第13話  荒れる影





 沢渡はコンビニに停めてあった車のドアを開け、サウナのような運転席に腰掛けた。ドアを閉めてエンジンをかけようとしたとき、近寄ってきたコンビニの店員が沢渡に声をかけた。

「お客さん、この前も停めてましたよね」

 若い男性店員が不機嫌そうな顔でこっちを見ていた。コンビニの制服を着たその店員は、この店で時々見かける顔だった。少し長めの髪にパーマをかけており、店長ではないが、バイトリーダーか副店長のような役回りらしかった。

「当店に用のないかたの駐車場の御利用は遠慮していただくことになってるんですよ。前も言いましたよね?」

 沢渡は得意先や外注先へ行き来するとき、交通の便が良いこのコンビニをトイレ代わりに使っていた。また携帯電話で連絡を取る必要がある場合に、ここの駐車場に車を停めて長話をしたことが何回かあった。

 駐車場はいつも込んでいて、店は用事もないのに長時間の駐車をする利用者に手を焼いているようだった。沢渡は気を遣って車を停める時はソフトドリンクや菓子パンを買ったりしていたが、たまにそれを忘れてしまうことがある。数日前、コンビニで何も買わずに携帯電話で一時間近く得意先と打ち合わせをしていて、この長髪パーマの男に注意されたことを思い出した。

「ああ、すみませんね」

 沢渡は謝ったが、志穂子のことで気もそぞろだったので、ぞんざいな口調になってしまった。男は気色ばみ、うんざりした顔をすると刃物が空気を切るような声で言った。

「同じことを何度も言わせるなや」

 面倒くさそうに舌打ちをしながら男はコンビニの方へ戻って行った。

 俺は認知症老人じゃない――西山のことが頭をよぎり、沢渡の中で何かが弾けた。

 沢渡は車から降りるとコンビニの店内に入った。

 エアコンの効いた店内は広くて涼しく、レジは2台あった。客が二列に並んで精算を待っている。長髪パーマの男とアルバイトの女の子がレジを打っていた。

 沢渡は『回帰』していた。

 陳列棚にある菓子パンの中から適当なものを選ぶと、コンビニのフロアを這う爬虫類と化した影とともにレジの方に向かった。影は薄い色をしていて輪郭もぼやけているので、店内にいる者は誰も沢渡が大きなヤモリのような影を引き連れて歩いていることに気づかない。沢渡はそのまま歩いて長髪パーマの男がレジを打っている方の列に並んだ。

 自分の精算の番が来ると沢渡は菓子パンをカウンターの上においた。長髪パーマの男はジロリと沢渡を睨みつけると無言で菓子パンにバーコードリーダーをかざした。ボンヤリとした大ヤモリの前肢の影がカウンターの前面を這い上がり、カウンターの上に映っている男の手の影に触れる。

 沢渡がカネを払うと男がもう一度、沢渡の顔を睨めつける。沢渡から紙幣を受け取って釣り銭を返す男の手の影がカウンターの上で前後左右に動いていたが、大ヤモリの前肢はそんな男の手の影に触れたまま、いっしょに前後左右に動いていた。

 沢渡がレジから離れ、次の客がレジのカウンターに買ったものを置いたとき、長髪パーマの男は突然レジから飛び上がり、天井に激突した。

 男の背中がぶつかって天井の照明器具が割れ、ガラスの破片が飛び散る。男の隣でレジ打ちをしていたアルバイトの女の子が悲鳴を上げた。

 男はすぐに落下したが再び飛び上がると、割れた照明器具に背中をぶつけて下に落ちた。落ちるとまた飛び上がって天井に背中をぶつける。重力の反転が5、6回続いたあと、やっと男は下に落ちたまま動かなくなった。

 客も店員も何が起きたのかわからず、あっけにとられていた。沢渡は横たわる男の影から自分の影を退去させた。顔を引き攣らせているレジの女の子に客の一人が「救急車を呼ばんとアカンわ」と声をかけた。長髪パーマはうめき声を上げていたがピクリとも動かなかった。

