第11話  疑いの影






 沢渡が自宅のマンションに帰ったのは2時を少し過ぎた頃だった。

 石黒綾美と事に及ぶ前に彼女の家でシャワーを浴びた。沢渡はすぐにでも彼女と寝たかったが、自分がいい大人だという自覚はあったので最低限のエチケットは守ることにしたのだった。

 沢渡と入れ替わりに石黒綾美がバスルームでシャワーを浴びている間、彼女の手製のポテトサラダとローストビーフを挟んだサンドイッチを食べた。夜はそれだけしか食べていなかったので、自宅へ帰る途中に猛然と食欲が湧いてきた。仕方なくコンビニに寄って弁当を買い、イートインスペースで夜食を摂った。そのぶん帰るのが遅くなってしまった。

 自宅に帰り、ダイニングキッチンを覗くとテーブルにコロッケと味噌汁、ポテトサラダが置いてあった。皿と椀と小鉢に入っているそれらはいずれもラップがかかっていた。そしてどれも志穂子の手作りだった。

 パート勤務を終えて帰ってきた志穂子が沢渡のために作ってくれていたものだった。どんなに仕事が忙しくても志穂子は料理を手作りにすることを心がけていた。惣菜や冷凍食品を買えば出費が嵩むということもあるが、自分と夫が食べるものは手作りでなければならないという彼女なりの矜持があるようだった。

 ポテトサラダが哀れだった。同じものを自分以外の女性が作り、夫がそれを口にした。しかも夫はその女性を抱いたのだ。深夜のダイニングキッチンのテーブルの上で小鉢に入ってポツンと置いてあるポテトサラダは、一人で夫の帰りを待っている志穂子の姿のように見えた。

 志穂子の寝室の明かりは消えているようだった。とっくに眠ってしまったのだろう。沢渡は音を立てないようにしてパジャマに着替えると自分の寝室へ入って行った。





 沢渡が石黒綾美と一夜を過ごした日から半年が経過した。

 あの夜から沢渡は石黒綾美との間に微妙に距離を置くようになった。伊谷空港での暴走とに彼女が口走った誇大妄想狂のような言葉とが沢渡の心に引っかかっていた。

 だが、あれ以後も電話やメールで石黒綾美とは会話を交わした。一夜とは言え体の関係があったことも、彼女が狂気に取り憑かれたような話をしたことも、二人の間からは無かったことになっていた。ときおり直接彼女に会うことは何回かあったが、いずれも直接会わなければならないような『回帰』の技術についての実験や試行に関する用事であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 沢渡は影について石黒綾美なみに知識や経験を得ようと試みたが、彼女とは回帰において25年の経験差があるため、なかなか追いつくことができない。それに石黒綾美は『回帰』についての知識は最低限の情報を小出しにするという形でしか与えてくれなかった。沢渡がその知識を乱用したり、軽はずみに人前で喋ったりすることを石黒綾美は心配しているのかもしれない。

 そう考えると自分は信用されていないのだろうかと感じる沢渡だったが、不満は感じなかった。顧客の影を覗いて情報を入手し、商談を有利に持っていくことで彼の商売は順調に売上を伸ばしていたので、彼にとっては自分の店が安泰でさえあれば、影のことなど大した関心事ではなくなりつつあったからだ。

 もっとも、少しばかりの反発心を感じることはあった。目に見えない「上から目線」のようなものを感じた。ペットか半人前の職人みたいな扱いだと思った。そのため沢渡は石黒綾美の目を盗んで彼女のパソコンを覗いたり、石黒純也の遺した資料を隠れてこっそり読んでみたりということをした。そんなふうにいたずら好きな少年の真似をすることによって沢渡は石黒綾美の透明な「上から目線」に対してかすかに溜飲を下げていたのである。

 志穂子との関係は以前と比べてやや改善の兆しが見られるようだった。あいかわらず微かな距離感はあったものの、店の経営が持ち直してきて経済的に潤ってきたことで、お互いに精神的な余裕ができ始めているように沢渡には感じられた。彼女のパート収入に頼らなくても店を回せることが多くなり、以前よりも二人の間の会話の数が増えるようになった。もっと店の経営に余裕ができたら、今まで彼女が自分の店の経営のために手助けしてくれた分を全部そっくり返そうと沢渡は思っていた。

