第8話  動き出す影







 石黒綾美の自宅で彼女からレクチャーを受けた沢渡は、万物の本体である影についての知識をよりいっそう深めることになった。しかも沢渡はすでに『回帰者』だった。まだ初歩的な段階だったが、彼は『回帰』によってある程度影を操ることができるようになっていたのである。

 だが、その一方で沢渡の現実の生活は全く変わり映えがしていなかった。

 11月の月末が近づいていた。石黒綾美の自宅を訪れた日の翌日、金策に困っていた沢渡は今月分の返済を待ってくれと電話で西山に申し入れた。

「あんた、ええかげんにしぃや」

 西山は不機嫌だった。無理もない。先月分の返済が遅れたばかりか今月分の返済を伸ばしてくれと言われたのだ。いつもの弱々しい声が険を帯びていた。

「申し訳ありません。来月には必ず振り込みますので、どうか御勘弁願いたいのですが」

「ほんなら来月に二ヶ月分振り込んでもらわんとアカンな」

 来月は何かと物要りになる師走だ。来月に二ヶ月分は無理だった。その翌月、つまり年明けの1月に今月分を含めた二ヶ月分を振り込むということで勘弁してくれないかと言ったが「信用できまへんな」と西山はにべもない。

 沢渡はいつになくしぶとく食い下がった。以前と比べて妙に粘り強い沢渡に対して西山は堪忍袋の緒が切れた。突然、電話の向こうの声が「眠たいこと言うなや、ゴルァ」とドスの利いたダミ声に変わった。

「カネがないなら嫁さんを熟女ソープに沈めてでも作れや。あんたの外注先の社長がワシと幼馴染やから、そのよしみであんたにカネを貸してやったんや。せやから少々のことはこらえとったけど、我慢も限度というのがあるで」

 沢渡は西山の恫喝めいた言葉に気圧され、息を呑んで黙り込んだ。喉の奥で血の臭いがした。ストレスで胃が出血しているらしい。

「ええか。月末にきっちり振り込んでもらうからな。邪魔くさい話はいっさい無しや!」

 電話は一方的に切られ、沢渡は途方に暮れた。西山へ今月返済分の借金を返すために残り少ない貯金を使い切ると、店はおろか自宅のガスや水道、電気が止まってしまう。

 なんとかしなければと思った。貯金を使い切るのは避けなければならず、それ以外の方法を考えなければならない。

 沢渡はを思案し始めた。





 結局、沢渡がたどり着いたは、石黒綾美に金を借りることだった。借金で借金の穴埋めをするわけである。しかもまだ出会って間もない赤の他人に金を借りようというのだ。

 亡くなった夫の遺産を活用し、株式投資をおこなって財を成した石黒綾美は配当収入によって生活費を得ていた。沢渡には理解のできない株式投資という複雑な経済活動で社会の勝ち組となった彼女には、それなりの経済的な余裕があるはずだと沢渡は見込んでいた。

 西山に電話をかけた日の翌日の朝、沢渡は自分の店の事務所で石黒綾美に電話をかけ、恥を忍んで借金の申し込みをした。電話で一昨日に自宅へ招かれたことの礼を述べ、いつものように影についての話をした後、「実は……」と切り出した沢渡に石黒綾美は言った。

「いいですよ。どのくらい必要なんですか?」

 沢渡が西山あての今月の返済分の金額を伝えると、石黒綾美は今すぐ沢渡の銀行口座に振り込むと言った。

 沢渡は自分と石黒綾美との関係がまさかそこまで深くなっているとは彼自身、思ってもいなかった。ダメ元で言ってみただけの話だったが、思いもかけずそれを石黒綾美が受け入れたことに驚きと同時に痛みを感じた。

