第14話  追われる影






 仕事が手につかなかった。

 志穂子を問い詰めてから一週間が経つ。その間、志穂子からはメールも電話も一切の連絡が沢渡のところには来なかった。親戚関係にそれとなく尋ねてみたが、志穂子が今どこでどうしているか知っている者は誰もいなかった。知っていてとぼけている可能性もあったが、わざわざその親戚に会いに行って影の中を覗いて確認しようという気にもなれなかった。

 本田という男のところへ身を寄せているのかもしれない。不愉快な状況だが、まだその方が安心できた。思い詰めた志穂子が早まったことをしないか心配だったのだ。 

 彼女は紛れもなく本田と不貞関係にあった。なまじその事がはっきりしているだけに、夫がその事に気づいているらしいと知って志穂子がどれだけ精神的に追い詰められているかが思いやられた。志穂子が西山のように早まったことをするのを沢渡は恐れていた。

 その西山のことで、室伏から連絡があった。

 捜査に進展があったので、訊きたいことがある。今晩にでも会えないかと室伏は言った。

 今はそれどころではない沢渡だったが、室伏の来訪に難色を示して心証を悪くするのもまずかった。訪問に応じることを伝え、店を閉めた一時間後の午後7時、やって来た室伏を事務所に招き入れた。

 昨年11月の末、西山の喫茶店へ沢渡が現金を持って返済金の支払いに行ったときのことについて訊きたいと室伏は言った。その時居合わせた常連客の大学生が沢渡の姿を見ていた。大学生は沢渡が来たときと、返済金の領収書を書いたあとと比べて、西山の様子に変化があったような気がすると証言している。何か心当たりはないか、と室伏は言った。

 常連客の大学生の証言は、この前室伏が来た時に沢渡に対して秘匿していた情報だった。そのとき室伏の影を覗いて彼がその情報をわざと沢渡に伝えていないということを知っていたので、沢渡は捜査の進展という室伏の白々しい言い方に対して何を今更、と腹の中で毒づいていた。

「うーん、私は特に何も感じませんでしたが」

 沢渡も白々しく返答したが、室伏は彼の返答に対してあまり大きな関心を示さなかった。むしろ予期していたかのように頷くと、その後の捜査の過程で新たに判明したことを沢渡に話し始めた。

 警察の調べによれば西山には男色の趣味があり、それが原因で数年前に妻と別れている。その西山に半年ほど前、ができた。西山はその男と一週間に一度の割合で会っていた。

「どうやらかなり深い仲だったようですな」

 室伏は沢渡の顔を意味ありげに見つめた。彼の影の中を覗いた沢渡は、警察がまだその男の素性や詳しい人相風体を掴んでいないことを知ったが、なんと室伏はその男が沢渡ではないかと疑っていた。そして西山は借金の返済が滞っていた沢渡に、自分とになってくれたら借金をチャラにするつもりだと持ちかけ、それを受け入れた沢渡が西山とになったのではないかと疑っていた。

 しかしそんな二人の間にある日、痴話喧嘩が起きた。怒った西山が借金をチャラにする件を撤回し、そのうえ二人の関係を沢渡の妻に暴露すると言った。西山としては喧嘩の上での単なる売り言葉に買い言葉だったのだろうが沢渡はそうは思わなかった。追い詰められた沢渡に西山への殺意が芽生え――

 室伏のあまりにも突飛な想像に沢渡は失笑を通り越して驚愕を覚えていた。そんな沢渡の顔色を見て勘違いした室伏は、ニンマリと笑いながら言った。

「ところで、奥さんにも少しお訊きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 志穂子が家出同然だということを警察はすでに把握しているらしい。志穂子が家出したのは沢渡と西山の関係を何らかの理由で知りショックを受けたからだろう。いや、もしかすると沢渡が西山を手に掛けたことまで志穂子は知ってしまった可能性がある。都合が悪くなった沢渡は口封じのために志穂子を――

