第7話 影の訪問
1
沢渡が石黒綾美と箕雄市で会ってから10日が経った。
沢渡はすでに自分が完全な状態にまで影に『回帰』している確かな手応えを感じていた。石黒綾美は例の麻痺感を箕雄市の滝のところで経験したのと同じぐらいのレベルまで感じるようになったら連絡してくれと言っていた。次の段階に進むための指示をすると言う。
だが『回帰』に対する興味に取り憑かれていた沢渡は彼女の指示を待っていられなかった。自分で次の段階に進もうと考え、その日の午後、滝のところで楓の樹を動かしたように、自分の店の事務所にあるものを動かそうと試みた。
自分が影を動かすのではない。影が自分を動かすのだ――そう意識すると、徐々に自分の肉体から触感が薄れ、ほどなく全身が完全に麻痺するのを沢渡は感じた。頭の天辺から足の爪先に至るまで、まるで他人の肉に触れているような感覚のまま、沢渡は部屋の中央に立ち、事務所の机においてあるノートパソコンに目を向けた。
天井の蛍光灯の光を受け、パソコンには黒い縁取りのような影がへばり付いていた。沢渡は事務所の床に映っている自分の影を見た。ボンヤリとではあるが、爬虫類のような形をしている。影に『回帰』した証だった。箕雄市の滝のところで見たヤモリのような影である。
沢渡はヤモリの肢を伸ばしてみた。細く伸びた影は事務机の側面を這い上がり、机の上にあるノートパソコンの影に触れた。沢渡はヤモリの肢が触れた部分を支点にパソコンの影を押し上げるように念じた。物理的な抵抗感が微かにあったものの意外なほどパソコンは軽く浮き上がり、50センチぐらいの高さにまで静かに上昇すると宙で止まった。
机には沢渡の影に掴まれたパソコンの影がボンヤリと溜まっていて、その上に浮かぶパソコンの姿は芸術的感性に富んだアート作品のようだった。沢渡は興奮を抑えながら凧の糸を引くように自分の影を手繰ってパソコンの影を制御し、パソコンがゆっくりと机の上に降りて行くように誘導した。
パソコンが静かに着地するのを見届けると、沢渡は部屋に置いてある金型の見本やカタログ冊子などを影を使って同様に動かしてみた。ことごとく成功し、思わず歓声を上げそうになったとき、ちょうど携帯電話の着信音が鳴った。石黒綾美からだった。
「思ったよりも簡単だった」
電話に出るなり、沢渡は自分の順調な『回帰』について報告し、事務所にあるものを影によって動かしたと伝えた。
電話の向こうで一瞬、沈黙があった。
こちらから連絡もせず、先走った行動を取ったことに対して咎めるような雰囲気を沢渡は感じたが、すぐに石黒綾美のにこやかな声が聞こえた。
「すごいじゃないですか。私が思っている以上に沢渡さんは『回帰者』としての資質に溢れていますね。でも……」
彼女は少し固い口調になって釘を刺すように言った。
「気をつけてください。『回帰』には命の危険を伴うような部分もありますから、慎重に、冷静に、段取りを踏まえて進めるようにしてほしいんです」
穏やかな口調だったが、沢渡は妙な違和感を覚えた。どこが妙なのか、どういう違和感なのか自分でもよくわからなかったが、彼女と初めて会ってから一度も感じたことの無いような異質なものがそこにあった。ただ単に沢渡を諌めているというのではない異質なものだった。
しかしそんなことなど気にならないほど、すでに石黒綾美と沢渡との親近感は深まっていたし、何よりも沢渡は自分一人の力で回帰できたことで有頂天になっていた。
「沢渡さん、明日お会いできないですか?」
更に詳しく、深く、『回帰』についてレクチャーしたいと石黒綾美が言う。しかも今度は自宅まで来てほしいと彼女は言った。志穂子の顔が頭を過ぎったが、沢渡はすぐにOKの返事をした。
2
石黒綾美の自宅は隣県の川石市に広がっている山間部にあった。
ペンションほどの大きさがあるログハウス風の建物で、近所に他の人家は無い。そこから車で15分の場所には高さが70メートル以上もある多目的ダムと人造湖がある。
沢渡の住むマンションからは車で一時間弱ほどの距離だった。行ったのは平日だったのでその程度で済んだが、休日にはダムの見学客や付近にある自然公園への行楽客が乗った車で混雑し、2時間近くもかかるような場所だった。
ログハウスの前には広い駐車場があった。駐車場と言っても整地も舗装もしていない野ざらしの土地だ。大きな岩や雑草が周囲を囲み、そこに乗用車5、6台が停められるだけのスペースがある。
