第9話  軋む影





 沢渡が確信したとおり、彼のは成功したようだった。

 あの日以降、西山が沢渡に借金の返済を督促することはなくなった。11月分の返済を済ませてからは一度も沢渡は西山に金を振り込んでいなかったが、西山から督促の電話が入ることはまったくなかったのである。

 大晦日の夜から年明けの三が日の間、西山が激怒して電話をかけてくるのではないかと沢渡は気が気ではなかった。しかし三が日を過ぎても2月になっても西山からは何の連絡もなかった。西山は沢渡の借金のことは愚か、沢渡の存在自体を忘却してしまったのだ。

 『消し染め』という技術だと石黒綾美は言った。相手の影の深奥に触れないようにしなければならないため細心の注意が必要だが、回帰者が使う技術としては初歩的なものだということだった。

 罪悪感のようなものを感じることはあった。暴力行為で脅したわけでも、薬物を使って脳に障害を引き起こしたわけでもないが、他人の記憶を根こそぎ毟り取ったのは事実だった。だが沢渡は返済が滞ったときの自分に対する西山の言動と、そのときに受けた恐怖や屈辱を免罪符にして、その罪悪感を祓い落としていた。

 それに西山へ借金の返済をする必要がなくなったのは沢渡の商売にとって好材料だった。資金繰りは楽になり、余裕を持って仕事に専念できるので大口の案件も安心して請けることができるようになった。沢渡は西山のことを気にかけるよりも、自分の店の売上を増やすことにエネルギーを費やそうと思った。

 そのために沢渡は回帰者としての技術を積極的に活用した。影に触れることによって相手が考えていることや感じているものを知ることができるようになった沢渡は、商談中に顧客の影を覗いて相手が望んでいる具体的な値段や納期、仕様などの条件についての情報を入手し、それらを利用してうまく商談をまとめることに何回か成功した。それがはずみとなり、彼の金属加工業の店は売上が伸びていった。





 3月になった。

 確定申告の時期である。去年と同様、納める税金は微々たるものだったが、来年は今の十倍ぐらいの金額を納めることになりそうだった。沢渡は気分が高揚するのを覚えた。何もかもがうまくいくような予感がした。

 そんなある日、沢渡は自分の店の事務所で石黒綾美に電話をかけていた。

 石黒綾美とは去年の11月の終わり頃、借金の件で会ってから一度も会ってはいなかったが、電話やメールでは毎日のように連絡を取り合っていた。仕事が忙しかったためにその間ずっと彼女と会うことができなかったのだが、少し仕事の方が落ち着いてきたのでひさしぶりに会って一緒に食事をしようという約束をして電話を切った。

 携帯電話をポケットに収めたとき、沢渡は事務所のドアが開いてそこに志穂子が立っているのを見た。狼狽を隠しながら沢渡は「どうしたんだ?」と尋ねた。

「お昼の弁当を持ってきたの。あなた、今朝持って行くのを忘れたでしょ」

 そう言って志穂子は事務所の応接机の上に弁当の入った布製の巾着袋を置いた。袋は志穂子の手作りだった。

 昼前だった。今日は志穂子のパート勤務が休みだったことを沢渡は思い出した。

「何か、手伝うことある?」

「いや、別にないよ」

 声に棘を含まないように沢渡はゆっくりと言った。志穂子は黙って彼の顔を見ていたが「ああ、そう。わかった」と言ってドアを閉めて立ち去った。

 石黒綾美との会話を聞かれたかもしれない。今さら悔やんでもしょうがないが、せめてもっと何か気の利いた返事をすればよかったと悔やんだ。

 自宅から事務所までは車やバスで15分弱、歩いて40分ほどだった。志穂子のことだから交通費を節約するために徒歩でやって来たにちがいない。車で送ってやろうかと言いそびれたことが沢渡の後悔を上塗りした。

