第10話 影の抱擁
1
石黒綾美がハンドルを握る軽自動車の助手席に居た沢渡は、不安な面持ちで車窓の景色を見つめていた。
車は山間部の道を抜けたのち、伊谷空港という国内線の旅客機が行き来する空港へ向かって自動車専用道路を走っている。
石黒綾美がダムのところでおこなったのは『採掘』と呼ばれる技術だった。影に接触してその中にあるエネルギーや養分のようなものを自らの影の中に取り込む技術である。
ダムは人造湖に溜められている3000万トンもの水を支えている。その位置エネルギーたるや途方もなく大きなものであり、しかも無尽蔵だ。石黒綾美はそのエネルギーをダムの壁面に映っていた影を通して自らの影の中に吸収した。どれほどの量を取り込んだのかはわからないが、そのエネルギーが今、車のハンドルを握っている彼女の影の中で破裂したり暴走したりしないか、沢渡は不安だったのである。
ときおり石黒綾美の横顔を見たが、その表情には別段変わったところは見られない。巨大なエネルギーを自分の影の中に収めたとはとても思えないほど、普段通りの何気ない表情だった。
ダムの駐車場を出発して30分後、伊谷空港に着いた石黒綾美は空港の駐車場に車を乗り入れた。車から降りて正面ゲートからターミナルビルの中に入った沢渡と石黒綾美は、エスカレーターを使って4階に上がった。広い雑貨店の横を進んで外に出ると、そこは展望台になっている。
ジェット燃料のにおいと飛行機のエンジン音、そして柔らかい風が沢渡と石黒綾美を出迎えた。利用客に公園のような雰囲気を味わってもらおうということなのか、展望台はウッドデッキになっていて、そこかしこに花壇があった。
平日だったが、展望台には人が多い。沢渡と石黒綾美は
エプロンにはちょうど今から離陸しようというジェット旅客機が駐機していた。ボーディングブリッジを通って飛行機に乗り込む乗客たちの姿が見える。
手すりに両手を置き、ワイヤーでできた柵の間からその様子を見ていた石黒綾美の影が蜘蛛の形に変じた。
風に髪をなびかせながら、石黒綾美は蜘蛛の頭から糸のように細い影を伸ばし、黒い糸は手すりの下を抜けてエプロンに向かって流れて行く。ターミナルビルの壁面を流れ落ちた影は地面を這い進み、駐機しているジェット旅客機の影にまとわりついた。飛行場や展望台には午後の陽射しに炙られた人間や物体の影がひしめいていて、その数の多さから石黒綾美の影はあまり目立たなかった。
ボーディングブリッジが最後の乗客を飛行機の機内へ吐き出すと、トーイングトラクターが離陸可能になったジェット旅客機を誘導路に向けて押し始めた。
―― 人目が多いからやめた方がいいんじゃないか? ――
自分たちがこれから試そうとしていることが周囲の人間の目にとまることを恐れ、『回帰』した沢渡は自らの影で石黒綾美の影に触れると彼女に忠告した。さっき訪れた郊外にあるダムのようなところでは彼ら以外の人間がほとんどいなかったからよかったようなものの、空港の職員や作業員、旅客機の乗客や空港の利用客のいるところでは否が応でも目立つだろう。
―― 大丈夫よ。気づかれそうになったらすぐにやめるから ――
影の中で石黒綾美は事も無げに言った。手すりに両手をかけ、誘導路に運ばれていくジェット旅客機の方に顔を向けながら目を閉じている。
沢渡は目を疑った。誘導路に向けて移動するジェット旅客機の動きが鈍ったように見えたのである。
蜘蛛の口から伸びた黒い糸はそこに何か裂け目があるかのようにエプロンの地面の上で峻厳な黒に染まり、旅客機を押すトーイングトラクターのタイヤが空回りをし始め、やがて飛行機は完全に停止し、トーイングトラクターもそれ以上は前に進めなくなった。
