第16話  影の革命





 沢渡が石黒綾美と三度目の肉の交わりを終えたのは深夜の零時過ぎだった。

 20代の身体でもさすがに四度目に挑むのは荷が重かった。それに夜も更けている。帰るとすぐに朝早くから店の事務所で得意先と会わなければならない。

 沢渡は帰り支度をすると、石黒綾美の家から外に出た。舗装がされていない野ざらしの駐車場に停めてある自分のライトバンへと向かって歩く。石黒綾美が並んで歩きながら沢渡と手を組んだ。

「あなたと出会ってもうじき一年になるわね」

 石黒綾美は沢渡により掛かるようにして歩きながらつぶやいた。沢渡にとっては10年近くの歳月が過ぎ去ったような感覚だった。石黒綾美と肉体関係を持ったからだろう。幼い頃から親や教師、周囲の顔色を伺いながら生きてきた自分の人生が、この一年弱のあいだに一変していた。それは自分の妻を傷つけることになり、その妻の人生も一変させてしまった。

 志穂子がなぜあんなことをしたのか、よくわからない。世間並みの倦怠期にさしかかった熟年夫婦に起きるありきたりな出来事の一つだったのか、それとも石黒綾美と沢渡の関係を薄々感づいていたゆえの沢渡に対する志穂子のあてつけだったのか。あるいはそのどちらでもない何か別の理由だったのか。

 もし志穂子が戻ってきたら、もう一度影の中を覗いて彼女の本心を調べてみようと沢渡は思っていた。この前は感情的になっていたため、彼女の心の内を細かく見極めることができなかった。志穂子が男とつきあっていたという事実にショックを受け、そこに至る志穂子の気持ちにまで気が回らなかったのだ。

 ライトバンのドアを開けた沢渡は元の50代の姿に戻っていた。

 さっきまで『影合わせ』を使って20代の姿でいた沢渡だったが、車に乗って自宅へ帰る途中で警察の検問に引っかかって免許証の提示を求められた場合、そのままの姿でいれば面倒なことになる。まして今は警察にマークされている身である。

 石黒綾美も元の姿に戻っていた。深夜で近くに他の人家は無く、人目を気にすることはないのだが念の為だった。

「できるだけ早くここへ来るようにするよ。事前に連絡を入れるから」

 ライトバンに乗り込みながら沢渡は言った。

「待ってるわ」

 石黒綾美は嬉しそうに言った。沢渡は石黒綾美に手をふるとライトバンを発車させた。石黒綾美の自宅から遠ざかり、プラネタリウムのように美しい星空と麓に見える都市の夜景を見ながら、沢渡は石黒綾美から聞かされた『ガーレン』という回帰者の影のことを考えていた。

 石黒綾美の夫、純也は主に高級絵画を扱うアートディーラーだったが、たまたま立ち寄った場末の骨董品店で、気になる絵画を見つけて購入した。ヨーロッパやアジアや南米など世界各地の美術商の手を渡り歩いてきたというその絵から得体の知れない魅力を感じた純也は、その魅力の秘密を解き明かすべく、絵に光を当ててできた影を覗いてみた。そしてその影の中にガーレンという回帰者にまつわる秘密が封じ込められていることを知った。

 そこにはガーレンが回帰したときの影型も保存されていた。石黒純也はその影型を使えばガーレンが回帰者として有していた神の如き力を手にすることが可能だということを知ったが、その後まもなく病に倒れ、夭逝してしまったと石黒綾美は言っていた。

「でも、夫はどうすればガーレンの影に秘められた力を使えるか、つきとめていたわ。『影合わせ』を使うのよ」

 回帰者の影は回帰したとき、それぞれ独特の形を作る。石黒綾美は蜘蛛、沢渡はヤモリだった。沢渡が肉体を若返らせるために使った『影合わせ』によって、彼が回帰した石黒綾美の影型を真似ることは可能だが、影の形が変わるだけで影そのものには何の変化もない。回帰した石黒綾美の影型を沢渡が真似たところで石黒綾美が身につけている回帰者としての技術が使えるようになるわけではない。