 沢渡は異常なまでに冷静な目で男の様子を見ていた。危うく殺すところだったが、後悔はしていなかった。





 救急車が駐車場に停まり、救急隊員がコンビニ店内に入る様子を見ながら沢渡は自分のライトバンに戻り、エンジンをかけた。

 長髪パーマのコンビニ店員に対する怒りがおさまると、自分が大変なことをしでかしてしまったという現実感がひしひしと迫ってきた。

 だがそれも駐車場からライトバンを車道に出し、他の車の流れにまぎれ込んで走り始めるまでのことだった。ハンドルを握る沢渡の脳裏に駐車場での屈辱的な思いが蘇り、怒りが再燃した。

 自分は『回帰者』だ。影を使ってこの世のありとあらゆる物をコントロールすることができる。あの店員はそんな俺に対してナメた態度を取ったのだ。同じことを何度も言わせるなだと? 口の利き方に気をつけろ――

 ピンボールと化してコンビニの天井と床の間を往復した長髪パーマの男に対して沢渡は脳内でモンスタークレーマーのように吠えていた。言いようのない激しいものが胸にこみ上げ、その熱く滾ったものが喉の奥から逆流しそうだった。

 沢渡は店に戻ると仕事を早い目に片付け、店を閉めて帰宅した。自宅マンションに戻ると志穂子が作ってくれていた夕食をレンジで温め直して食べ、そのあとシャワーを浴びるとダイニングキッチンで志穂子の帰りを待った。

 志穂子が帰ってきたのは日付が変わる直前の深夜だった。

 志穂子は昼間見た姿とは違い、地味な色のチュニックと白いパンツを履いていた。ダイニングキッチンの椅子に腰掛けている沢渡に気づくと、「あら、まだ起きてたの」と素っ気なく言った。

「昼間、見かけたよ。どこへ行ってたんだ?」

 沢渡はコンビニの前で彼女の姿を見たことを単刀直入に言った。

「何のこと?」

 志穂子は開き直っているのか本気でシラを切ろうとしているのか、平然と言った。

「とぼけなくていい。なんだかすごい格好してただろ。誰かと会うつもりだったのか?」

 沢渡は自分でも驚くほど冷静に喋っていた。昼間、志穂子の姿を見たあとに全身から力と熱が抜け落ちていくような思いに何度もさらされていたので、最悪の事実を知る覚悟はできていた。

「知らない」

 そう言ってバスルームへ向おうとした志穂子に沢渡は「男だろ?」と口から苦い言葉を押し出した。

「知らないわよ。何のこと?」

 沢渡は立ち上がると志穂子の前に立ちふさがった。チュニックの生地を掴んで自分の方に引き寄せる。

「頼む。本当のことを言ってくれ」

「いいかげんにしてっ」

 志穂子はチュニックを掴んでいる沢渡の手を振り払った。唖然とする沢渡を尻目に志穂子はバスルームへと向かった。

 ダイニングキッチンの床に映った沢渡の影が志穂子の影を掴んだ。

 『傀儡』を使った。大きなヤモリの影が舌を長く伸ばして志穂子の影に巻き付いた。

 急に前へ進めなくなった志穂子はつんのめりそうになりながら立ち止まった。ひとしきり狼狽し混乱していた志穂子の顔がこちらを向いた。沢渡は目を逸らしながら志穂子の影を覗いた。

 覗いたことを沢渡は後悔した。やはり男だった――

 ――今日の午後、志穂子は本田康彦という男と会うことになっていた。志穂子の高校時代の同級生で、IT関連のベンチャー企業を経営している中年男だった。スラリとした長身と、フサフサとした髪に白いものが混じっている端正な顔立ちの持ち主でといった雰囲気がある。車に乗った本田が志穂子を拾い、2人は近くのモーテルかラブホでショートタイムを楽しむつもりだった。

 だが、。志穂子と待ち合わせをしていた場所へ車で向かっていた本田から連絡が入った。志穂子の後をつける不審な男がいる。志穂子の夫が雇った探偵かもしれないし、ひょっとすると夫本人かもしれない。そう言って彼女に電話で警告したのだ。志穂子は逢瀬をあきらめ、タクシーに乗ってその場から立ち去った――

 沢渡は『傀儡』を使って動きを止めていた志穂子の影から自分の影を引き離した。 

 青ざめた顔で沢渡を見つめながら志穂子はそのままじっとしていたが、自分が動けることに気づくと壁へ後ろ向きに手を這わせながら横ばいで後退りした。そのまま自分の寝室へ進んでいく。ダイニングキッチンで志穂子から目を逸らしながら立ち尽くしていた沢渡は、寝室のドアが激しい音を立てて閉まり、カギがかかる音を耳にした。

 志穂子に対する怒りとともに全身が腐っていくような虚脱感に捕らわれ、沢渡はただ黙って立ち尽くすのがやっとだった。いろんな思いが交錯していた。怒りや嫉妬や理不尽さと同じぐらいに罪悪感と自己嫌悪が彼の心を焼いていた。

 石黒綾美と親しくなるにつれて、いつかこんなことになるのではないかという予感のようなものを感じていた。だが、予感と言ってもそれは無視していたのも同然の空耳のようなものだった。その空耳が現実化した。

 沢渡はこれ以上、この重い虚脱感に耐えることができそうになかった。沢渡は逃げ出した。自宅マンションを出ると、マンションの住人用の駐車場に停めてある自分のライトバンに乗って深夜の街をあてどもなく走り始めた。





 夜が明けたころ、沢渡は自宅のマンションに戻った。

 玄関の鍵は出て行ったときと同じように掛かっていなかった。ドアを引くと何の手応えも無く開いた。

 ダイニングキッチンのシーリングライトも明かりが灯ったままだった。沢渡は志穂子の寝室へ向かった。

 数時間前、車に乗って出かけた沢渡は、車も人通りも途絶えた深夜の街をあちこち走り回った。そのあと高速道路に入り、長距離トラックが何台も並んで停車しているサービスエリアに車を停めた。そのまま少し眠り、再び高速道路を走ってどこかの出口から一般道に降りた。自分が今どこにいるのかわからなくなってしまったが、それが心地良かった。高速道路の脇にある森のようなところに車を停め、空が青みがかってくるまでボンヤリとしていた。

 ぼやけた頭で考えた。とりあえず冷静になって志穂子と話をしよう。あくまでもしらを切るなら、思い切って打ち明けてしまおう。なぜ自分が志穂子の嘘を見破れるのかを。そうなると当然、石黒綾美と自分の関係にも話が及ばざるを得ないかもしれない。場合によってはあの夜の自分の過ちについても告白しなければならなくなるだろう。

 沢渡は覚悟を決め、車のエンジンをかけた。高速道路沿いに走っていると、思いもかけず見慣れた場所に出た。それから30分ほど車を走らせ、自宅に戻ったのだった。

 志穂子の寝室の前に来ると、意を決してドアをノックした。声をかけたが返事はなかった。しばらくしてからもう一度呼んでみようと思ったとき、ドアがほんの少し開いていることに気づいた。そっとドアを押してみる。

 寝室には誰もいなかった。ベッドに乱れた様子はなく、クローゼットも閉じている。ドレッサーの上に口紅と化粧品が置いてあったが散らかっているという感じではなかった。

 沢渡が出て行った後に志穂子も出て行ったらしい。そんな室内の様子を見て重苦しかった虚脱感がむしろ少し楽になるのを感じた。だが虚脱感に変わりはない。

 志穂子は自分の身体が急に動かなくなったとき、どう思っただろうか。沢渡はふと考えた。沢渡の仕業だと気づいたかどうかはわからないが、何か変だとは思っただろう。混乱していたかもしれない。出て行ったのはそんな自分自身を落ち着かせようとしてのことだろう。

 沢渡はそんなふうに思い込もうとした。志穂子の寝室から出ると、朝食を済ませ自分の店へ出かけた。仕事を終え、帰宅したが志穂子は帰って来ていなかった。

 翌日も同じだった。その翌日も。沢渡の虚脱感は焦りと不安に変わっていった。





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