石黒綾美はダムの影で蓄えたエネルギーを使ってトーイングトラクターに押されるジェット旅客機が誘導路に進もうとするのを阻止していた。350トンにも及ぶジェット旅客機と5トン弱のトーイングトラクターを五十路半ばの中年女性が押さえつけている。
沢渡はもういいだろうと思ったが、石黒綾美はやめようとはしない。そればかりかジェット旅客機をエプロンの方に引き寄せようとしていた。トーイングトラクターのタイヤが白い煙を発し始め、巨大な機械が軋むような音があたりに響き渡った。ジェット旅客機が少しずつこちらに近寄って来ている。
警報音がエプロンのあたりから聞こえてきた。格納庫の方から緊急車両が数台走って来る。展望台にいる人々も異変に気づいて騒ぎ始めた。
―― おい、もうやめろ! ――
青ざめた沢渡は影を通して石黒綾美に鋭く声をかけると彼女の肩を揺すった。沢渡に肩を揺すられた石黒綾美が閉じていた目を開く。ジェット旅客機の影にまとわりついていた蜘蛛の糸は鮮明な黒から淡い目立たぬ影に戻り、飛行機の巨体は動きを止めた。
蜘蛛の糸は瞬時にジェット旅客機の影から退き、石黒綾美の足元の影に吸い込まれた。沢渡は彼女の手を強引に引っ張っると、エプロンの方から聞こえる警報音や展望台で騒ぐ利用客の声を聞きながら、エスカレーターに乗り込んでターミナルビルを後にした。
2
一時間後、沢渡たちは伊谷空港から川石市にある石黒綾美の自宅へ戻っていた。
その道中、沢渡はずっと沈黙していた。それはほかでもない石黒綾美に対する怒りの意思表示だった。
『回帰者』には人間や物体の動きをコントロールする『傀儡』という技術が基本的に備わっている。いろいろと個人差はあるものの石黒綾美のような非力な中年女性でも、今彼女が運転している軽自動車を軽々と放り投げるぐらいのことは可能だ。
沢渡も同じぐらいの芸当ができないことはない。だがその『傀儡』で強制的に歩かされたり身体の動きを封じられたりした体験のある彼にしてみれば、そのようなダイナミックな行為に対する忌避感や嫌悪感は強かった。
石黒綾美は軽自動車でお手玉をするレベルではなく、もっとスケールの大きな傀儡ができるかどうかを試してみたいと言っていた。そのためまずダムで3000万トン分に及ぶ水の位置エネルギーを『採掘』し、そのエネルギーを利用してジェット旅客機の動きをコントロールするという『傀儡』をおこなったのだ。
『採掘』と『傀儡』を合体させたその応用技術は成功した。だが石黒綾美の行為をやり過ぎだ、と沢渡は思った。ジェット旅客機の進行を止めるぐらいならまだしも、こちらに手繰り寄せるようなことはもってのほかだ。何も起きなかったからいいようなものの、一歩間違えれば旅客機が空港のターミナルビルに突っ込んで炎上し、大勢の死傷者が出るところだったのである。
そして自分たちがその大事故に関わっているということが明るみになれば、沢渡と石黒綾美に居場所はない。あとでわかったことだが、このときネットではすでに『伊谷空港』とか『離陸トラブル』とかいったワードがトレンド入りしており、現場に居合わせた一般人の撮影による写真や動画がニュースサイトや投稿サイトに出回っていた。その中には
石黒綾美の軽率さに沢渡は激怒していた。無鉄砲な若い男ならともかく、分別盛りの中年女性がやることではなかった。いや、どれほど無鉄砲であろうとジェット旅客機や空港のビルを破壊するようなことをやらかそうとする者の心理は沢渡にはまったく理解できなかった。