 沢渡は志穂子に対して石黒綾美と寝た夜のことを「隣県にいる得意先との打ち合わせが長くなって遅くなった」と言い訳をしたが、実際に彼女がそれを信じたかどうかはわからなかった。彼女の影を覗いて確認するのは可能だが、やはりそれは憚られた。もし志穂子が自分のことを信じていなかったり、石黒綾美と隠れて会っていることを志穂子が知っていたりした場合、その事実に沢渡は耐えられる自信がなかったのである。著名人がネットでエゴサーチをするのを嫌がる気分に似ていた。

 沢渡は石黒綾美と過ちを犯したという事実も志穂子が自分の裏切りに気づいているのではないかという懸念も、とにかく一切合切を忘れようと努めた。店の経営は順調で仕事は忙しく、何かを忘れるには好都合な日々が続き、志穂子に対する罪悪感も石黒綾美と寝た夜のことも毎日薄皮を剥いでいくように色褪せていった。毎日がゆるやかに、なめらかに、しっとりと過ぎて行った。10年先、20年先もこのままだろうと沢渡は思っていた。

 そして崩壊は何の前触れもなく始まった。9月の末、異常に蒸し暑い日だった。





 その日の朝、これから外注先の工場へ打ち合わせのために出かけようとしていたとき、沢渡の事務所に突然の来訪者が現れた。

 大阪市の皆戸区の所轄警察署の者だと称する30代ぐらいの男が沢渡の店を訪れたのである。皆戸区は大阪湾に面したいわゆるベイエリアと呼ばれる街の一つで港湾施設の他に大規模なショッピングセンターやレジャー施設などがある。すぐ隣の区には世界的に有名なテーマパークの日本版があった。

 男は「室伏」と名乗った。皆戸区の所轄警察署の捜査一課に所属する司法警察職員、すなわち殺人や強盗といった物騒な事件を捜査する刑事である。名刺や警察手帳でその身元を確認してから沢渡は男を事務所に招き入れ、切ったばかりのエアコンのスイッチを入れた。外注先の工場へは打ち合わせを午後からにしてほしいと電話で連絡を入れる。

 小脇にビジネスバッグを抱えた室伏はハンカチで喉のあたりの汗を拭いながら事務所のソファに腰を下ろした。オーソドックスなタイプの刑事らしく、白い半袖の開襟シャツに地味な灰色のスラックスを履いている。

「西山道夫という人物を御存知ですか」

 何気ない世間話のあとで唐突に室伏は言った。刑事の来訪ということなので沢渡は何らかの気持ちの準備をしていたが、西山の名前が出るとは思ってもいなかった。

 動揺しているのは隠せなかったらしい。知っていると答える沢渡に対し室伏は優しそうな目の奥に底意地の悪そうなものを輝かせ、いくらか間をおいてから言った。

「お亡くなりになったんですよ」

 沢渡は自分でもわかるほど目を丸くした。心臓の鼓動が急激に高まってくる。

「一昨日のことですが大阪湾で御遺体が見つかりましてね」

 言葉を失くしている沢渡の前で室伏は機械的に喋り続けた。

「発見された詳しい場所や時刻は捜査の都合上お教えできないんですが、現場の状況が微妙でしてね。一応、事故か自殺の可能性が高いのですが念の為、それ以外の可能性も視野に入れて調べているわけです。失礼ですが沢渡さんは西山さんとお知り合いだと聞いております。具体的にどんな御関係で?」

 刑事がそんな事も調べずにここへやってくるはずがない。沢渡は迂闊なことは喋れないと肝に銘じた。この刑事は一体どんな目的で来たのか、詳しく知る必要がある。

 沢渡は室伏に気づかれないように回帰した。室伏の目が届かない位置で沢渡の影が輪郭のぼやけたヤモリの形を描いた。

 沢渡は室伏の影を覗くことにした。室伏の考えていることを探るためである。

 沢渡はヤモリの頭の部分から影を舌のように細く伸ばして室伏の影を覗いた。

 沢渡が経営する「沢渡メタリック」の看板が見えた。事務所に入ってくる直前に室伏の視界を占めていたものだ。捜査情報のいくつかが過ぎった。沢渡自身の声と顔があった。上司である捜査一課長の声と部下が食べていた弁当のおかずの匂いが漂う。室伏の影の表層部に浮いては消えるそれらの中から沢渡は必要なものを選択し、室伏の考えていることや記憶していることを組み立てた――

 ――西山の死体は2日前、大阪港付近にあるレジャースポットとして有名な水族館のそばの海面に浮いているところを発見された。

 死因は溺死で不審な外傷などはない。西山がどこから海に落下したのかは判然とせず、どこか遠く離れた場所で海に落ち、そこまで流れ着いた可能性もあるらしい。西山が思い詰めた表情で皆戸区の港湾施設の岸壁付近を歩き回っていたという目撃証言や防犯カメラの映像を警察は入手していた。