 最近の沢渡は志穂子に対して以前とは違う忸怩たる思いを抱くようになっていた。

 石黒綾美と親しくなるにつれて、沢渡は日々の生活に潤いや張りのようなものを感じていた。影のことについて彼女と電話で話し、ときにはメールで長文のやりとりをすることによって、沢渡は今までにない力強さを自分自身に対して感じるようになった。

 石黒綾美とは屈託なく話すことができた。自分と同年代ということで会話に齟齬の生じることが少なかったのである。齢五十を越えると年の差というものを意識し、どうしても若い世代とは話しづらくなってくる。仕事やプライベートで若い女性と会うと痛々しい言動をしないようにと緊張してしまうし、相手が若い男性ならナメられまいとして身構えてしまう。

 また、石黒綾美は昔のテレビドラマに出演して「理想の嫁」を演じていた女優に似ていたので、十代、二十代のころの彼女の美しさを想像して、沢渡は年甲斐もなく胸がときめくことさえあった。

 それはとりもなおさず、妻の志穂子を裏切ることであり、道徳的に許されないことではあった。しかし石黒綾美と自分が影についての秘密を共有し、しかも二人がともに回帰者であるという仲間意識の心地よさが、その背徳感をあっさりと塗り潰していた。

 とはいえ、まったく気にしていなかったわけではない。志穂子に対する罪悪感に付随して、彼女が何か感づいているのではないかという不安感もあった。石黒綾美との連絡は慎重を極め、電話の発着歴やメールの送受信歴はことごとく削除していたが、それでもなお、志穂子と顔を合わせるとき、以前とは違った緊張感を覚えるようになった。

 ときおり、志穂子の影を覗いてみたくなる。

 志穂子の影を覗き、影の表層部に現れている彼女の感情や思念の中に石黒綾美に関するものが無いか確かめたくなることがあったが、それはできなかった。もし万が一、志穂子が自分と石黒綾美とのことを知っていて、わざと知らないふりをしているのだということがわかったら――それを考えると怖かった。自分が妻を傷つけ、実際に妻にその傷があり、しかも妻がその傷を隠しているということを知るのが沢渡は怖かったのである。

 もしかしたら自分は志穂子に致命傷のような刺し傷を負わせているかもしれない。 心と心が微妙な摩擦を起こし、お互いにその擦り傷に触れないようにしているというレベルをはるかに超えるような、むごたらしい傷を――





 その日、沢渡は平日の営業日であるにもかかわらず店を留守にして川石市にある石黒綾美の自宅へと出かけた。

 数日前、石黒綾美と電話で食事の約束をしていた。

 食事は彼女の自宅で済ませることにした。料理は彼女の手作りだった。二人ともレストランや飲食店で一緒にいるところを誰かに見られたくなかったのである。以前、石黒綾美から振る舞ってもらったクラムチャウダーが美味だったので、また食べたいということを電話で伝えると石黒綾美は喜んだ。

 昼ごろ、沢渡が石黒綾美の家に着くと、ちょうど料理ができあがっていた。彼女といっしょに食事を済ませた沢渡は、二階にある資料室のような部屋で『回帰』に関する資料のうちの一つを読んだ。それはパソコンに保存されているテキストデータで、石黒綾美の夫が書いたものだった。強力なエネルギーを有する物の影からそのエネルギーを取り出し、それを自らの影の中に蓄える方法である。

 沢渡はそこに書かれているのが軍事兵器なみのスケールの話なので半信半疑だった。だが石黒綾美は今からそれをやってみるつもりだから手伝ってほしいと言った。

 あまり気乗りはしなかったが沢渡は断らなかった。石黒綾美の運転する軽自動車の助手席に乗り込み、彼女といっしょに出かけた。石黒綾美の自宅から車で15分少々のところに多目的ダムと人造湖がある。石黒綾美はダムの管理事務所の近くにある駐車場に車を停めると、沢渡と一緒に車から降りた。   

 駐車場の柵越しにダムが見えた。

 ダムの堤頂部は県道になっており、舗装されて歩道と車道に別れている。堤頂部を車で走ってそのまま奥へ向かうと、休日には行楽客で賑わう自然公園へ行くことができた。歩いて行くこともできるが、ダムの堤頂部を徒歩で渡っていくのは高所恐怖症の人間にはむずかしい。

