也の声が聞こえた。


 綾美……綾美………





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る