玄関に入った沢渡はそのまま家の中に入ろうとする石黒綾美にいとまを告げた。石黒綾美は中で少し休んだらと勧めたが沢渡は辞退した。
自分のライトバンのドアを開けて乗り込もうとした沢渡の肩に石黒綾美の手がかかった。石黒綾美は彼の顔を覗き込むようにして言った。
「ごめんなさい」
無言で運転席に腰掛けようとする沢渡の身体にしがみつくようにして石黒綾美は言った。
「ちょっと気が高ぶってたの。ごめんなさい」
もう一度、石黒綾美はあやまった。『回帰』については沢渡の先達であり、姉のような存在であり、女教師のようでもあり、優雅で冷静でおっとりとした雰囲気を崩さない熟女がうろたえていた。涙ぐんでいるようにさえ見えた。
沢渡は石黒綾美に対して冷たい態度を取ったことを悔やんだ。穏やかに諭せば済むことだったのに、この年になっても未だに思春期に入った癇癪持ちの少年のような自分が苦々しかった。
「お願いだから少し休んでいって頂戴。疲れているでしょう。車の運転に差し障りが出て事故でも起こしたら大変よ」
「わかった」
ダムや空港への行き帰りのとき、車の運転はもっぱら石黒綾美の方がやってくれていたから疲れてはいないのだが、沢渡は彼女の提案を受け入れることにした。そして石黒綾美のあとを追うように彼女の自宅の玄関へ向かって歩いた。
夕日が石黒綾美の後ろ姿を照らしている。赤い陽射しに煽られた上半身の若々しいボディラインが艶めかしかった。ジーンズもサイズが合っていないのかキツそうに見え、くっきりとしたヒップラインが沢渡の胸をざわつかせた。
気がつくと後ろから石黒綾美を抱きしめていた。沢渡の突然の行動に石黒綾美は抗わなかった。
我慢できなかった。耳のあたりに口を寄せ、唇を耳に当てた。石黒綾美はそのままじっとしていたが、やがて自分から首を回して沢渡と唇を合わせた。
数秒の間、そうやって二人とも立ち尽くしていたが、やがて石黒綾美が掠れた声で言った。
「中に…中に入りましょうよ……」
3
石黒綾美は積極的に沢渡を受け入れた。その好意に甘えて沢渡は思う存分彼女の身体を貪った。
もはや性欲というものに対して貪欲になれる年齢ではない沢渡だったが、何かのはずみで無性に女性を抱いてみたくなるときがある。若い頃に際どい水着を付けて悩ましいポーズを取るグラビアイドルだった女性芸能人が今は人妻になり、和服姿で社会人の息子と一緒に芸能レポーターのインタビューに答えている場面を見たときや、ネットで何かを検索していたら、たまたまインフルエンサーやYouTuberの若い女性が妙に大人びた色気のある表情で映っている画像を見たりしたときに、彼のリビドーは発動する。
石黒綾美を抱いたのも何かのはずみだった。何かのはずみだったが、その結果は沢渡にとっては想定外、いや想定以上だった。彼女の身体は50代とは思えないほど若々しく張りがあり、釣鐘型の乳房から腰にかけてのラインが素晴らしく引き締まっていて、それでいてそれぞれの部分が十分すぎるほどのボリュームを保っていた。
あどけない感じのする唇からは、それとは裏腹に年齢を重ねた分だけの淫猥さに満ちた声と言葉がとめどなくこぼれ出た。若い女性には絶対に真似のできない声だった。沢渡は自分の腰に騎乗位でまたがる石黒綾美の顔を見上げ、髪を振り乱して淫語を口走る中年女性の声に包まれながら思いっきり精を放った。
石黒綾美は悲鳴のような声を上げると仰け反りながら両股を締め付け、数秒後に沢渡の身体の上に被さってきた。そのまま二人とも激しく息をしながらじっとしていた。