 平日なので道路に行楽客の車は見られず、走っている車も少ない。ダムの見学に来ているのも沢渡と石黒綾美だけだった。

 背後に貯水容量が3000万トンもある人造湖が控えているそのダムは底部近くのコンジットゲートと呼ばれる水門から放水がおこなわれていた。前日に大雨が降っていたので、貯水量を調節するために水を抜いているらしい。堤頂部近くにはクレストゲートと呼ばれる水門があり、これは災害級の雨が降ったような緊急事態の場合、ダムから水が溢れるのを防ぐために開いて放水する水門なのだが、今は閉じられていた。

 ダムの壁面には水門の他に何かの設備が据え付けられていて、凹凸があった。その巨大な凹凸がダムの壁面に影を落としている。

 3月の末の午後の日差しが眩しく、気温も20度近くに上がっていた。コーデュロイのシャツブラウスとジーンズという軽装だった石黒綾美はさっそく『回帰』を始めた。アスファルトで舗装された地面に蜘蛛の影が広がる。

「誰か来ないか、見張っていてください」

 石黒綾美は沢渡にそう言うと精神を集中させるために目を閉じた。蜘蛛の影が倍ぐらいの大きさに広がり、八本の肢のうちの二本が駐車場の柵をくぐってその下の崖を滑り降りていく。

 二本の影は崖の下まで降りるとダムの壁面に向かって進んでいき、その底部に達すると今度はダムの壁面を這い上がり始めた。影を伸ばす距離がとてつもなく長いため、よほど深い回帰を要するのか石黒綾美は両手でふくよかな胸を抱えると悩ましげに顔を歪め、額に皺を寄せた。

 蜘蛛の肢の影はダムの凹凸が作り出した影に取り付いた。それと同時に石黒綾美の全身がビクンと痙攣する。次の瞬間、蜘蛛の影がその黒さを増していき、そこから伸びている二本の肢の影もその黒さがどんどん深くなっていく。石黒綾美のいる場所からダムの凹凸の影に至るまでの崖や地面、ダムの壁面に、まるで亀裂が入ったかのように黒い色が鮮明に浮かび上がってくる。

 石黒綾美は目を閉じたまま、天を仰いでいた。沢渡は彼女の足元にある蜘蛛の影から思わず後退りした。それはもはや影というよりかは実体として存在する黒い穴だった。足を滑らせるとその穴に落ちてしまいそうな気がしたのである。ときおり思い出したかのように石黒綾美の身体が痙攣し、そのたびに影の黒さがいっそう深くなっていく。

 蜘蛛の影は膨らんだり縮んだりを繰り返した。心臓の拍動のようだった。一度では飲みきれない膨大な量の水を少しずつ喉が飲み下していく様子に似ていた。

 どのぐらいの時間が経っただろうか。間欠的に痙攣していた石黒綾美の身体が不意に動きを止めた。ダムの凹凸の影から蜘蛛の肢の影が離れ、ゆっくりとこちらに退いて来るのが遠目にもわかる。それほど影の黒さが鮮明だった。

 蜘蛛の肢は数十秒ののち、元の長さに戻った。底無し穴のようだった蜘蛛の影は次第に色褪せて普通の影のような淡い黒さを取り戻した。

「うまくいったわ」

 目をつぶって顔をのけぞらせていた石黒綾美が吐息をつきながら言った。足元がふらついて倒れそうになった彼女の身体を沢渡は抱きとめた。

 コーデュロイのシャツブラウス越しに感じた手触りは50代の中年女性にしては張りのあるものだった。一瞬、沢渡の股間に忘れかけていたオスとしての熱が過ぎった。

「ありがとう」

 石黒綾美は沢渡に礼を言うと、しばらく深呼吸をしていた。

「大丈夫?」

 心配する沢渡に微笑みかけながら石黒綾美は自分の車の方へ向かった。

「さぁ行きましょ。今度は空港よ」





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