 西山には病弱で高齢の母親がいた。その母親は皆戸区の老人ホームに入居しており、西山はほぼ毎日のように母親の元へ面会に出かけていた。

 西山はその老人ホームの利用料を毎月きちんと支払っていたが、今年の1月から滞納するようになった。以後、半年のあいだ一度も料金が支払われることは無く、2ヶ月の猶予期間を経過してから西山の母親は退去を余儀なくされた。

 西山の喫茶店は経営が思わしくなく、突発的に休業することもしばしばだった。したがって老人ホームの利用料が払えなくなったのは経済的に困窮した末にそうなってしまったのだろうと当初はそう思われていた。数年前に妻と別れ、しかも身寄りのない西山は自宅で母親の面倒を見ることにした。そのため喫茶店は店仕舞いをせざるを得ず、西山はますます困窮することになった。

 ところがその辺の経緯を警察が詳しく調べてみると、ある事実が判明したのである。

 西山には毎月決まった額の収入があり、母親が入居している老人ホームの利用料はその収入でまかなわれていた。しかし昨年の12月以降、その収入がぷっつりと途切れてしまった。

 その収入こそ、沢渡が毎月西山に振り込んでいた借金の返済金だった。なぜその返済金が急に支払われなくなったのか警察は不審に思い、室伏という刑事を沢渡のところへ差し向けてきたのだった――





 ――室伏がそういった話を沢渡にする前に、すでに沢渡は室伏の影を覗いて話の内容を知っていた。その後追いをするように話していた室伏は、沢渡の顔を真正面から見つめると彼に問いかけた。

「沢渡さんは亡くなった西山さんに対して借金の返済を続けていらっしゃったんですよね? 去年の12月から返済金の支払いがずっと滞ってますが、西山さんから督促の連絡は無かったんですか?」

 室伏刑事は柔らかい笑みを顔に浮かべて沢渡に尋ねたが、彼の影を通して沢渡が知ったところでは、室伏は沢渡が何らかの方法で西山に借金の債権放棄をさせ、しかも頃合いを見計らって西山を亡きものにし、借金を帳消しにしようと企んでいたのではないかという疑いを抱いていた。

 とんでもない濡れ衣だが、下手な言い訳は禁物だった。相手は捜査一課の刑事である。まかりまちがって殺人容疑で逮捕されるようなことにもなりかねない。

 しかし沢渡は自分が『回帰者』であることから、自信過剰になっていた。こちらは相手の考えていることや感じていること、記憶内容などをこっそり把握することができる。何かあっても常に先手を打つことができるのだ。

 沢渡は細かい嘘を積み重ねるよりも思い切った嘘をつくことにした。

「いやぁ実はお恥ずかしい話ですが、あのころ商売のほうがうまくいっておりませんでしてね。昨年の12月の中頃ぐらいだったかなぁ、返済を待ってくれないかと相談に行ったんですよ」

 沢渡はとっさに考えた言い訳を話し始めた。

「師走だということもあって、いろいろと資金繰りが厳しく、今月分の返済はたぶん無理じゃないかとあの人の喫茶店まで行って直接お伝えしたんです。頭ごなしに怒鳴られるかと思ってたんですが、それが意外にあっさりと承諾してくれたんですよ」

 沢渡は自分の舌が別人のものになったかのような気軽さで話し続けた。

「そればかりか残りの返済分もでいい。いつでもいいから余裕ができたときに返せる分だけ返してくれたらそれでいい。こうおっしゃったんですよ」


―― ウソをつけ、オッサン ――


 腹の底でそう言いながら室伏は沢渡の話に笑顔で耳を傾けていた。室伏の影を覗いてそれを知った沢渡は開き直り、さらなる嘘を重ねた。

「そりゃあ願ってもない話なんですが、正直なところ信じられませんでしたよ。ただ、あのとき経営状態が苦しかったのは事実でして、悪いとは思いながらも西山さんの御厚意に甘えてしまいました。それ以後も、ちょっと経営的に苦しい時期が続いたのでズルズルと御厚意に甘えっぱなしになってしまって……」

「それにしちゃ、甘え過ぎじゃないですかね。最近『沢渡メタリック』は一時とくらべて業績が上がってるようだというもっぱらの評判だそうですけど」

 仕入先や得意先を調べておまえの店が儲かってることは知ってるんだぞ。それなのに返済をしなかったというのはおかしいだろ、と影の中から室伏の声が聞こえていた。





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