やがて石黒綾美は沢渡の身体から離れ、彼の横に仰向けに寝転んだ。二人とも事の余韻に浸りながらログハウスの天井を見つめていた。フロアライトがパイン材で覆われた天井に微秒な陰影を浮き上がらせていた。そこは寝室だったがベッドは男女が身体を貪り合うにはやや小さいセミダブルだったので、床にマットレスを二人分置き、その上に毛布を敷いただけの寝床に彼らは横たわっていた。
石黒綾美の家は山間部にあるため、もうじき4月であるにもかかわらず、外はまだ冬同然の寒さだった。50代の男女にとって寒さは大敵だが、室内は暖房が行き届いているので冷気を感じることは全く無い。
天井を何気なく見つめていた沢渡は人間の顔のように見える木目と染みを見つけた。
ムンクの『叫び』を思わせるその顔は泣いているように見え、それが志穂子の顔を思い起こさせた。
若いころ、些細なことで志穂子と激しい口論になったことがあった。何が原因だったのかは思い出せない。いや、思い出したくないのかもしれない。だがそのときの志穂子の泣き顔は今も鮮明に思い出す。沢渡の胸に苦いものが広がった。
「コンプライアンス違反だな」
沢渡は最近ネットやテレビで見聞きするようになった言葉をぼそりと口にしてみた。冗談めかして言えば気が楽になるような気がした。だが所詮、冗談にはならなかった。
「コンプライアンス? 何のこと?」
石黒綾美が間延びした声で言った。さっきまでの痴態が嘘のようなおっとりとした普段の声だったが、その言葉に微かな毒が含まれているのを感じた沢渡は、彼女の声と言葉のギャップに面食らった。
不意に石黒綾美が起き上がり、寝室の端にある肘掛け椅子に全裸で腰を下ろした。スラリとした足を組み、30代と見紛うようなプロポーションの肉体を沢渡に見せつけてきた。沢渡の股間に2ラウンド目に入ることを促すような熱が湧いてくる。
「ねぇ沢渡さん」
けだるげな声で石黒綾美が言う。
「いろいろ考えたんだけど、もうこの世界に回帰可能者はあたしと沢渡さんしかいないと思うの。夫は回帰者を集めて回帰者だけのコミュニティを作りたかったみたいだけど、これ以上仲間を増やすのは無理だと思うわ」
急に何を言い出すのかと沢渡はますます面食らった。
「そのかわり沢渡さんとあたしだけで、この世界を作り変えてしまおうと思うのよ」
あまりに話が飛躍し、迷走していた。もう面食らうどころではなかった。彼は上半身を起こして石黒綾美の方を見た。
「いったい何の話をしてるんだ?」
「大袈裟に言うと『革命』かしら。この世界の社会や経済、秩序や常識をひっくり返してしまうのよ。影を操れるわたしたちなら何だってできるわ」
穏やかではあったが何か得体の知れない笑みを顔に浮かべる石黒綾美を沢渡はじっと見つめていた。昼間の伊谷空港での暴挙はこの伏線だったのか。
ドン引きだった。沢渡は石黒綾美の言っていることが、ピロートークの中にたまたま出て来たジョークだと思いたかった。
「変なことを言わないでくれよ」
そう言って沢渡は立ち上がり、床に脱ぎ捨てた下着を身につけるとクローゼットの所へ行った。ハンガーにかけていた衣服を着始める。石黒綾美が何か自分を引き止めるようなことを言うかと思ったが、彼女からは何のリアクションもなかった。
沢渡は携帯電話の時計を見た。夜中の12時を少し過ぎた頃だった。今からライトバンに乗って自宅に戻ると1時ごろになるだろう。沢渡は寝室から出る前に石黒綾美に声をかけた。
「また電話するよ」
石黒綾美は素っ裸のまま沢渡に近づくと彼の身体を抱きしめ、胸のあたりに顔を埋めた。それからおもむろに顔を上げると「また来て頂戴」と言って沢渡から離れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます