第12話  影の崩壊






 室伏は、いや警察は本気で沢渡を疑っているようだった。確かに以前と比べて店の売上は上がっている。借金を返済する余裕もあった。警察はそこまで調べているのだ。沢渡は自分が容易ならぬ立場にいることを痛感した。

「まぁ確かに甘え過ぎと言えば甘え過ぎなんですが、実際に商売をやっているとどうしても借金の事は二の次三の次になってしまうものでしてね……」

 沢渡はわざと困惑したような表情を浮かべてその場しのぎの言い訳を口にしたが、不信感は募るばかりだということを室伏の影は語っていた。

 だが室伏にはそれ以上、沢渡を詰めるつもりはないようだった。今日彼が沢渡のもとへやってきたのは、あくまでも様子見であり、今後を見据えてあらかじめ沢渡に揺さぶりをかけておくためだったらしい。

 今日、沢渡に開示した情報も全体のうちのほんの一部だった。沢渡に知らせることは最小限にとどめて、今度会った時に秘匿していた部分をぶつけて沢渡を一気にという魂胆だった。

 室伏の影からそのことを知った沢渡はとりあえず安堵した。加えて沢渡には開示せず、秘匿しようとしていた情報がこちらに筒抜けになっていることに気づかない室伏のことが滑稽に思えて思わず顔にそれが出てしまい、薄笑いがこぼれる。

 室伏の目に不審さと険しさが過ぎった。影の中でトゲを含んだ室伏の声が響く。


―― 何が可笑しいんや、オッサン。警察を舐めんなや ――


「御苦労されているというのはわかりますがね。道義的な話として、借りたものは返すというのは常識ですよ、沢渡さん」

 室伏はポーカーフェイスを取り戻すと、釘を刺すように言った。そしておもむろに立ち上がった。

「今日は突然お邪魔してすみませんでした。またお電話差し上げるかもしれませんが、その節はよろしくお願いいたします。それから何かお気づきの点がありましたら、先ほど渡した名刺の電話番号に御連絡ください。それでは失礼します」

 そう言って室伏は立ち去った。

 沢渡は室伏刑事を送り出すと、応接間のソファにどっかりと座り込んだ。

 当初の動揺は治まっていたが、気がかりなことが有った。

 西山がなぜ死んだかということだった。室伏すなわち警察は事故か自殺の可能性が高いと言っている。そう言いつつも警察は沢渡が西山の死に関わっているようなことも視野に入れているらしいが、とんでもない話だ。

 西山が死んだのは事故か自殺以外には考えられない。だが事故はともかく、自殺というのはおだやかではない。いったい何があったのか。





 沢渡は室伏の話や彼の影を覗いて得た情報を思い出した。

 西山は母親の老人ホームの利用料を沢渡からの返済金でまかなっていたらしい。その返済金が急に入らなくなり、母親は老人ホームから退去せざるを得なくなった。母親をそんな目にあわせたことに罪悪感を覚え、母親と自分の今後を悲観してみずから命を断ったというのか。

 沢渡は昨年の11月、西山の喫茶店で返済金の支払いをしたときのことを思い出した。あのとき沢渡は借金の返済に追い詰められていた。返済のために残っていた貯金を吐き出してしまうと電気やガスが止まってしまう。『沢渡メタリック』だけではない。自宅マンションの電気やガスもだ。志穂子にはすでに限界とも言える額の金を借りていた。もうこれ以上は借りることができない。

 そこで石黒綾美に助けを求めた。彼女は沢渡に返済金を貸してくれたが、彼の店『沢渡メタリック』の経営状態を案じて西山の借金を帳消しにする方法を提案した。

 それは影へ回帰して『消し染め』という技術を使うことだった。

 『回帰者』は回帰する時にその影がそれぞれ固有の輪郭を持った形に変化する。この輪郭を『影型』と呼ぶのだが、回帰していない状態の影も、回帰できる素質のない『回帰不能者』の影もその輪郭は同じように『影型』と呼ばれていた。

 あのとき沢渡は回帰していない普段の状態の自分の『影型』で影を作り、その影に消去作用を付与して西山の影の深奥――闇黒の領域に放り込んだ。そうすることによって西山の記憶のうち、沢渡に関するものだけが消え失せてしまうのだ。

 この『消し染め』を使った結果、西山は沢渡和史という人物が誰かわからなくなり、沢渡と会っても気づくことができない。認知症老人が自分の妻子が誰かわからなくなるのと似ているが、『消し染め』を使うと、さらに徹底した状態になる。沢渡との間に交わした借金の契約のことも認識不能になってしまうのだ。

 借金の事を忘れてもその契約書や銀行口座への返済金の入金記録や返済金の領収書などは残っているわけなのだが、『消し染め』によってそれらの物的証拠や証明資料が西山の五感から消えた状態になる。目の前に契約書の文言が並び、返済金の入金が記帳された通帳を手に持っているにも関わらず、それらを認識できなくなってしまうのである。

「そのまま放っておけばいいんです。向こうは絶対に何も言ってこないから」

 石黒綾美はそう言って沢渡に『消し染め』で西山の記憶から沢渡の存在を消し去ることを勧めたのだった。

 だが西山は母親の老人ホームの利用料を支払うのに沢渡の返済金を充てていた。喫茶店の経営が思わしくなく、困窮していた西山にとっては病弱で高齢の母親を養うために沢渡の返済金は欠かせないものだったのだろう。

 その返済金が入って来なくなった。いや、返済金の存在を忘れてしまった。認識できなくなった。母親が居る老人ホームの入居料が払えない。だがどうすればいいのかわからない。

 メビウスの帯だった。沢渡という男の存在と彼に貸している金が帯の裏側にある。だがその裏側が「沢渡和史という人物は存在しない」という表側と繋がっていてどうしても裏側を見ることが出来ない。

 さぞかし精神的な混乱がひどかっただろう。頼りになる親類縁者がおらず、経済的にも苦しい状況下、ひとりで母親の面倒を見なければならない。追い詰められた西山は自ら命を断った。老いて体の弱った母親を遺して――





「もしそれが原因だとしたら、気の毒なことになったわね」

 沢渡が電話で石黒綾美に西山の件を話すと、彼女はしばらく沈黙してから、ため息混じりにつぶやいた。

 こんなことになるとは思いもしなかったと沢渡は言った。西山が死んだのが自殺かどうかはわからないが、仮に自殺だとして沢渡が西山に『消し染め』を使ったことがその原因だったのかもしれないと考えるとやりきれなかった。誰かにそのことを話してどうなるというものでもないが、罪悪感に苛まれていた彼はその思いを誰かと共有したかった。そしてそれは石黒綾美以外には存在しなかった。

 そして沢渡にはもう一つ話さなければならないことがあった。

「警察が僕のことを疑ってる。西山に対する殺人容疑だ。もちろん身に覚えのないことだが、西山が返済金について全く督促をしなかったことを警察は不審に思っている」

 自分が潔白であることに間違いはないが、『回帰』や『消し染め』について口を閉ざしたまま無罪放免というわけにはいかないかもしれない。警察は疑惑が明確に晴れるまではいつまでも沢渡をマークし続けるだろう。何か良い知恵はないかと石黒綾美に沢渡は尋ねた。

「その室伏っていう刑事にも『消し染め』を使ってみたらどうかしら」

 石黒綾美はあっけらかんと言った。沢渡はぶっきらぼうに言った。

「馬鹿なことを言うんじゃないよ。相手は警察だぞ。刑事一人を認知症にしても、他の刑事たちがあとを引き継ぐだろう。むしろ死んだ西山と同じ状態だということで、ますますこちらに対する疑いの目がきびしくなる」

「他の刑事たちもまとめて認知症にしてしまえばいいじゃない」

 沢渡は黙り込んだ。どうしてこの女はこういう物の考え方をするのだろうか。天真爛漫や楽観主義ではない。単に無造作なだけだ。

 沢渡の沈黙を埋めるように石黒綾美は言った。

「とりあえず警察の出方を見ましょうよ。下手に動いてはいけないわ」

 彼女の言うとおりだった。心配ではあるが、ここはじっとしておくべきだろう。

 石黒綾美との通話を終えた沢渡は電話を切って、外注先との打ち合わせに出かけた。午前中、室伏が来たので予定していた打ち合わせの時間を午後に伸ばしたのだった。

 外注先の工場は大阪府の東に位置する東大佐和市にある町工場だった。ステンレス製ドリルビットの特注品についてその町工場で打ち合わせを済ませた沢渡は店に戻る途中、コンビニに寄ってトイレで用を済ませた。

 車に乗り込もうとしたとき、コンビニの駐車場の前を歩く中年女性の姿を見た。駐車している他の車の陰に隠れてその女性には沢渡も彼の車も見えないが、沢渡からはその女性の横顔がはっきりと見えた。

 志穂子だった。





 沢渡は声をかけようとしたが思いとどまった。

 志穂子は胸元の開いた白いブラウスとスリットの入った黒いスカートを身に着けて歩いていた。色の薄いサングラスをかけ、左肩から黄色いショルダーバッグを提げている。腕には青いファーブレスレットを着け、赤いパンプスを履いていた。

 横顔の感じが志穂子そっくりだったが他人の空似だろう。今日、志穂子は朝からパートに出ているはずだった。それに志穂子はこんな派手な服装は好まない。

 女は大胆な服を着こなしていた。そしてエロかった。

 だが体つきはどことなく志穂子に似て華奢だった。まさかとは思ったが、沢渡は回帰して影を伸ばした。歩道を歩くその女の影に触れてみる。

 沢渡は即座に女の影から退いた。動悸がひどい。

 女の影に触った途端、最初に沢渡の意識に飛び込んできたのは見慣れた自宅の玄関のドアだった。ドアの脇に部屋番号とともに「沢渡」と記された表札が見える。そのドアに鍵をかける女の手が見えた。手には青いファーブレスレットが嵌められている。

 それ以上、その女の影を覗く必要はなかった。またそれ以上覗くことなどできそうにもなかった。

 とはいえそのまま見過ごすというわけにはいかない。沢渡は車のドアにロックをかけると、志穂子を尾行した。

 志穂子は自動車専用道路の高架橋の下にある一般道に沿った歩道を歩いていて、沢渡は見通しの良いその歩道の上で彼女に見つからないように用心しながらあとをつけた。

 落ち着かない気分だった。同時にひどい疎外感を覚えていた。ふだん見せている姿からはまったく想像できない志穂子の姿に、沢渡は不安を覚えた。志穂子がこのままどこかに消え去り、沢渡の前から永遠にいなくなるような気がした。

 そのまま10分少々のあいだ、沢渡が距離をおいてあとを追っていると、志穂子が突然立ち止まった。黄色いショルダーバッグの蓋を開けて携帯電話を取り出す。電話がかかってきたらしい。

 携帯電話で誰かと話し始めた志穂子は、電話を持ったまま不意にあたりを見回した。

 気づかれるのを恐れて沢渡はとっさにすぐそばの自販機の陰に隠れたが、志穂子はすぐに見回すのをやめると電話を切り、足早に歩き始めた。交差点のところまで小走りに進むと、ちょうどそばを通りかかったタクシーに向かって手を上げた。停車したその車に素早く乗り込むと、タクシーは発車した。

 沢渡はそれ以上、志穂子を追わなかった。志穂子がタクシーに乗って走り去ったせいもあるが、尾行を断念した理由はもう一つあった。

 見られている。

 志穂子が尾行されているのを見ていた者がいるのだ。その何者かが志穂子の携帯電話に連絡して彼女が尾行されていることを伝えた。

 志穂子はおそらくこれから誰かと落ち合うつもりだったのだろう。そしてその誰かは志穂子を尾行している不審な男がいるのを見て、そのことを電話で志穂子に伝えたのだ。危険を感じた志穂子はタクシーを使ってその場から立ち去った。志穂子の一連の動きから沢渡はそう判断した。

 沢渡はそっと周囲を見回した。

 湿気の高いムシムシした空気を太陽の光が煽っており、歩道には通行人がほとんど居なかった。居るのはのろのろと汗まみれでシルバーカーを押して歩く老婆と大声で話す10代らしき少年の二人連れだけだった。歩道に面した店舗はショーウインドウを午後の日差しにギラつかせて押し黙っている。

 歩道に映った老婆や少年たちの影を覗こうとしたが沢渡はたぶん無駄骨になると思い、やめた。車道を挟んだ向かい側の歩道には通行人が数人いた。その中に志穂子と連絡を取っていた相手がいるのかもしれない。車道を見るとひっきりなしに車が行き来している。相手は車に乗っていたという可能性もある。

 キリがなかった。沢渡は諦めて車を停めてあるコンビニまで引き返した。





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