 「いや、こちらから受け取りに行きますよ」

 志穂子が沢渡の通帳を見たり、銀行口座の入出金記録を調べたりすることは無かったが、沢渡は念のためにそう言った。

「じゃあ、今日来られますか? お急ぎでしょうから用意しておきます」

 昼過ぎには金を渡せると言うので、沢渡は了解したことを伝えると昼食後、店のライトバンに乗り込んで石黒綾美の自宅へ向かった。

 一時間後、沢渡は石黒綾美の自宅の応接間で彼女あてに借用書を書き、右から左へとそのまま西山の手に渡る金を受け取っていた。

「本当にすみません。何とお礼を言えばいいか……年明けの1月には必ずお返ししますから」

「沢渡さん」

 石黒綾美は心配そうな顔をして言った。

「資金繰りが大変そうですね」

 前世紀80年代後半のバブル崩壊以降、その場しのぎや場当たり的なやり方で売上の落ち込みをなんとかしようとして失敗したツケが回っていた。そのツケを妻に回していることから目を逸らし、今は赤の他人にそのツケを回している。

 借金を借金で返すような男がまともな経営をやっているわけがない。自転車操業状態なのだろう。どうせ1月に返すというのも結局は無理だと言ってくるに違いない――石黒綾美は腹の底ではそう思っているはずだ。

 居心地の悪さを感じずにはいられなかった沢渡は、心配そうな顔をする石黒綾美を無視してそそくさと暇を告げ、応接間から出ようとした。

「初めてお会いしたときにわたしが言ったことを覚えてますか?」

 唐突な石黒綾美の言葉に沢渡は顔をしかめて立ち止まった。

「影に回帰すれば、お店の経営も、借りているお金のこともすべてうまくいくとわたしが言ったのを覚えてますか?」

 沢渡は商店街の路地で石黒綾美と向き合っていたときのことを思い出した。まだ一ヶ月にも満たない前のことだったが、何年も前のことのように感じられた。

「うまくいってないよね」

 沢渡は吐き捨てるように言ったが、後悔した。影に回帰しても何も変わらないじゃないかと石黒綾美をなじったような気がしたからだ。

「うまくいくようにしましょうよ」

 石黒綾美は沢渡をなだめるように、そして焚きつけるように言った。





 次の日の午後、沢渡は11月分の返済をするために西山が経営する喫茶店を訪れた。住宅街の一角にあるその喫茶店は外装も内装も古ぼけていて、初めて前を通りかかった人間はそこに喫茶店があって実際に営業していることなど気づかないほどだった。

「何や知らんけど、めずらしいな。わざわざ足を運んでくるなんて」

 西山は「これから11月返済分の金を持って行く」という沢渡からの電話に訝しげな声で応じたが「振込手数料を節約したいので」という沢渡の言葉に納得し、自分が経営する喫茶店にやって来た沢渡から金を受け取ると、すぐに領収書を書いた。

 喫茶店には西山と沢渡以外に大学生風のポッチャリした色白の若い男が一人いるだけだった。その男は親子ほど年の離れていそうな西山とさっきまでカウンター席で喋っていたが、店内に入って来た沢渡が西山に話しかけると沢渡と入れ替わるように奥のボックス席に移動した。

 西山はカウンターの向こうで領収書を書くと「せっかくやから、まぁ一杯だけ飲んで行きなはれや。お代はいらんから」と沢渡にコーヒーを勧めた。沢渡は礼を言い、カウンター席で西山が入れてくれたコーヒーを飲みながら店内を見渡した。

 沢渡にコーヒーを入れた西山はカウンターから出て来ると、大学生風の若い男が座っているボックス席へ行き、立ったままその男と世間話をしていた。よほどその客と親しいらしい。無精髭で覆われた顔に満面の笑みを浮かべ、身振り手振りで話をしている。すぐそばの窓から入ってくる日差しのせいでボックス席のテーブルにしきりに動く西山の影がけだるく映っていた。

 沢渡は飲み干したコーヒーカップをソーサーに乗せると、カウンターに視線を向けた。頭上の天井からペンダントライトがぶら下がっていて、カウンターの表面に沢渡の頭の影が映っていた。