 沢渡はあまりに的はずれな室伏の推理に辟易していた。だが笑い事では済まされない。

「実は一週間ほど前から妻がいなくなりましてね」

 沢渡の言葉に室伏は舌なめずりをするような表情を浮かべた。

「ほう。それはまた困ったことですな。何かあったんですか?」 

 沢渡は顔をしかめながら言った。

「私も原因がわからないんですよ。勤めているパート先には無断欠勤が続いているし、親戚にもさり気なく尋ねてみたんですが、心当たりがないというんです」

「それは大変ですね。こちらの所轄署には相談に行かれましたか」

「よくある熟年夫婦の倦怠期というやつだと思います。何か私に至らない点があってストレスが溜まっていたのでしょう。まぁひょっこり帰ってくるかもしれませんので、しばらく様子見ですよ」

「そうですか。でも相談されるのならできるだけ早いほうがいいですよ」

 それから室伏は30分近く話をしたが、沢渡が彼の影の中を覗いて得た情報以上のことは喋らなかった。そしてまた何か進展があれば報告するので今後とも御協力お願いしますと言い残し、立ち去って行った。





 それから数日が経った。

 相変わらず志穂子からは何の連絡もなく、もちろん沢渡の前に姿を現すこともなかった。

 その代わり、彼の周辺に刑事らしき男の姿が目立ち始めた。

 朝、マンションから住人用の駐車場へ向かうと、玄関脇の植え込みのあたりに人が立っていた。Tシャツを着た角刈りの若い男だった。歩道に立っているその男は沢渡がマンションの玄関から出てくると車道を隔てた向かいのオフィスビルに目を向けたが、すぐに視線を戻し、マンションの裏手にある駐車場へと向かう沢渡の姿を目で追った。

 昼過ぎ、沢渡が自分の店に出先から戻ってくると、隣の建築設計事務所の前に停まっていた車の陰に男が立っていた。色の黒い30代ぐらいの男で、沢渡は室伏かと思ったが、背が低くてがっしりした体つきの室伏とは違い、その男は長身で痩せていた。スマホで誰かと会話しながらその場を立ち去ったが、スマホでの会話はなんとなく芝居じみているように聞こえた。

 帰宅する時は銀色のセダンに尾行された。ハンドルを握っているのは初老の男だったが、助手席に座っているのは年齢や年格好からして室伏のように見えた。最初のうち、沢渡は彼らのことを無視していたが、ほぼ毎日似たようなことが続くと沢渡のメンタルはストーカーの餌食になっているようなストレスを感じ始めた。

 沢渡はあえて彼らの影を覗こうとはしなかった。刑事だということは想像がつく。彼らの目的は監視していることを見せつけて、こちらに揺さぶりをかけることなのだろう。

 数日前、室伏がやって来たとき、そのあまりに的外れな推理に吃驚したものの、沢渡は大様に構えていた。そのうち自分たちがいかに大きな勘違いをしているか気づくだろうと思っていた。だが室伏たち警察は本気で沢渡を西山の殺害容疑でパクるつもりらしい。最悪の場合、そこに妻殺しの容疑も加わるだろう。さすがにのんきに構えてはいられなくなった。

「相談したいことがある」

 沢渡は携帯電話で石黒綾美に連絡を入れた。通話記録が警察に調べられるのを警戒して沢渡はこの前、石黒綾美と電話で話してからは、できるだけ彼女と連絡をとらないようにしていた。石黒綾美と話すのはおよそ2週間ぶりになる。

「面倒なことにならないうちに手を打ちたい」

「わかったわ。じゃあ明日、私の家まで来て頂戴。ただし車じゃなくて電車やバスのような公共交通機関を使ってほしいの」

 沢渡は今話している電話の通話記録を警察に押さえられるのではないかと気が気ではなかったが、石黒綾美は平気で話し続けた。電車の道順を沢渡に説明し、移動に要する時間を伝えた。





 次の日、沢渡は石黒綾美から聞いた道順どおりに、自宅近くにある豊永駅という私鉄の駅から電車に乗った。

 豊永駅から私鉄に乗って10分少々で川石駅に着く。川石駅内で野辺電鉄に乗り換え、20分弱で山舌駅に着き、そこから徒歩で30分ほどかかるところに石黒綾美の自宅があった。山舌駅からは公共交通機関がなく、タクシーを使うかもしくは山の中の道を歩かなければならなかった。