 だが、ガーレンの影は強大な力を有するがゆえに『影合わせ』によって他の回帰者が簡単にその力を手にすることができるのだ。ガーレンの影の形に自らの影の形を合わせるだけで、神同然の力を手に入れることができるのである。

 ただし、ネックになることが一つある。性別という属性の問題だった。

 ガーレンという回帰者は「男性」という生物学的な性別を有していた。女性に対して旺盛な性欲を抱き、一晩に千人以上もの女性と交わり、しかもどの女性も彼との交わりを心ゆくまで堪能したと伝えられているほどの真正の「オス」だった。そんな彼の影が持つ力は女性と交わることによって維持されると同時に増強されるのだった。

 いにしえの神のごとき存在であるがゆえに、近代民主主義に基づいたフェミニズムやジェンダーといった概念とはガーレンは無縁の存在だった。そして性別という属性が男性である以上、回帰者でしかも男性の影でなければ、影合わせをしてもガーレンの力を発現することは不可能なのである。

 したがってガーレンの『影合わせ』をするのは沢渡の役目ということになる。だが沢渡は回帰歴がまだ一年にも満たない自分にそんな大役が務まるとは思えなかった。躊躇する沢渡に石黒綾美は言った。

「心配ないわよ。ただ影合わせをするだけなんだから。あたしもフォローするわよ」

「しかし……」

「ガーレンの力を手にしたら、あなたはその瞬間からすぐにこの世界の支配者になるのよ。それにこれはあなたの問題よ。あなたが自分でケリを付けなきゃだめじゃない」

 何やら押し付けがましい言い方だったが、その一方で沢渡は「この世界の支配者」という言葉の誘惑に心が揺れるのを抑えることができなかった。

「わかった。やってみる」

 沢渡は決心して石黒綾美にその意を伝えた。

「ただし、やりかけた仕事や大切な用事がいくつかある。それが片付くまで待ってくれ。すべて終わったら連絡を入れるから」

 沢渡の決心は固まっていた。しかし彼にはガーレンの影合わせに関して差し迫った現実感が無く、どこかまだ夢物語として受け止めているところがあった。そのせいか、なぜか今ひとつ本気を出したり乗り気になったりということができない。のんびりと構えているわけにはいかないことは承知していた。警察が重要参考人として事情を聞きたいといつ言ってくるかわからないのだ。

 しかし彼にはもう一つ気がかりなことがあった。志穂子だった。





 数日後、沢渡は仕事と所用を全て片付けた。新しく入ってくる仕事は一応請けることにしたが、納期はかなり先になると客に伝えることにした。

 尾行を撒いたことで警察から何らかの連絡や接触があるかと思ったが、別段、変わったことはなかった。刑事が張り込んでいる気配は毎日感じられたが、室伏からの電話や訪問は一切ない。

 いつでもを行うことができる状態だった。石黒綾美に連絡を入れるべきなのだが、行動を起こす意志が湧かない。志穂子のことが気にかかっていたのである。

 志穂子からは依然として何の連絡もなかった。

 警察のことと同様に志穂子のことにしても沢渡がガーレンの力を手に入れたら瑣末事になってしまうはずだった。ガーレンの持つ圧倒的な『傀儡』の力があれば、この世界のすべての人間の動きを制御し、思い通りに操ることができる。「すべての人間」だった。志穂子も例外じゃない。

 だが、自分のような男と結婚し、一緒にひとつ屋根の下で暮らし、自分のような夫のために炊事洗濯をやり、その夫の少ない稼ぎに対して文句一つ言わず、そればかりか潰れかけた店の資金繰りを助けてくれていた女を、他の人間と同列に扱っていいのだろうか。本田という男とのことも一時の過ちだろう。志穂子だけは影の力とは無関係な次元で接してやるべきではないのか。

 事を起こす前に志穂子と会いたかった。世間一般の危機的状況にある夫婦がよくやるような「夫婦間の話し合い」というやつをやってみたかった。少なくとも志穂子の影をもう一度覗いて、どうしてこんなことになってしまったのか知りたかった。志穂子が戻ってくるのならをやめてもよかった。何もかもあらいざらい打ち明け、手遅れかもしれないができることなら志穂子とやり直したかった。