軽自動車が一台、停まっていた。色がミントブルーの穏やかなフォルムの車で、女性が好みそうなデザインの車だった。石黒綾美の車だろう。
その車から少し離れた位置に自分が乗って来た白いライトバンを停め、車を降りた沢渡がログハウスの玄関の前に立ってインターホンを鳴らすと、玄関の扉が開いて石黒綾美が姿を現した。
「いらっしゃい」
石黒綾美は満面の笑みで沢渡を出迎えた。山間部の晩秋にはすでに冬の気配が感じられ、石黒綾美は厚手の茶色いジャケットの下にこの前と同じ黒い丸首セーターを着ていた。キュロットスカートは履いておらず、黒地に細い縞模様が入っているツイードのスカートをまとっている。沢渡も流行遅れのくたびれたものだったがセーターにスラックス、厚手のコートという出で立ちで寒さ対策をしていた。
家の中に入ると広い廊下の左手に応接間があった。そこで待っているように言われ、沢渡はソファに腰を下ろした。
応接間の壁には人物画や風景画、抽象画にトリックアートと、様々なジャンルの絵が架かっている。絵のことはよくわからない沢渡だったが、どれもあまり有名な画家の手になるもののようには見えなかった。
やがて石黒綾美が温かいコーヒーとマドレーヌを乗せたトレーを持って来た。沢渡と真向かいの位置に腰を下ろすと彼にコーヒーを勧めた。
昼前だった。若い頃はけっこう胃腸が丈夫だった沢渡だが、中年に差し掛かった今、コーヒーとマドレーヌが胃にもたれて昼食が食べられないような気がした。しかし沢渡はコーヒーのいい香りに釣られてコーヒーカップを口に運び、マドレーヌを咀嚼した。
「ここにあるのは全部夫が手に入れたものよ」
石黒綾美は愛おしそうに壁に架かっている絵画たちを見回しながら言った。
彼女の夫は美術商で、主に絵画を扱っていたとのことだった。この他にも夫が手に入れた絵画は数々あり、中には億近い買値になるものもあって、石黒綾美は夫が亡くなった当初、生活のため彼が所有していたそれらの絵画のうちの何点かを売り払っていた。
沢渡は何気なく壁の絵を見ていたが、見ているうちに共通点があることに気づいた。どれも影を強調した絵になっていて、描かれている人物や静物などよりも影の方が絵の占める割合が多いのだ。中には絵の99%が影だというものもある。どの絵も別の画家が描いたものらしく、色使いや筆使いはもちろん水彩や油彩といった絵の種類など一幅一幅異なってはいたが、影が異常に目立つ絵であることは同じだった。
3
その中にひときわ目を引く絵があった。荒涼とした黄色い大地に、鉛色をした異形の生き物が仁王立ちになっている。その足元から伸びた影が地平線の彼方まで伸びていた。
それは巨大な竜のような生き物だった。竜と言ったが、水墨画や西洋絵画、あるいはアニメなどに登場するような竜ではない。
もっと写実的なタッチの筆使いで描かれ、一般的な竜のイメージとは異なるグロテスクな姿をしていた。
頭部が竜の頭になっているが、その頭には眼球と思しき6つの光が灯っている。両手両足、尻尾の先も同じ竜の頭になっており、しかもそのどれにも目と思しき6つの光が灯っているのだ。
手足に灯っている光は見ようによっては爪のように見えなくもない。その怪物は竜の頭のような両手を振り上げ、両足は大地を踏みしめ、尾は大地を押さえ付けるように横に伸びている。首が6つある竜が天と地に向かって噛み付いているような奇怪な絵だった。
今にも絵の向こうからその鉛色をした怪物の咆哮が聞こえてきそうだった。絵画において竜は神の使いとして描かれることが多く、神々しささえ感じる場合があるのだが、その絵に描かれている竜からは邪悪さしか感じられなかった。沢渡は竜という生き物を実際に見たわけではないが、その生き物から全体として受ける印象は竜でありながら、竜とはかけ離れたものであるような気がした。むしろ首が6つもある奇形のヘビと言ったほうが相応しかった。
この絵を含め、ここにある絵はすべて影への『回帰』に目覚め、影へ『回帰』することを試み、研究した様々な先人たちの遺したものだと石黒綾美は言った。ある者は影に『回帰』することに覚醒した高揚感を自ら絵に描き、ある者はその研究成果を絵画という形で記録し、石黒綾美の夫はこれらの絵画を単なる趣味として、あるいは影への『回帰』の研究資料として買い求めていたらしい。
「昼食を用意しますから、ここで少し待っていてください」