 沢渡は『回帰』するために意識を影の中に移動させた。

 影が自分の体を動かしているように感じ、その感覚の中に埋没しながら自分の『影型』をイメージする。

 沢渡の全身が麻痺した。同時に沢渡の頭の影は細くなり、カウンターにへばり付くヤモリの形に変わった。そのヤモリの口のあたりから一本の影が細く伸びた。

 舌のような細い影はカウンターから流れ落ちると、喫茶店の床を突き進んでボックス席のテーブルに這い上がり、そこに映っている西山の影に触れ、その中を覗いた。

 西山が色白の大学生と交わしている会話が間近で聞こえる。西山の五感や思念も部分的ではあるが鮮明に感じ取ることが出来た。

 その奥に闇黒が広がっていた。その闇黒はどれだけ深いのかどこまで広いのか想像もつかないほどの果てしなさがあった。

 その闇黒に絶対に触れてはいけない。沢渡は石黒綾美の忠告を思い出した。触れればたちどころにその闇黒の中へに自らの影が吸い込まれてしまうため、慎重に距離をおいて観察するに止めなければならない。

 沢渡はかろうじて冷静さを取り戻し、落ち着いて石黒綾美の指示通りに動いた。沢渡が西山の影に接触したのはその闇黒を観察するためではない。

 沢渡は西山の影に触れている自らの影の先端部に意識を集中させ、その部分を使って『影型』を作った。

 人間の形をした影型だった。沢渡が回帰するときの爬虫類のような影型ではない。沢渡がこの喫茶店にやって来て西山に姿を見せたときの自分の影を形どった影型だった。普段の何気ない沢渡の影である。

 沢渡はさらに意識を集中させ、そうやって作った影型の色を変えた。黒い沢渡の影型がくすんでいき、灰色になったところで沢渡はその影型を切り離し、西山の影の深奥にある闇黒の中へ投げ込んだ。投げ込まれた影型は闇黒の中にある沢渡の存在にへばり付くと、瞬時にそれを同じ灰色に変えた。そして灰色の影は西山の影の中に存在する無数の沢渡和史に向かって連鎖的に浸透していき、しかもそれらを一瞬ですべて灰色に染めてしまったのである。

 西山の記憶の中で沢渡は灰色一色の記憶として残った。西山の内面において沢渡和史の存在だけが灰色の型抜きをしたようになり、沢渡和史という存在に関わる記憶は根こそぎ削除された。

 その結果、沢渡の借金はおろか、彼に関するすべてのことが西山は認識不能になってしまった。手元にある金銭消費貸借契約書も銀行口座に記録された沢渡からの入金も西山にとっては意味不明となった。

 沢渡和史についての記憶に限って、西山は認知症老人のようになってしまった。

 契約書を見てもその内容が把握できず、銀行口座に記された沢渡からの入金記録も何のことか理解出来ない。沢渡からの返済が途絶えても何をどうすればいいかわからない、といった具合に。

 沢渡はカウンター席から立ち上がると「マスター、お勘定をお願いします」と西山に声をかけた。

 西山は一見客に接するときの愛想笑いを顔に浮かべながら沢渡からコーヒー代を受け取った。沢渡は金を払いながら石黒綾美の助言と伝授による自分のが成功したのだと思った。

 喫茶店を出ると、沢渡は西山の影の表層部を覗いたときに一瞬よぎった光景を思い出し、さっき飲んだコーヒーを戻しそうになった。西山と話していた若い男の尻に西山が腰を押し付けて振っている映像だった。二人とも全裸で、ポッチャリした大学生風の男は痩せた西山の腰の動きを素直に受け入れ、豚のようにキィキィ声を上げてよがっていた。

 もっとも、それが西山の願望の記憶なのか実際の体験の記憶なのかということまでは、わからなかった。





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