 希望は打ち砕かれるためにある。そしてその警句は回帰者となった沢渡にも等しくあてはまった。

 その日、店から自宅に戻ってきた沢渡はダイニングキッチンのテーブルの上に置き手紙のような封筒があることに気づいた。

 心臓が高鳴った。恐る恐る手にとって見る。志穂子からだった。留守中に合鍵を使って入ったのだろう。封を開け、沢渡は手紙を読んだ。




本当はこんな手紙を書くつもりは無かったんですが、これを私たちの夫婦としての最後のやりとりにするつもりで書きました。

言い訳はしません。だからあなたも今お付き合いをしている人のことで言い訳はしないでください。

それから一つだけあやまりたいことがあります。もう何年も前からあなたのことが嫌いでした。ごめんなさい。


同封した書類に署名捺印をして下記の弁護士事務所に送り返してください。それが駄目だというのなら、この弁護士事務所に連絡してください。


さようなら




 封筒には志穂子の署名捺印がある離婚届の紙が入っていた。この手紙が本当に離婚をするために書かれたものなのか、それともただ単に思いの丈を沢渡にぶつけるためだけのものなのか、沢渡にはわからなかった。だが志穂子が何年も前から沢渡のことを嫌っていたというくだりに、沢渡は少なからずショックを覚えていた。

 女の勘というやつなのか、それとも何か具体的な証拠があるのか、やはり志穂子は沢渡が自分以外の女性と関係を持っていることを知っていたらしい。だがそれは志穂子が夫以外の男と関係を持ち、このような置き手紙を書くようになった一つのきっかけに過ぎないのかもしれない。何か別のきっかけでもこうなっていただろうし、何もなくても遅かれ早かれこうなっていただろう。

 沢渡と志穂子は勤めていた会社で出会った。

 二人とも金属製品を作っている中堅メーカーの営業部に所属する社員だった。ある見本市会場への出展企画を任された沢渡が2歳年下の志穂子に仕事をサポートしてもらっているうちに親しくなった。

 沢渡が会社を辞めて自分の店を開業したとき、志穂子はまだ会社に残って勤めを続けていたが、沢渡との交際は続いていた。その後、志穂子は沢渡と結婚し、そのとき彼女は勤めていた会社を退職した。

 夫として自分に至らない点があったことは否めなかった。稼ぎが悪くて商才が無い。ネガティブ思考でものぐさタイプ。家事は手伝わないし夜の営みは少ない。そんな自分と志穂子との間にあったのは心と心の微妙な摩擦による痛痒感だと思っていた。だがそれは沢渡にとっての感覚であって、志穂子にとっては骨まで達するような裂創による耐え難い激痛だったのかもしれない。

 手紙の文面から沢渡はもう元には戻れないと悟った。せめていつごろから自分のことを嫌いになったのか教えてほしかった。身から出た錆だとは思ったがひどく悲しく、そして寂しかった。

 沢渡は泣いた。





 その日は沢渡が石黒綾美と会ってからちょうど一年目になる日だった。11月1日の午後、沢渡は石黒綾美に電話をかけた。

「今夜、そっちへ行こうと思う」

 沢渡はをおこなうために石黒綾美の自宅へ行くことを告げた。

「わかったわ。用意しておくけど、ガーレンの『影合わせ』をするのは明日になるわよ」

「了解した」

 それからいくつか打ち合わせを済ませると、沢渡は電話を切った。沢渡の声が沈みがちなのを気にした石黒綾美から原因を訊かれたが、仕事が忙しかったので疲れているだけだと言って誤魔化した。

 一週間ほど前、志穂子が書いた手紙を読んでからの沢渡はひどい鬱状態になっていた。何もやる気が起きず、食は細り、夜は眠れなくなっていた。深酒をしても気分は落ち込むばかりで、酔いつぶれて眠るということもできない。自分が回帰者であるという事実も、彼の鬱状態を解消する手助けにはならなかった。自分が石黒綾美に投げかけた「すごいことができるというのと、何でもできるというのは、違うと思う」という言葉が自分に跳ね返ってきていた。