石黒綾美はそう言って立ち上がると応接室から出て行った。
3
ペンションの食堂を思わせるようなダイニングルームで沢渡と石黒綾美は食事をした。
料理はクラムチャウダーだった。市販のレトルト食品ではなく、自分の手作りだと石黒綾美は言った。その言葉を信じるなら、彼女はかなりの腕前のコックだった。ホワイトソースのコクとアサリやベーコン、ジャガイモ、ニンジンなどの具材とが見事に溶け合っており、沢渡はその味を堪能した。
食事が終わると沢渡は二階の部屋に案内された。そこにはネットと繋がったデスクトップ型パソコンとプリンタが置いてあり、大きな書棚に大小、新旧、色とりどりの書籍の背表紙がぎっしりと詰まっている。
石黒綾美はパソコンのキーボードを操作していくつもの黒いシルエットをモニター画面に映し出した。シルエットは犬や猫、昆虫や魚など見慣れた動物のようなものもあれば、植物なのか何なのかよくわからない形状のものもあった。
「前にも電話で話したと思うんですが、回帰可能者の影にはそれぞれ固有の輪郭があって、影に回帰するとき影はおのずとその輪郭に沿った形になるんです。こういう影の輪郭を『影型』っていうんですけど、わたしが回帰するときの影型はもうご覧になりましたよね」
そう言って石黒綾美は書棚の横の壁に映っている自分の影を指さした。影は見る見るうちに大きな蜘蛛の姿と化したが、沢渡はもはや恐怖の欠片さえも感じなかった。
そんな沢渡を満足そうに眺めながら石黒綾美は「沢渡さんが回帰するときの影型はこれです」と言うと、パソコンを操作してサムネイル画像のようなシルエットの一つをクリックした。パソコンの画面いっぱいに黒いシルエットが広がり、沢渡はそれが箕雄市の滝のところで見た爬虫類のような影だということに気づいた。
石黒綾美はパソコンのキーボードを操作してプリンタを動かし、ヤモリに似たそのシルエットをA4の紙に出力した。彼女はそれをクリアファイルに入れ、さらに茶封筒の中に入れて封をした。
「回帰するとき、常にこの影型をイメージするように心がけてください。そうすれば回帰の速度が格段に上がって、瞬時に回帰できるようになりますよ」
沢渡は封をした茶封筒を御札か護符のようにうやうやしく受け取った。
4
それから沢渡は石黒綾美から影への回帰について、さらに詳しいレクチャーを受けた。影へ回帰するときの注意事項、影の形や大きさを変えるコツのほかに沢渡の動きを封じるために使ったような影によって人や物体の動きを制御する技術など、まさに魔法や超能力としか言いようのないものまで石黒綾美は沢渡に伝授した。しかもそれらはいずれも、いったん影に回帰すれば、程度の差こそあれ、誰でも身に付けることができるようなものばかりだった。
「今日はこのぐらいにしときましょう。帰るのが遅くなると、奥様が心配するでしょう」
窓の外が暗くなっていた。沢渡は石黒綾美に礼を言うと、玄関に向かった。
玄関に降りた沢渡の背中に石黒綾美が後ろからコートを羽織らせてくれた。室内はどこも暖房が効いていたので、コートを脱いで応接間のソファに置きっぱなしにしていたことを沢渡は思い出した。
肩にコートがかけられたとき、甘い香りがした。石黒綾美が使っている香水の匂いだ。上品な柑橘系の香りだった。
沢渡が振り返ると「二人で影についてもっと深く研究していきましょうよ」と、石黒綾美が真剣な顔で言った。うなづきながら沢渡は「また電話します」と言ってログハウス風の家をあとにした。
車で自宅へ帰る道すがら、沢渡は影への回帰の奥深さについて考えていた。まだまだ影についてはわからないことや解明するべきことがたくさんあるから、ぜひとも研究につきあってほしいと石黒綾美は彼に助力を求めていた。
彼女は自分たち以外にも回帰可能者が何人か存在するはずだと言っていたが、彼女が25年かかって探し当てたのは沢渡ただ一人だった。
仲間を探すことも影についての研究に資することになるだろう。だがその探索作業は困難を極めるに違いない。それに沢渡は仲間を探すことよりも、今は石黒綾美といっしょにもっと掘り下げた研究を進めることが大事だと考えていた。むしろ、石黒綾美と二人だけで研究を続けたい、仲間など居ないほうがいいとさえ思っていた。
沢渡は石黒綾美に対して女性としての魅力を感じ始めていたのである。
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