 豊永駅で電車に乗ったのは午前10時ごろだった。ラッシュ時を過ぎていたので車内は6割ぐらいの乗車率だった。空いていると言えば空いているが、ガラガラという状態ではない。沢渡はいつもマンションの玄関脇にいる角刈りの男が同じ車両に乗っていることに気づいていた。その男以外にも沢渡を尾行している刑事がいるかもしれない。だが沢渡は周りを見回すような愚は犯さなかった。

 電車が川石駅に着いて沢渡が降りると、角刈りの男も降りて来た。沢渡は野辺電鉄の乗り換え口には向かわずにいったん駅の改札口を出ると駅前のロータリーに向かった。角刈りの刑事が距離をおいて沢渡のあとについて行く。

 ロータリーの上に架かっている歩道橋に上った。ちょうどタクシー乗り場の上になる位置で沢渡が立ち止まると、尾行していた角刈りの刑事はそのまま沢渡のかたわらを通り過ぎ、しばらく歩いてから駅ビルの方を向いてさり気なく立ち止まるとスマホで電話をかけるフリをし始めた。

 何かが自分の影に触れる気配があった。同時に石黒綾美の声が沢渡の頭の中で響いた。


―― もう一人、刑事があなたを尾行しているわ ――


 沢渡が歩道橋から下を見下ろすと、打ち合わせ通りにバス停のそばで所在無げに立っているフリをする石黒綾美が居た。沢渡の方からは目を逸らし、近くにあるブティックのショーウインドウを見ている。

 沢渡は足元を見た。薄くて細い影が沢渡の影に繋がっていた。石黒綾美の足元には蜘蛛の形の影があり、そこから伸びた蜘蛛の肢のうちの一本がバス停の前の歩道を這い、歩道橋の階段を這い上がって沢渡の影に繋がっているのだ。

 だが石黒綾美の影から伸びているのはその影だけではなかった。

 石黒綾美は自分の影から放射状に細い影をいくつも周囲に伸ばしていた。さらにその細い影同士を横に伸ばした何本もの影で繋ぎ、まさしく蜘蛛の巣のように影を広げていたのである。

 蜘蛛の巣ならぬは駅前のロータリー全体を網羅するように覆っており、その一部は駅の改札口の方にまで届いていた。ほとんど見えないぐらいに薄い影なので誰も気づく者はいない。石黒綾美はそうやって広げた蜘蛛の巣ならぬでその一帯にいる人間の影に触れ、その中を覗いているのだった。

 石黒綾美は影の巣の中にいる人間すべての影からその人間の影を覗き、刑事かどうかを一人一人判別していた。かなりの精神力を要する技術であり、沢渡にはとても無理な作業だった。


―― 改札口にも刑事がいるのよ。アラフォーの女刑事だわ。あなたがバスに乗ると見せかけて電車に乗って行方をくらますのを想定しているようね ――


―― 他に刑事はいないのか? ――


 沢渡は影を通して石黒綾美に問いかけた。


―― わたしが確認したところでは、その二人以外に刑事はいないようだわ ――


 それから沢渡と石黒綾美は細かい打ち合わせをしてから行動に移った。立ち止まっていた沢渡は、急に歩き出すと歩道橋の階段を駆け下りた。スマホでを演じていた角刈りの刑事があわてて沢渡の後を追う。

 歩道橋を降りると、沢渡は改札口の前にある券売機で適当な行き先の切符を購入した。改札口から少し離れたところにメガネを掛けて立っている高校教師風の女が刑事だった。

 沢渡が改札を通って駅構内に入ると、女刑事があとについて改札を通ろうとした。だが、さり気なく近くまでやって来ていた石黒綾美が『傀儡』を使って女刑事の動きを止める。まもなくやって来た角刈り刑事も石黒綾美の『傀儡』の餌食となった。

 数分後、沢渡は石黒綾美がそうやって時間稼ぎをしている間にプラットホームに入って来た電車に乗り込むと、適当な駅で降りた。そこでタクシーを拾うと山舌駅まで行き、山舌駅でタクシーを降りた沢渡は徒歩で石黒綾美の家まで向かった。





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