 やがて沢渡は志穂子のことはあきらめるしかないのだという境地に達するようになった。ある意味それは前進だが、血を吐く思いを伴う前進だった。そしてその思いを消し去り、虚ろになった心の内を癒やしてくれるものは石黒綾美以外には存在しなかった。沢渡は儀式をおこなうことを伝えるためではなく、むしろ石黒綾美に会いたいがために彼女に電話をかけたのである。

 石黒綾美にかけた電話を切った後、沢渡は放心したように自宅の天井を見つめていた。昼過ぎだった。今日はもう店には行かないことにしていた。店は昨日から閉めたままだった。

 石黒綾美と寝たときのことが頭の中に蘇ってきた。股間に熱が湧く。急にさっきまでの沈んだ気分が上向きになり始めた。一週間近く志穂子のことでいっぱいだった頭の中に石黒綾美の体のことが充満した。彼女のふくよかな胸、しなやかな背中、形の良い腰と臀部。そして若返ったときの彼女の瑞々しい肢体――

 電話が鳴っていた。さっき石黒綾美にかけていた携帯電話ではない。自宅の固定電話だった。

 無視しようかと思った。だが、もしかすると志穂子からかもしれない。自分の寝室に居た沢渡は、ダイニングキッチンの部屋にある固定電話を取った。

「ああ、沢渡さん」

 一瞬、声の主が誰かわからなかったが、室伏だった。

「お店の方に電話をかけたんですがいらっしゃらないようでしたので、携帯電話にかけさせてもらいました。でも、お話し中でしたね。それで御自宅の方に電話をかけさせてもらったんです」

 沢渡はショートメールに着信通知が来ていることに気づいた。ちょうど石黒綾美と電話で話をしている最中に室伏が電話をかけてきたらしい。

「何でしょうか?」

 尾行を撒いた件で何か問い詰めようという気なのかと沢渡は身構えた。

「例の西山さんの件です」

 室伏の口調は柔らかだった。

「西山さんと付き合っているがいると、この前あなたにお伝えしたんですが、そのときはまだその男が何者なのか不明だったんです。ところが聞き込みを続けているうちに、いくつかの目撃証言や関係者の話からその男の素性をある程度つかむことができましてね」

「……」

「年齢が50代前半で背の高い男です。昔ブームになった『チョイ悪オヤジ』という垢抜けた印象の男なんですが、何か心当たりはありませんかね」

 西山の喫茶店にガラの悪い連中が屯しているのを見たことはある。だが『チョイ悪オヤジ』という感じではなかった。怒らせると何をしでかすかわからない反社関係の人間のような剥き出しの危険さを漂わせていた。

「いや、何も。その人はどういう人なんですか?」

「実は正直なところ、われわれもまだその男の詳細な素性をつかんではいないのです。職業は……何ていうんでしょうか、IT関連の会社を経営しているらしいんですが、残念ながらそれ以上のことは」

 沢渡はなぜか鳥肌が立つのを感じた。記憶の底に淀んでいる何かに思い当たったのである。だがその何かが思い出せない。

「その男に関してもしお心当たりのことがあれば御連絡をお願いします。失礼いたしました」

 室伏はそう言って電話を切ったが、彼の口調からは以前のような腹の底を探るような色が消え失せていた。まるで沢渡のことを足手纏いとして思っているかのような素っ気ないものさえ感じられた。もしかすると警察は沢渡に対する疑いを解き、そのチョイ悪オヤジ風の男を本命としてシフトチェンジしたのかもしれない。

 そういえばここ二、三日のあいだ沢渡の周辺を監視していた刑事たちの姿が消え失せていた――

 仮に自分に対する警察の疑いが晴れたとしたら、それは喜ぶべきことだった。だが沢渡は警察が本命として疑っているその男のことが気になった。やがて彼は一人の男に思い当たった。本田康彦という志穂子の不倫相手である。IT関連のベンチャー企業を経営している男だ。

 まさか……

 偶然の一致だろうと思った。だが何かおかしい。それが何なのかよくわからないが、沢渡はこれが偶然ではないという不可解な胸騒ぎのようなものを感じた。





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